〔Book Review〕ポール・オースター『ミスター・ヴァーティゴ』


 オースターの『空腹の技法』に「サー・ウォルター・ローリーの死」というエッセイがある。サー・ウォルター・ローリーは、十六世紀のイギリスの探検家。ジェームズ一世を謀殺しようとしたかどで幽閉され、十三年間にわたる獄中生活をおくった。オースターはロンドン塔の石壁に囲まれたローリー卿の孤独について考察し、次のようにしるしている。
「生きることの技法というものがもしあるとすれば、人生をひとつの技法として生きる人間は、自分のはじまりと自分の終わりを明確に意識するだろう。そしてさらに、自分の終わりは自分のはじまりのなかにあることを彼は知るだろう、彼が吸う一つひとつの息がその終わりへと彼を近づけていくばかりであることを知るだろう」
 最近のアメリカ映画なんかだと、受刑者も刑務所の中庭かなんかでバスケしたりして、それなりに囚人ライフを楽しんでるみたいだけど、こっちはあのロンドン塔に十三年間閉じ込められたんだから生半可じゃない。オースターはローリー卿の怖ろしいほどの孤独に感応したにちがいない。このエッセイは一九七五年、つまり作家としてデビューするずいぶん前に書かれたものだが、ここには作家オースターの核のようなものがすでに明確な形をとって表われているように思われる。
 のちに作家となったオースターへのインタビューで、聞き手はこのエッセイにふれつつ、こう問いかける。「あなたが描く登場人物たちは、幽閉という極限状態と、それとは逆のはてしない、多くの場合転々とさすらう放浪とのあいだを揺れ動きます」。オースターは聞き手の指摘をうべないつつ「同時に、ここには奇妙なパラドックスがある」と応えている。「つまり、私の本の登場人物たちは、もっとも制限されたときにもっとも自由であるように思えるんだ」
 本書『ミスター・ヴァーティゴ』もまた、ひとりの人間の幽閉と放浪の物語といっていいだろう。主人公は、ウォルター・ローリー。といってもかの探検家ではなく同じ名をもつ九歳の少年だ。セントルイスの浮浪児だったウォルトはイェフーディ師匠に拾われて、三年間の厳しい修行の末に空中浮揚の技を身につける。そして〈ウォルト・ザ・ワンダーボーイ〉の名でデビューした十二歳の少年は、師匠と二人三脚の公演の旅を続けることとなる。少年にウォルター・ローリーの名を与えたとき、この探検家の「生きることの技法」がオースターの頭になかったはずはない。「俺はもうウォルター・ローリーじゃない」と少年はいう。「一日に一時間だけ、ウォルト・ザ・ワンダーボーイに変身する小僧ではない。いまの俺は、骨の髄までウォルト・ザ・ワンダーボーイ、空中にいるとき以外は存在しない人物なのだ」
「人生をひとつの技法として生きる」とは、自分を「一人の見知らぬ他人」として生きることなのかもしれない。「幽閉」とは、厳しい監視下で血のにじむような修行を課されたり(何度も脱走を試みるけれど)、悪漢どもに誘拐されて監禁されたりすることではなく、自らを石壁の中に閉じ込めて、いわばランボーのように他者の生を生きるという体験なのだろう。オースターの言葉にしたがえば、ウォルト・ザ・ワンダーボーイとして生きるとき、彼は自分を「もっとも自由である」と感じていたにちがいない。
 浮揚があれば落下がある。ウォルトはやがて「重力の復讐」に見舞われる。イェフーディ師匠は飛べなくなったウォルトに三つの道を提案する。第一は引退して普通に暮らす。第二は各地を講演して回る。第三はハリウッドへ行って映画俳優になる。むろんウォルトは三番目の道を選んで「レースに復帰」するのだけれど、ことは筋書きどおりに運ばず、一身にして二生を経るがごとき「放浪」の後半生(十代で!)へと突入することになる。
 お楽しみはこれからだけれど、もはや余白が尽きた。ウォルトがイェフーディ師匠に拾われたときに、すなわち「人生をひとつの技法として生きる」ことを選んだときに、このもう一人のハック・フィンの「終わりへの旅」は始まったというべきだろう。その証拠に、いまや老人となったウォルトのイェフーディ師匠との出会いの場面の回想からこの物語は始まっていたではないか。
 終わりはつねに始まりのなかに胚胎している。人生においても、そして物語においても。

               (「波」新潮社、2002年1月号掲載) 
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ミスター・ヴァーティゴ

ミスター・ヴァーティゴ