〔Book Review〕鴨下信一『日本語の呼吸』

 日本テレビの「エンタの神様」のエンディングは、はなわガッツ石松伝説に定着したようだが、この元ネタを記憶している人も多いだろう。かつて、ビートたけしのラジオ番組から広まった村田英雄伝説である。
 本書にも村田英雄の傑作なエピソードが紹介されている。
 演歌歌手の大御所、村田英雄が「王将」で一世を風靡していた頃の話。テレビ出演した村田英雄は、咽喉の調子が悪いため、曲の「キイを下げてくれ」と頼んだ。バンドはキイを下げて伴奏したのだが、村田御大は平然と原調のまま唄い出し、ズレたままワンコーラス唄いきり、こともなげにこう言ったという。
 「いやあ有難う、キイ下げてくれたおかげでうまくいったねえ」
 これは、ドラマの演出家として名高い著者が、音楽番組をやっていた頃の実話だそうだ。ビバ村田!
 ところでこの逸話が、本書のテーマとどうかかわるのだろう。
 村田英雄は「一種の絶対音感」を持っていた。歌手は音感が発達しており、とりわけ演歌歌手は「五線譜で表わせないような微妙な音」の表現に長けている。だから歌手は芝居(台詞回し)が上手い。
 つまり、「音と音の間に無限の音がある」のが日本語の特性だというんですね。たとえば西洋音楽で音階というように、英語の台詞は階段状に高低をつけて発声するが、日本語では坂道をらせん状に変化するように発声する。著者はこれを『ハムレット』と歌舞伎の台詞を例に挙げて説明しているのだが、この指摘にはうなってしまった。さすがに名演出家の言だけあって抜群の説得力だ。
 あるいは、こんな指摘がある。
 見れる、食べれるのラ抜き言葉が広まるのは「速くラクにしゃべるため」。若者のあいだに<平板アクセント>が流行るのも同じ。たしかにその方が速くしゃべることができる。著者は、凡百の日本語論者のようにこうした流行を慨嘆したりはしない。言葉が生き物であると熟知しているからだろう。
 だが、その弊害を指摘することも忘れない。発語スピードの増大に口の動きが追いつかなくなり、そのため<子音の脱落・転化>が生じてきたという。どういうことか。
 「下がる」のSaのSが脱落して「上がる」に聞こえたり、「梅雨」のTSuがFuに転化して「冬」に聞こえたりするのだ。サダム・フセインを耳で聞いてアダム・フセインと覚えたという笑い話さえ生じることになってしまう。最近、TVのバラエティ番組などでやたらと字幕が増えているのも、耳からだけでは判読できにくくなったからだろう。
 今まであまり語られることのなかった<音から見た日本語>論として、本書は数々の卓見に充ちている。

                (「マリ・クレール」2004年8月号掲載)
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【追書き】
 今月(10月)、文春新書で『誰も「戦後」を覚えていない』が刊行されたが、この無類のエンサイクロペディストを出版界はまだ充分に使いこなせていない。十冊に満たない著書はこの博覧強記の著者のごく一面を伝えるにとどまる。とかく演出家としての業績にばかり目が行きがちだが、著作家としての資質は在野の学者、たとえば森銑三三田村鳶魚らの近縁というべきだろう。「百物語」の演出ノート(『恐くて不思議な話が好き』劇書房)を一読すれば、文藝批評家としての見識の一端を窺うことができる。

日本語の呼吸

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