消えた新聞記者・大庭柯公



 昨夏、「ハルビンの大庭柯公」(id:qfwfq:20100829)という短文で、柯公大庭景秋の閲歴にふれて「信頼のおける伝記がないのかもしれない」と書いたが、これは早計だった。伝記は公刊されていた。先だってたまたま手にした内村剛介編集の雑誌「初原」創刊号*1に、久米茂「大庭柯公の生と死」という文が掲載されており、同氏に『消えた新聞記者』(1968年・雪書房)という著書のあるのを知った。取り寄せてみると450頁になんなんとする浩瀚な伝記である。著者は柯公と同じジャーナリスト、産経新聞の記者だった人。同書によって柯公の経歴を辿ってみよう。
 大庭景秋は、1872(明治5)年7月27日、山口県長府町(現下関市)に大庭景明・とき子の三男として生れる*2。4歳のとき、父とともに大阪へ転居する。その折に生別した母は、2年後、景秋が6歳のときに長逝する(享年46)。さらに東京へと転居し、景秋12歳のみぎりに今度は父が長逝する(享年52)。父が太政官(官庁)に勤めていた伝手であったか、景秋は13歳で太政官の給仕となり、夜は神田の英語学校に通う。苦学生である。19のときに古川常一郎にロシア語を教わる。古川は元東京外語の教師で、二葉亭四迷の師として知られる人である。ちなみに東京外語はいったん廃校となったが再び発足し、古川と二葉亭とはロシア語科の同僚となるのである。
 四迷長谷川辰之助は1864(元治元)年生れだから柯公より8歳上ということになる。柯公はこのロシア語の先輩から大きな影響を受けたようだ。とりわけ二葉亭のロシアに関する知識は「ほとんどそのまま柯公に受つがれた」と久米茂は書いている。「ロシアの自然、地理、歴史、政治、文化、社会、風俗、習慣、言語、日露交渉史、民衆の生活の末端にわたるまで、じつに驚嘆するほどの知識と理解を身につけた」。そして「のちには、古川や二葉亭を越えるロシア通となった」と。
 二葉亭四迷は露国で肺炎・肺結核に罹り、帰国の途次、ベンガル湾洋上で客死する。1909(明治42)年5月10日午後5時15分、享年46。柯公が「日本及日本人」同年6月号に寄せた追悼文「対露西亜の長谷川君」が四迷全集*3に収載されている。柯公は晩年まで二葉亭を敬愛し、二葉亭先生と書いた文もあると久米茂は書いているけれども、この追悼文では終始「長谷川君」である。明治のことゆえ「君」はむろん尊称である。
 前回、書いたように柯公は24歳のときにウラジオストクの商館に勤める。ちなみにこの頃、内田良平もウラジオで柔道道場を開いており、ふたりに交遊があったのではないかと久米は推測している。かりに国士内田良平との親交が裏付けられると面白いことになりそうだ。内田のサイドから調べると何か出てくるかもしれない。26歳で柯公は帰国し、2年後に結婚する。


 さて、ロシア通・柯公について久米茂は「ロシア革命とその歴史にかんする論評と紹介(とくに一九〇五年から一九一七年にかけての革命運動とレーニントロツキーなどの人間像)の正鵠さについては当時――大正中期――並ぶものがなかった」*4と書いている。十月革命に関するわがジャーナリズムの報道が「“無秩序”“無政府”“残虐”“大混乱”“強盗跳梁”“恐怖の巷”」といった「妄言、罵言が連日紙面をおおう状態」であったなかで、レーニンの経歴、思想、ロシア革命の意味を正確に理解していたのは柯公ら、ほんの一握りのロシア通のみだったろうと思われる。
 ジャーナリスト・柯公の閲歴は1906年(34歳)の大阪毎日新聞入社を振出しに、東京日日、東京朝日(1918年に白虹事件*5で退社)を経て、1919(大正8)年に論説部長主筆として読売に招かれる。内田魯庵与謝野晶子、山川菊枝、平塚明子らに寄稿させ、翌年、堺利彦荒畑寒村らとともに日本社会主義同盟を創立する。
 翌る1921年5月、柯公は革命後のロシア探訪に出発、7月「見たままの極東共和国――チタを発するに臨みて」を発表。10月にモスクワ到着の電報を読売本社に送り、以降、音信を絶つ。その後の柯公の動向はすべて伝聞・風評によるものである。1922年、モスクワ監獄に投ぜられたという風説が伝わり、高尾平兵衛と片山潜が連名で柯公の釈放願いをコミンテルンに提出、いったん釈放許可が出たが再度投獄される。1923年、日ソ国交交渉で来日したソ連代表ヨッフェに東京十五新聞社有志代表が釈放を迫り、釈放の通知があったというヨッフェの声明に、読売は帰国旅費500円をモスクワへ送るが柯公からは音沙汰なし。1924年、シベリアへ向けて帰国の途次、軍事探偵の嫌疑で銃殺されたとの噂がとどく。
 久米茂は本書のあとがきで、無学のため対ソ関係の資料などに当たることができなかった、と謙遜しつつこう書いている。


 「たとえば、柯公がソ連官憲にマークされながらも、出席して立ちはたらいた「第一回極東民族大会」(「極東勤労者大会」)については、日本の学者の中にもかなり研究がすすめられているが、その論文の価値判定ができなかった(横浜市大論叢第十七巻にある、山極晃氏の「極東民族大会について」など)。
 こういうことで、本書は欠陥だらけだと思う。あるいは、誤記があるかもしれない。有能な人によって、完ぺきなものが書かれることを願う。だから本書は、柯公略伝の下書きである。」
 

 当時のソ連の公文書が保管されていれば、柯公の死の真相があるいは明らかになるかもしれない。資料を博捜して堺利彦の伝記『パンとペン』を執筆した黒岩比佐子のような作家が柯公の生涯を掘り起こしてくれることを期待したい。それまでは、本書は大庭柯公を知るための第一級の資料であるという価値を失わない。

*1:「初原」創刊号、現代思潮社・1970年12月刊。

*2:『消えた新聞記者』に附された大庭柯公年譜は、柯公全集第5巻収載のものを元に著者が作成した由だが、Wikipediaでは父の名を傳七としている。コトバンク(朝日日本歴史人物事典)では景明。

*3:新書版二葉亭四迷全集第9巻、岩波書店、1965年

*4:久米茂「大庭柯公の生と死」、「初原」創刊号。

*5:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%99%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6