瀆神の午後


  風かよふ寝ざめの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢        俊成卿女


 ふつと花の香がしたやうに思つた。花の香が薫子を夢から目覚めさせたのだつたが目覚めてみるとそれが何の花の香だつたかそれがどういふ夢だつたのかもはや薫子にはさだかでなかつた。花の香はあるかなきかの微睡むやうな風に運ばれてきたにちがひない。だがそれにしても室内には一輪一枝の草花とてなく、いつたいどうやつて閉め切つた部屋に風が進入したのか薫子には見当がつかなかつた。あるいは花の香も夢のなかのできごとだつたのかもしれない、薫子はさう考へようとしたが夢と現のあはひをへだつまろやかな花の匂ひがいまも薫子の鼻腔にかすかに残つてゐるやうだつた。薫子は躰をおこして外に目をやつた。目に映つたのは雪見障子の硝子窓越しに四季の草花が薫子を和ませる見なれた京都の家の前栽ではなく、フィレンツェの抜けるやうに広がる青空だつた。
 ルイジ・ペッチ現代美術館でF**のレトロスペクティヴが開催されてゐるといふ記事を偶々雑誌で目にした薫子は矢も楯もたまらず翌日の飛行機に飛び乗つたのだつた。関西国際空港を飛び発つたのは早朝、途中乗継ぎやら運行の遅れやらでヴェスプッチ空港に到着したのは深更、いかにもラテン系らしい陽気なお喋り好きのタクシー運転手に閉口しながらフィレンツェ市街のホテルに辿り着いたときは日附が替はつてもう二時間余を過ぎてゐた。手早くシャワーをすませ糊の利いたシーツのあひだに潜り込んだはいいが、ひさびさの長旅と展覧会への期待に気が高ぶつてゐたのか躰のつかれに反して目は冱えて睡りはいつかな薫子に訪れようとしなかつた。やうやく微睡みかけたのは夜の底が白みはじめたころだつたが、どれほどの時がたつたのか浅い睡りは何ともしれぬ花の香によつて妨げられたのだつた。薫子は起き上がると窓辺に佇ちレースのカーテンをいきおひよく引き開けた。深海をおもはせる透きとほつた青空が睡眠不足の薫子の目に痛かつた。

 ルイジ・ペッチ現代美術館はフィレンツェからバスでおよそ三十分、赤茶けた城壁がいまも旧市街を取り囲むプラート市にある。薫子はバスに乗つてゐるあひだもF**の作品との再会に気も漫ろで窓外の風景も碌に目に入らない有様だつた。レトロスペクティヴとは言ひ条、F**の作家歴は未だ十年に充たない。美術界に国際的な醜聞を巻き起こした衝撃的なデビュー以降新作の発表は年に一作、その反面いつたん発表した作品には徹底的に手を入れる。一作につき二十ものヴァリアントがあるといふ場合も尠くなかつた。作品とはつねに「進行中の作品」であるといふのがF**のクレドだつた。またF**は作品の複製を一切認めない。美術誌や画集へはむろんのこと展覧会のカタログにも自作の複製の収録を許可したことはなかつた。F**の作品のすべてを見た者はF**以外にはひとりもゐないといふのが専らの噂だつた。
 今回のレトロスペクティヴはさうしたヴァリアントが一堂に会する初めての機会である。薫子はかつて一度東京の画廊でデビュー作のヴァリアントのひとつを目にして以来F**に心を奪はれてゐた。パリのポンピドゥーセンターやニューヨークのMoMAなどで開催されるF**の新作の発表の際には何を措いても駆けつけたいと思つたが、どうしても仕事のをりあひがつかず涙を呑んで見送つて来たのだつた。いまも眼裏に焼きついてゐるデビュー作の原初の姿に初めてまみえることへの期待に薫子の胸は膨らんだ。

 いつどうやつてバスを降り美術館へ辿り着いたのか薫子にたしかな意識はなかつた。気がつくと絵の前にゐた。これが夢にまで見たあの絵のオリジナルなのか。否、すべてがオリジナルであるとF**はいふにちがひあるまい。だがこの絵はかつて東京の画廊で見た絵と寸部ちがはぬやうでゐてまつたく別の作品であつた。どこがどうとはいへない。美術館の七つに区切られたたくらみに充ちたブースのどこかにこの絵の幾つかのヴァリアントが展示されてゐるはずである。だがここからその絵の前まで足を運ぶうちに記憶は揺らぎ誰ひとりとしてその違ひを指摘することは不可能だつた。一卵性双生児のかたわれに数年を隔てて出会つたやうな奇妙な既視感に薫子は囚はれてゐた。
 春の女神プリマヴェーラと花の女神フローラとのレスボスの愛の営み。それは、ボッティチェリの「春 ラ・プリマヴェーラ」と「ヴィーナスの誕生」の翻案、それもこのうへなく悖徳的な本歌取りだつた。「ヴィーナスの誕生」で風に乗り吐息で花を捲き上げながらヴィーナスの生誕を祝福する西風ゼフェロスは、ここでは絡み合ふ全裸の二美神の秘所を隠す花々を天空から撒き散らす役目を負はされてゐた。二神の褥に五百種の植物と百九十種の花が細密画のやうに精緻に描き込まれ、ホルバインの「大使たち」の頭蓋骨に倣つたアナモルフォーズの技法で描かれたオルフェウスの首が草花のなかにひつそりと鎮座してゐた。某美術評論家は、世紀末ベルギーの奇才ジャン・デルヴィルの「死せるオルフェウス」へのこのうへなく見事なオマージュであると評したが、F**はジャン・デルヴィルなど見たこともないと嘯いたといふ。発表当時、古典への冒瀆だのアナクロニズムだのポルノグラフィーだの果てはネクロフィルだのといつた悪罵を擲げつける評論家と新進画家の彗星のごときデビューを絶讃する評論家との論争が数ヶ月にわたつて美術界を賑はせたのも今では遠い昔の出来事のやうだつた。エロスとタナトス、高貴と淫蕩とが渾然一体となつたこの絵には「瀆神の午後」といふ標題が与へられてゐた。

 どれほどの時間その絵の前に立ち尽してゐたのか、一瞬とも永遠ともつかぬ凍りついた時間のなかに薫子はひとり取り残されてゐた。目眩く恍惚のなかで薫子は卒然と悟つた。夢に見たのはこの絵にちがひない。さう思つた途端噎せかへるやうな花の香が薫子の鼻腔を充たし息苦しさになかば陶然としながら薫子はその場に昏倒した。

 睡りつづける薫子の枕もとにわづかに開いた雪見障子の隙間から蕾をひらき始めた早春の馥郁たる花の香がうつすらと立ち籠めてゐる。

  *瀆は「涜」の正字