拾う



 片岡義男の書くもの、とりわけ日本語に関するエッセイにはいつも驚かされる。思いもよらない角度からの指摘に意表を衝かれ蒙を啓かれる、といったふうである。「図書」2月号のエッセイ「西伊豆でペンを拾ったら」(連載「散歩して迷子になる」の第35回)も、そうしたエッセイのひとつである。
 片岡義男がまだ二十代の頃、新宿ゴールデン街の飲み屋で田中小実昌に行き遇った、という。「西伊豆でね、俺はね、ペンを拾ったんだよ」と、コミさんは片岡義男に話しかけた。「テディ、お前さあ」とコミさんはいう。片岡義男は当時、テディ片岡という名前で雑誌にコラムを書いていたのである*1。「西伊豆でペンを拾ったことを英語でなんと言うか、お前、わかるか」。むろん、コミさん一流のジョークである。そう察した片岡義男は、こう答えた。「ニシ・イズ・ア・ペン」。
 「僕がもっとも注目するのは」と片岡義男は書く。


 「西伊豆でペンを拾った、という文章のなかにある「拾った」という言葉がものの見事に省略され、西伊豆とペンとが直結されている様子だ。なぜなら、省略された「拾った」のひと言は、僕の日本語がかかえる根源的な問題点を、照射しているからだ。」


 片岡義男が英語と日本語のバイリンガルであることはよく知られている。バイリンガルにもかかわらず、なのか、バイリンガルゆえになのか、は不明ながら、「自分の日本語は英語からの拘束をかなり深いところで受けているようだ」と片岡はいう。つまり「拾った」という言葉を、片岡は「自分の日本語」として使うことができないのだ、という。なぜなら――


 「「拾う」という言葉が、英語にはないからだ。」


 これには驚いた。そうかそうか。英語に「拾う」はないのか。海岸を歩いていた女性がふと目にとめた貝殻を拾う。日本の作家ならたぶん「貝殻を拾った」と書くだろう。だが、片岡義男はそう書くことができない。「しゃがんで手をのばし指先につまみ上げた、といった書きかたを僕はするにきまっている」という。なるほどね。片岡義男の小説のあの特徴的な文体はそこに秘密があるのだな。
 「指先につまみ上げ」るという動作を英語でいうなら、pick up だろうか。「道で財布を拾った」を英語でいうと、I picked a wallet up off the road. となるのだろうか。たしかに道から財布をつまみ上げたということならこれでいいのかもしれないが、日本語でいう「拾う」とはニュアンスがいささか異なっている。辞書を引いてみると、こう書かれていた(ヤフーのサイトの「プログレッシブ和英中辞典」)。


「通りで財布を拾った」 I found a wallet on the street.
 見つけたらそりゃ拾うだろう、ということか。
「ぎんなんを拾っている」は、I'm gathering ginkgo nuts.
 落ちているのは前提で、それを集めているというイメージか。


 片岡義男も書いている。「拾うからには、それは地面やフロア、あるいは足もとに近い低いところに、「落ちて」いなければならない、という大前提がある。ただ単に位置的に低いところにあるのではなく、「落ちて」いるという、意味上の大前提を持つ」と。
 和英辞典の用例には、上に挙げた二つの例のほかに、たくさんの「拾う」がある。抜書きしてみよう。


2 〔受ける〕の意味で。
 「あの選手のサーブは拾いにくい〔バレーボールで〕」 That player's serves are hard to receive.
3 〔選んで取る〕の意味で。
 「詩の中の気に入った表現を拾う」 select [pick out] one's favorite expressions [phrases] from poems
 「歴史上の重要な事件を拾う」pick out important events in history
 「活字を拾う」set type
「いろいろな情報を拾う」gather varied [bits of] information

II
1 〔失わないで済む〕の意味で。
「勝ちを拾う」manage to scrape through to victory/(口) pull a game out of the fire/win by the skin of one's teeth
「幸運を拾う」hit upon [have] a bit of luck
「彼は危ないところで命を拾った」He had a narrow escape from death.
2 〔車などをつかまえる〕の意味で。
「通りで車を拾った」I flagged down a taxi in the street.
「駅でタクシーを拾った」I got a taxi at the station.
3 〔苦境から救い出す〕の意味で。
「困っていたときに山田氏が拾ってくれた」Mr. Yamada took me in when I was in trouble.


 すごいね。「拾う」という一語にこれだけ意味の広がりがあるのだからね。これらをすべて「拾う」と表現してなんの違和感もないのはすごいというしかない。
 片岡義男は、日本語で文章を書くときに、無意識に「拾う」という言葉を使うことはない、という。つまり、英語に「拘束」されている彼の思考には「拾う」という行為も言葉も存在していないからだ。
 日本語と英語とのあいだに横たわっている溝は深い。日本のどこかの企業が社内での公用語を英語にするという。TOEIC何点以上取らなければ出世できないという。日本語を母語とする人が英語で会話をしたり英語の文章を読み書きしたりすることは、ある程度のトレーニングをつめば問題なくできると考えられている。だがそれは、ある種の錯覚と思い上がりによるものだ。英語を母語とする人が、片岡義男が例に挙げている「どうせ拾った恋だもの」という決まり文句のもつ陰翳を理解するには目の眩むような膨大な時間とトレーニングを要するだろうように。
 そんな細かいニュアンスなどどうでもいいじゃないか。とにかく通じればいい、というプラグマチックな立場も当然あるだろう。わたしもそれを一概に否定するものではない。だがそこには「ある種の錯覚」の存在が前提とされているということはいつしか忘れられてゆく。The two are practically the same. あるいは、There isn't much difference.として。
 中野重治がどこかで書いていた。「それは五十歩百歩だ」というときの五十歩と百歩には大きな差はないように思えるけれども、そこにはたしかに五十歩の違いがあるのだ、と。そのちょっとした違いが大切なのだ、と。
 「財布を拾うのは、日本の文化のなかに深く根を降ろしている、伝統的なことだ」と片岡義男は書く。日本の文化とアメリカの文化とイギリスの文化と××の文化と…、それらの間にある「五十歩の違い」を無視しなければTOEICなど覚束ないだろう。「五十歩の違い」などに拘泥しない人々がいて、それをよしとする社会がある。そんな社会にあなたは住みたいか?

*1:コラムニスト・テディ片岡にはわたしも記憶がある。同じくコラムニスト野坂昭如が黒眼鏡の「プレーボーイ」ともてはやされていた頃だったと思う。