小中英之――その2

 前回、小中英之について書き始めたら、思いがけなく安東次男に筆を費やすことになった。安東に傾きすぎることを懼れて筆の及ばなかった点を若干補足しておく。
 安東が小中に歌集の刊行を「もう一、二年先を区切にしたらどうか」と示唆したのは、「歌にとってやや重要な自覚」のみに関わることでなく、というよりも結局すべてはそこに収斂するのであるが、捨てること、未練を断つことの大切さを伝えたかったのではあるまいか。十年に及ぶ初期歌篇を潔く捨て四年間の近作を厳撰した小中に、さらに捨てよと迫った安藤の厳しさが自らを律する厳しさであるのは言うを俟たない。どうでもいいものを捨てるのは誰にでもできる。真に難しいのは愛着の絶ちがたいものを捨てることだ。それは、はたして捨てるに値するほどのものか。「振捨てるのに必死になるほど、愛着の絶ちがたいものを、探すことが先決だ」
 渋沢孝輔は、安東のこの「蕪村との出会い」という一文を引き、 「その処世の姿勢から美意識、価値観に至るまで、ここには安東次男の面目躍如たるものがある」とし、「捨てることを知る者にしてはじめて未練の心もわかるのだ」と述べる*1。むろん私ごとき凡人には及びがたい境地である。 
 興を覚えて手元にある安東の著書をあれこれと繙読していると、こんな文章にぶつかった。「冬から春への変りめになると、なんとなく正徹の歌を思出す」という一文で始まる「正徹の和歌」というエッセイである*2。安東は、きまって二通りの歌を思い出すといい、対照的な正徹の和歌を二首ずつ掲出する。ここではそれぞれ一首ずつ引用してみよう。


 冴えつくす霜や氷を日のうちにあつめて四方(よも)にくだす影かな

 哀にも鳥のしづまる林かな夕とどろきの里はのこりて


 そして、安東は次のようなきわめて興味深い問題を提起する。


 「ところでごく最近まで、私は、「不叶(かなはざる)までも、定家の風骨をうらやみ学べしと、存(ぞんじ)侍るなり」と言った正徹の本音は、いずれの歌の側にあったろうか、とあれこれ考えて決めかねていた」


 正徹は室町期の僧、塚本邦雄が「あの正徹」と「あの」に傍点附きで呼んだ歌人である。松(招)月庵と号し、藤原定家に傾倒した。家集に『草根集』がある。塚本は『竹林集』*3の月報に「絃楽七重奏」と題した文章を寄せ、心敬を論じると思いきや、心敬の師正徹に大幅に筆を費やし、正徹の歌を十二首も引用する。『竹林集』は宗祇を編者とする連歌の詞華集であるが、塚本は七人のメンバーのひとり心敬の歌を七首、宗祇の歌を四首、引用しただけであとの六人は一顧だにしない。いかにも塚本邦雄らしい評論である。

 塚本は「わたりかね雲も夕べをなほたどる跡なき雪の嶺のかけはし」を正徹の代表作に挙げ、


 「俊成以来の、中世サンボリスムの理想の文体「行雲廻雪」を、定家の名作である「夢の浮橋」と「夕日さびしき山のかけはし」の両首本歌取りで実証した。語句の斡旋のユニークなこと、大胆で時に晦渋なこと、六百番歌合当時の定家の「達磨歌」を思はせて頼もしい」


と論じる。塚本なら安東の上記の「問題」など歯牙にもかけまい。
 では安東はどうか。先の文につづけて「今年の新春、微恙の床で「草根集」を読返してみて、いま一つ次のような歌にも、妙に心がとまった」と、次の歌を挙げる。


 夕まぐれ野飼の牛はあゆみきてかすめる道に逢人もなし


 安東はこれを「ただ事歌」としながら、


「しかし、「不叶までも」と言った歌僧の風骨は、さきの二系列の歌よりもむしろ、この写生即帰依の歌ぶりにいっそうよく現れているのかもしれない、とそのときふと思った。これは定家が、その細緻の語法を駆使して、ついに到りえなかった道である」


と断言する。下の句「かすめる道に逢人もなし」は「古今独歩である」とまで称讃するが、なにやら剣の達人の寓話を思わせる論の運びではないか。絢爛たるレトリックを駆使して悦に入っているうちはまだ青い。歌の精髄はこうした一見なにげない歌のなかにこそひそんでいる。安東はそういいたいのだろうか。安東は書いている。


 「こういう歌を和歌としてよく胸に畳んでおくと、茂吉の「ゆふ渚もの言はぬ牛つかれ来てあたまも専ら洗はれにけり」というような歌が、これはこれで真なる理由がよくわかる」


 これが茂吉のどの歌集に収められた歌か私に不明である。塚本邦雄の『茂吉秀歌』全五巻にも見当らない。茂吉のこの歌もまた安東に言わせれば「写生即帰依の歌ぶり」ということか。

 私はと言えば、いまだ「わたりかね」の方に興が動く。だが、斎藤史を慕って短歌結社「短歌人」に入会した小中英之が、そして「欲望はみどりの投網」と詠った若き小中英之が、「写生即帰依」か否かはいざ知らず、やがて独自の「風骨」を獲得するに到ったのはこうした師安東次男の「言葉に深くそいながら」の研鑽の賜ではないか、と思わないでもない。
 やや脇道に逸れたが、次回は小中の歌について、そして忝い好誼についてもふれてみたい。
                              (この項つづく、敬称略) 


花づとめ (講談社文芸文庫)

花づとめ (講談社文芸文庫)

*1:「『芭蕉七部集評釈』をめぐって」、安東次男著作集 第三巻、附録「手帖Ⅳ」、青土社

*2:『花づとめ 季節の歌百三章』、中公文庫版、現・講談社文藝文庫

*3:新日本古典文学大系49、岩波書店