吾らは夢と同じ糸で織られている


 かつて何かで読んだことがあるか、あるいは、どこかで耳にしたことがあるか、いずれにせよなんらかの手段によって既知のフレーズであることは確かであるけれども、ふとした折にあたかも自分のオリジナルであるかのように口をついて出てしまう言葉というものがあって、十九世紀のフランス社会に流通していたそうした言葉たちを蒐集したものがいまフローベールの著書として岩波文庫に邦訳のある『紋切型辞典』であり、訳者の小倉孝誠が同書の解説で書いているように本来は『ブヴァールとペキュシェ』第二巻に収められるはずのものであったことはよく知られている。小倉孝誠は、紋切型は時代と文化に規定されており、「現代の日本で誰かが新たに『紋切型辞典』を編纂するならば、その項目と内容はまったくちがったものになるはずである」と書いているけれども、『紋切型辞典』を通覧したものなら、たとえば、個性といえばつねに「きわめて特異な」という形容詞が冠せられるとか、芸術家といえば「法外な金を稼ぐが、それを湯水のように浪費してしまう」とか、現代の日本にも通用するようなフレーズを見つけだすことはさほど困難ではないだろう。アーティストであるかどうかはアーティストの定義に関わるけれども、たとえばいま世間を騒がせている小室哲哉にたいする一般的イメージなど紋切型にほかならず、小室哲哉について新聞やTVなどを通じてしか知らない多くの人たちがこうしたイメージに彼を当て嵌めて頷きあうというのが紋切型の効用である。ついでにいえば浪費といえば湯水のようにと形容するのも、世間といえば騒がせていると一対で表現されるのも紋切型にほかならない。
 だからといって紋切型が歴史や文化を超越してつねに/すでに紋切型であったわけではない。シェイクスピアの舞台をはじめて見た人がこの芝居は紋切型のフレーズばかりで成り立っていると呆れたというジョークがあるけれども、シェイクスピアや聖書は紋切型の宝庫といっていいだろう。わたしのいちばん好きなシェイクスピアのフレーズは、We are such stuff as dreams are made on, and our little life is rounded with a sleep. (吾らは夢と同じ糸で織られているのだ、ささやかな一生は眠りによってその輪を閉じる――福田恆存訳)というプロスペローの台詞だけれども、これも紋切型というべきか。
 ナボコフはあるインタビューでパステルナークの翻訳した『恋の骨折り損』をくさしたついでにこう述べている。
 「パステルナーク自身は、翻訳のおかげでかなり助かっているんだ。銀の裏糸を付けた雲だとか、そんな常套句を翻訳すると、別の言語ではミルトンみたいに聞こえるんだな」*1
 たしかにある文化における紋切型も、別の言語体系においては手垢のついていない新鮮な表現となる場合がある。英語圏における紋切型やイディオムばかりを蒐めた便利な辞典があって、かつて書評に取り上げたことがある。通読した数少ない辞典のひとつである。ミルトンがけっこうたくさんあって面白かった。以下がその書評である。


    あなたの最後の奴隷は何が元で死んだか?


 What did your last slave die of?(あなたの最後の奴隷は何が元で死んだか?)

 奴隷所有者に問いかけている訳ではない。雑用を他人にやらせようとする相手に向かって「皮肉をこめて使う」そうだ。「コピー取ってくんない?」という上司に気の強そうなOLが鼻で笑って切り返す、というアメリカ映画の一場面を思わせたりしますね。「えーっ、なんで私がそんなことしなきゃいけないのォ?」と言うよりは、皮肉のきいたシャレた表現だと思う。

 そこが紋切型のポイントで、本書の監訳者・柴田元幸氏も言うように「カッコ悪い言い方も、はじめからカッコ悪かったわけでは」ない。「はじめはカッコよかったのだが、カッコいいと思ってみんなが寄ってたかって使っているうちに、手垢やら汗やらよだれやらがベタベタくっついて、カッコ悪くなってしまう。これが『クリーシェ』である」。

 だから英語ではクリーシェでも、日本語ではまだ「それなりに目新しさなりインパクトなり」がある場合もなくはない。たとえば…

 the seamy side of life(人生の縫い目が見える側)

 出典は『オセロー』4幕2場。人生の裏街道と言ってしまえば面白くもなんともないが、衣服の縫い目のイメージを重ね合わせることによってリアリティを生じさせている。さすがシェークスピアですね。日本語でも「彼の人生はつねに縫い目の見える側と接していた」というふうに使いたい。あるいは…

 ships that pass in the night(夜に通り過ぎる船)

 出典はロングフェローの詩の一節。つかのまの、その場限りの出会いのことだが、「時に性的な関係を指す」という。日本語で「行きずりの仲」と言えばただの紋切型だけど、「夜にすれ違い、すれ違いざまに言葉を交わしあう船のように、二人はつかのま身体を温めあった」と表現すれば、村上春樹じゃん? カッコいい! こういうのはどうだろう。

 close your eyes and think of England(目を閉じてイングランドのことを考えなさい)

 異郷で厳しい状況にある時、故郷を思って耐えよ、というアドバイスだが、これも我慢して「夫と性的関係」を持っている女性への助言に使われるようになったという。なるほど。日本語では「目を閉じて印旛沼のことを考えなさい」とか言うんだろうな。こうやって挙げているときりがないが、もう一つ。

 some of my best friends are....(私の親友にも……がいますし)

 「私は反ユダヤ主義者じゃありませんよ。親友にもユダヤ人がいますし」というように「偏見や偏狭さの口実に使われる」。現在では嫌味をこめて使うことが多いという。「動物の権利は支持しますが、やっぱり人間の権利も大事じゃないでしょうか。私の親友にも人間がいますし」というように。紋切り型であることを自覚したうえで、それを脱臼し、いわば逆手にとって使うというわけだ。なにやらポストモダンぽいです。

 本書の基本的効用は「どういう表現は一見カッコいいように見えて実はカッコ悪いのか、そしてそれはどのようにカッコ悪く、にもかかわらず誰はカッコいいような気がして使ってしまっているのか、等々、普通の辞書ではなかなか得がたい情報が得られることである」と柴田氏は述べている。
 そういう意味では、辞書として引くだけでなく、行き当たりばったり拾い読みするだけでも興味の尽きない読み物だと思うのは私だけではないだろう。なんてね。

 最後に、笑っちゃったのを一つ。

 do you come here often?(ここにはよく来るの?)

 ダンスパーティでのナンパ文句だったが、今では「冗談まじりに使われることの方が多い。たとえば、職業安定所でいつも顔を合わす人に言ったりする。」
                                      (bk1 2000.7.11)

英語クリーシェ辞典―もんきりがた表現集

英語クリーシェ辞典―もんきりがた表現集

*1:「ヴォーグ」でのインタビュー。若島正訳、『インタヴューズ 2』文藝春秋、1998所収。