〔Book Review〕ベン・カッチャー/柴田元幸 訳『ジュリアス・クニップル、街を行く』

 本書は、「NYプレス」などの新聞に連載されてカルト的な人気を博したコミックス「ジュリアス・クニップル」シリーズの一冊を翻訳したものである*1
 クニップル氏は一昔前のニューヨークを思わせる都会で、クライアントに依頼されて店舗などを撮影するカメラマンをなりわいとしている。小さなバッグを首から吊るしソフト帽をかぶったクニップル氏が、律儀にコマ割りされた長方形の街路を歩き回り、一風変わった人々や奇妙な出来事に出くわすのだが、モノクロで描かれたうらぶれた路地やそこで暮らす人々が醸し出す一種乾いた叙情は、四〇〜五〇年代のニューヨークを撮り続けたタブロイド紙写真家ウィージーや、ウィリアム・アイリッシュレイモンド・チャンドラーらの世界に通じるものがある。
 たとえば、なじみのコーヒーショップに入ったクニップル氏はカウンター越しにショーケースを覗き込み、デザートのチェリー・ゼラチンの状態をチェックして、「飾りは缶詰の桃、16分の7は売れ、差し込まれたスプーンは五時の角度」と仔細に観察する。そして隅のテーブルでデザートと格闘している男を見て、去年の春に別のコーヒーショップに入った時と同じで、それには「何かパターンがあるんだが、私の頭では見抜けない」と考え込む。それを見た食器下げ係の男が「ゼラチンをトレー一つ見て何がわかるってんだ?」と恋人に訴える。恋人は翌日職場で、交際に関する不満を同僚に愚痴る……。
 クニップル氏の細かな観察はまさに私立探偵はだしだが、こうした日常のささいな出来事を切り取ったダーティ・リアリズム風の描写が、では何を訴えているかというと、実は何も訴えてはいない。一風変わった人々や出来事を、蝶々をピンで留めるように長方形のコマのなかに蒐集する、そこに作者の本領があるように思われる。ときに「文学的コミック」などと呼ばれもするようだけれど、そうした意味ありげな「文学」に足を取られないところにこの作品の美質があるというべきだろう。


 作者ベン・カッチャーと本書をめぐる文化史的コンテキストについて、訳者のあとがきを援用しながら紹介しておこう。
 カッチャーはコミュニズムを信奉するユダヤ人の両親のもとでブルックリンに育った。大学でアートを学び、同人誌で漫画を描いていたカッチャーを見出して自分の主宰する漫画誌Rawやcutting edgeに彼の作品を掲載し、新聞に推薦したのは、『マウス』(晶文社)で知られるユダヤ人の漫画家アート・スピーゲルマンである。第一作の『安物商品たち――都市頽廃の快楽』が刊行され、ローレンス・ウェシュラーが雑誌「ニューヨーカー」で紹介すると、カッチャーの名は一躍有名となった。ウェシュラーは、中世ヨーロッパの驚異の部屋(ヴンダーカンマー)を現代に甦らせたジュラシック博物館のドキュメント『ウィルソン氏の驚異の陳列室』(みすず書房)で知られる「ニューヨーカー」のスタッフライター。本書に登場する珍妙(キュアリアス)な事物――四段変速抜け落ちた歯ポリッシャーとか自動巻き寝室用地震計とか――も、ジュラシック博物館に蒐集された珍品(キュリオジテ)にどこか通じるところがあるといえるかもしれない。
 あるいは、『ウィルソン氏の〜』にも触れられているドナルド・エヴァンズの架空の国の切手蒐集*2や、ジョゼフ・コーネルのシュールなオブジェ*3、そしてスティーヴン・ミルハウザーの『バーナム博物館』『イン・ザ・ペニー・アーケード』*4等々との近縁性も指摘できるだろう。ちなみに、この『ウィルソン氏の驚異の陳列室』を絶賛したのがアート・スピーゲルマンポール・オースターである。
 架空の街の奇妙な事物を蒐集した「カッチャー氏の驚異の陳列室」は、それゆえにかえってリアルな感触を読むものに喚起するにちがいない。なお、カッチャーの漫画の一部は彼のウェブサイト(http://www.katchor.com)で見ることができる*5

               (「図書新聞」2004年8月14日号掲載)
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ジュリアス・クニップル、街を行く

ジュリアス・クニップル、街を行く

*1:原著は、Ben Katchor,Julius Knipl, Real Estate Photographer:The Beauty Supply District,Pantheon Books, 2003.

*2:平出隆葉書でドナルド・エヴァンズに』作品社、に詳しい。

*3:美しい作品の幾つかは川村記念美術館が所蔵。チャールズ・シミック柴田元幸訳『コーネルの箱文藝春秋がカラー写真で収載している。

*4:いずれも柴田訳・白水社。『コーネルの箱』の原題が、Dime-Store Alchemy、そしてミルハウザーIn The Penny Arcade、という辺りにも嗜好の近さが窺える。

*5:このウェブサイトには邦訳版の本書の書影も掲げられている。