夢の種子
1
「夢か……」
睡りからさめたたけしは、言いようのない哀しみにとらわれた。
夢中で遊んでいる最中に、いつか遊びにも終わりがくると考えたときの切なさに、それは少し似ていた。夢のつづきを見ようと目をつぶったけれど、もう睡りはおとずれてくれなかった。
そうだ、忘れないうちにだれかに話さなくっちゃ。たけしはベッドからとび起きると台所へかけて行った。
「ねえねえ、おかあさん、ぼく、なんの夢を見たと思う?」
「さあ、なにかしら」
かんたんに答えを教えるのは、ちょっとしゃくな気がした。
「教えてあげようかな、どうしようかな」
パジャマのままでテーブルの前にすわっているたけしをせきたてるように、母親が言った。
「はやく着替えてごはんを食べないと、学校におくれるわよ」
「ふんっ、もう教えてやらないからね!」
大急ぎでごはんをかき込むと、たけしはランドセルをかかえて家を飛び出した。
2
たけしが五年二組の教室にかけ込むと、ちょうど始業のベルが鳴った。
席についたたけしは、前の席のさとるの背中をつっついて言った。
「ぼく、すごい夢を見たんだ」
ふり向いたさとるは「ぼくもだよ」と鼻をふくらませて言った。
「なんだと思う?」
「さあ。でも、ぼくのほうがきっとすごいよ」
たけしがそう言うと、さとるは「じゃあ、一、二の三でいっしょに言おうよ」と提案した。
「一、二の三」ふたりは声をそろえて大声で言った。
「恐竜!」
「ええっ?」
素っ頓狂な声を出したのは、たけしでもさとるでもなく、たけしのとなりの席のユミだった。
「うっそー。恐竜の夢見たの?」
ユミは、まるい目をいっそうくりくりさせて言った。
「そうだよ。それがどうかしたの?」
たけしがそう言うと、ユミは秘密をそっとうちあけるように小さな声で、だが力を込めて言った。
「わ・た・し・も!」
「ええっ?」
今度は、たけしとさとるが声をそろえて素っ頓狂な声のお返しをする番だった。
「そんなことって、ある?」ユミはふしぎそうな顔でふたりに問いかけた。
「だれかほかに見たやつがいないか、聞いてみようよ」
さとるがそう言って、前の席のまことの背中をつっつこうとした時、担任の渡辺先生が教室に入ってきた。
3
休み時間になるのを待ちかねて、たけしはノートの端を定規で切りとって、そこへ次のような質問を書いた。
「昨日の夜、恐竜の夢を見た人はいませんか? もしいたら、名前を書いて次の人にまわして下さい。 しぶさわたけし」
たけしの元を出発した〈しつもん〉が、先生の目をぬすんで回遊魚のように教室をひとまわりして、またたけしの手元にもどってきたちょうどその時、渡辺先生の大きな声が天から降ってきた。
「しぶさわ!」
たけしはびくっとして、心臓が一センチほどきゅっとちぢんだような気がした。
「はい!」
「読んでみろ」
あわてて国語の教科書を目の前にかかげたたけしに先生が言った。
「教科書じゃない。ノートの下にかくしたその紙だ」
バツのわるそうな顔をして、たけしは〈しつもん〉を読みあげた。
「ほう、恐竜の夢か」先生は興味深そうにたずねた。「それで、だれの名前が書いてあったんだ?」
「吉田聡、市橋弓、それにぼくです」
4
けっきょく、クラスのなかで恐竜の夢を見たのは三人だけだった。
「ふしぎなこともあるもんだな。三人はよっぽど仲がいいんだな」渡辺先生はそう言って笑った。さいわいたけしは怒られずにすんだけれども、ふしぎな出来事はそれだけではなかった。
いや、これはその後におこる山ほどのふしぎのささやかな始まりにすぎなかった。
5
その夜、五年二組の何人かの子どもたちの夢に恐竜があらわれた。
恐竜を見たのは、まことをはじめとするたけしのまわりの席の子どもたちだった。翌日の教室は、その話題でもちきりになった。
そしてその夜もまた、夢に恐竜はあらわれた。池になげた小石がえがく波紋のように、夢は円弧をえがいてまわりの席の子どもたちに次々とひろがってゆき、あっという間にクラス全員の夢に恐竜が棲みついた。
