〔Book Review〕『伊丹十三の本』



 伊丹十三とは一度だけ言葉を交わしたことがある。あれは伊丹さんが森田芳光監督の『家族ゲーム』に出演したときだから、もう二十年以上前のことになる。
 電話でインタビューを申し込み、実は近所に住んでいるのだと告げると、「じゃあ今からいらっしゃいませんか」と言われた。「でもテレコがないし」「私のをお貸ししますよ」ということで、自転車をキコキコ漕いでうちから10分ばかりの伊丹さんのマンションへ伺った。
 伊丹さんは映画やテレビで見るそのままの語り口の自然体で、こちらも緊張をほぐされてつい定期入れに入れていた飼い猫の写真を自慢げに見せたりもした。伊丹さんは森田監督の演出にしきりと感心していた。いずれ自分が映画を撮るときのために、彼の演出法を観察していたのにちがいない。『お葬式』で監督デビューを果たすのは翌年のことである。
 私には、というよりも、ある年代以上のものにとって伊丹十三は、映画監督でもなく俳優でもなく、なによりも最上級のエッセイストだった。私たちは伊丹十三のエッセイによって、ジャガーという車はジャギュアと発音すべきであり、スパゲッティはアルデンテでなければならぬということを学んだ。新潮文庫で次々と再刊されつつある『ヨーロッパ退屈日記』『女たちよ!』『再び女たちよ!』といった、今なお傑作と呼ぶほかはないエッセイ集によって、世の中には取るに足らぬことであっても、いや、取るに足らぬことであるがゆえにコダワらねばならないことがある、ということを学んだのだった。
 異性について、料理について、育児について、文房具について、日用品について、そして猫について、伊丹さんが語るものはなんであれ読むものを魅了せずにいない不思議な魅力に満ちていた。本書の「エッセイスト伊丹十三を語る」で誰もが異口同音に語っているように。
 本書は、そうした伊丹十三の魅力を余すところなく伝えている。幼年から青年時代のアルバム、愛用の品々、出演したTVやCMフィルムの画像、水彩画にデッサン(彼はデザイナーとして出発したのだった)、単行本未収録のエッセイ、そして「愛するノブコ」と題された原稿用紙に書かれた心を打つ妻への手紙……。望みうるかぎり最高の編集である。これに伊丹さんの肉声のCDが附録として附いていたら完璧といっていい。
 あれから二十年――。伊丹さんも、伊丹さんが褒めてくれた我が家の飼い猫も、今はもういない。

              (「マリ・クレール」2005年9月号掲載)
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伊丹十三の本

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