〔Book Review〕J・C・カリエール、G・ベシュテル編/高遠弘美訳『珍説愚説辞典』


 世に「あまたある珍にして愚なる言説」を蒐集して、項目別に編纂したのが本書である。
 澁澤龍彦が「世間には物好きな人間がいたもので、こんな人を食った、人間精神の愚かしさをまざまざと見せつけるような、笑いと毒にみちた辛辣な著作はあんまり例がないであろう」(『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』*1)と書いていて、そんな本を出すような物好きな翻訳者も出版社もいないだろうと思っていたのだけれど、いましたね、これが。
 「どれもこれも、あんまり馬鹿馬鹿しくて、思わず吹き出したくなるような文章ばかりである」と澁澤は書いているけれど、例えば「横隔膜」という項目を要約して抜き出すと、
 ――「知性の繊細さは横隔膜に起因する。肉がなく、薄く、神経でできているのはそのゆえである」。陽気さも横隔膜に宿る。「横隔膜の上にあたる腋の下をくすぐることで得られる結果をみれば一目瞭然である」。戦争や剣闘士の試合で「横隔膜を刺し抜かれた男たちが、笑いながら死んでゆく」のはそのせいである――
 「なんとまあ、見てきたような嘘を書くものだ」と澁澤も呆れているが、むろんこの文章の著者であるプリニウスは大真面目なのである。これは紀元78年に書かれた『博物誌』からの抜粋であるが、当時の人々は腋の下に知性があると信じていたのだろうか。ハートにあるのか脳にあるのかよく知らないが、下半身にないというのは現代では定説となっている……。
 「珍説愚説は何よりも、その時代の鏡である」本書の二人の編者は、序文にそう記している。「ある時代の愚かしさを白日の下に晒すことは、おそらく、当時の輝かしい出来事だけを綿密に調査するよりずっとその時代についての理解を深めてくれる」と。
 歴史とは、おおむね「輝かしい出来事」によって綴られるものである。フランス革命とかコンスタンティノープルの陥落とか、ですね。しかし、マリー・アントワネットやメフメト2世だけで歴史が成り立っているわけではない。いわゆる名もなき民衆たちの日常生活こそ歴史そのものじゃないか、そう主張して歴史に埋もれた人々の慣習に目を向けて歴史を再構成したのが「アナール学派」と呼ばれるフランスの歴史家たちだった。
 本書の編者たちも、おそらくそうした近年の歴史学に影響を受けて、この仕事に取りかかったのにちがいない。と思うのだけれど、そう書くとなんだか立派に見えてしまうなあ。ホントは「なんて馬鹿なこと書いてやがんの」とウヒウヒ喜びながら集めたのではないだろうか。
 「自転車は漕がなければ進まない」 ――「アントランシジャン」1906年12月14日
 だって、こんなのを見つけると、ついハマっちゃうものね。

                (「マリ・クレール」2003年12月号掲載)
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珍説愚説辞典

珍説愚説辞典

*1:

都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト (学研M文庫)

都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト (学研M文庫)