恐竜の夢は、五年二組からとなりのクラスへ、上の学年から下の学年へとひろがり、たちまち小学校すべてをおおいつくした。そしてそれはさらにとなりの小学校、中学校へと、すばらしい勢いでドミノ倒しのように伝播していった。
ただ、ふしぎなことに恐竜の夢を見るのは中学生以下の子どもたちに限られていた。ときおり高校生で見るものもいたが、それは数少ない例外だった。恐竜は大人の夢にはけっして近寄ろうとはしなかった。
子どもたちの夢にあらわれる恐竜は、かれらをおびえさせるものではなかった。
はるか遠い昔にたしかに存在した、地球上でもっとも大きな生きもの。だけどそれは、夢見る子どもたちをその巨大なからだでつつみ込むやさしさと、凛とした力強さとをかねそなえた、たぐいまれな生きものだった。
子どもたちは、言葉でしっかりとつかまえなければ手のひらにのった淡雪のように一瞬で消えてしまうとでもいうように、夢で見た恐竜についてくりかえしくりかえし話して倦むことがなかった。
大人たちは、子どもたちの見るふしぎな夢の秘密をなんとかして解きあかそうとこころみた。医者や心理学者たちによるチームが結成され、子どもたちをあつめて診察したり脳波をしらべたりしたが、はかばかしい結果はえられなかった。
恐竜の夢は、やがて海を越え、世界中にひろがっていった。
6
何年かがたって、恐竜の夢はもはやふしぎではなくなった。
世界中のすべての子どもたちの夢に恐竜はひとしなみにあらわれた。恐竜の夢を見ない子を心配した親が医者に相談にくることもあったが、医者はやさしくこう言い聞かせて帰すのがつねだった。
「ご心配にはおよびません。個人差はありますがいずれ出てきますよ」
医者の言うとおり、どの子の夢にもほどなく恐竜はあらわれた。
子どもたちは、大きくなるにつれて恐竜の夢を見なくなった。だけど、少年の夢に颯爽とあらわれた恐竜の記憶を大人になっても胸の奥に大切にかかえて誰もけっして忘れはしなかった。
巨大なからだでつつみ込んでくれるやさしさと凛とした力強さとをかねそなえた、たぐいまれな生きもの――。
子どもたちは――そう、たけしもさとるもユミも――みんな大人になった。大人になり結婚して生まれた幼な子にひとしく夢の種子は撒かれた。
たけしは息子を龍雄と名づけ、たつおの夢に恐竜があらわれる日を待ちわびた。かつての自分のように、「ぼく、すごい夢を見たんだ」と目を輝かせて言う日のくることを。
そうしたら言ってやろう、とうさんも子どものころよく恐竜の夢を見たものさ、と。
7
その日がやってきた。
たつおの夢に、ついに恐竜のあらわれる日が。
かつて、たけしの見た恐竜のように、それは言葉に言いあらわすことのできない、まさに夢の生きものだった。
そして、たつおが目覚めると――
恐竜はまだそこにいた。
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これはアウグスト・モンテローソの超短篇小説に触発されてJuvenileとして書いたものです。イタロ・カルヴィーノはハーヴァード大学で行なったいわゆるノートン講義(かのT・S・エリオットやボルヘスらが行なったもの)の第二回目で次のように語っています。
「(ボルヘスの作品の簡潔さを称揚したのち)ボルヘスとビオイ・カサレスは『怪奇譚集』一巻を蒐集しています。私ならただの一文、できればただの一行だけの物語を蒐めてみたいところです。しかしながら、今までのところグワテマラの作家アウグスト・モンテローソのもの――「目を覚ますと、それでも恐竜はそこにいた」――を超える作品は一つも見つかっておりません。」
(『カルヴィーノの文学講義――新たな千年紀のための六つのメモ』米川良夫訳、朝日新聞社、1999年)
ボルヘスがどこかで書いていたように、短く書けるものを徒らに長く書くなど莫迦げた振舞いに違いありません。この拙作など莫迦の骨頂以外の何者でもないでしょう。しかしモンテローソの西班牙語でわずか七語の類い稀な傑作にはその莫迦げた振舞いを誘発して已まない魅力があるようです。それにしても他人の作品をまるまる全篇引用して作品をつくるなどという振舞いが果たして赦されていいものでしょうか。