〔Book Review〕久世光彦『飲食男女』


 これは百物語である。
 百物語とは、ご承知のように、何人かが集まって順繰りに怪談話をするというお遊びだが、怪談でなく男女の艶っぽい話をするとしたら、というのがこの本の趣向である。
 そしてもう一つ、そこにはなにか食べものが絡んでいること。つまり性と食、この二つながらをテーマにしたお話が春夏秋冬の部立ての下、都合十七篇おさめられた短篇小説集ということになるのだけれど、そこは手だれの著者のことゆえ、たんなるエロティカにはとどまらない。
 すべてが一人称「ぼく」の語り、しかも、多くが昭和初年もしくは三十〜四十年代の東京を舞台に身辺雑記ふうに始まるものだから、読者はつい「ぼく」と著者とを混同しそうになってしまう。
 たとえば「悦っちゃんとジャム」という作品では、小池光の、


  パンのみに生くるにあらずラズベリイ・ジャムフランシス・ジャム右に左に


という短歌*1から、詩人フランシス・ジャムにまつわる読書体験、皆川博子の小説『ジャムの真昼』の紹介と続き、一転、最近読んだ森繁久彌の「悦姉チャン」という短篇をとっかかりに、少年時代のぼくと又従妹の悦っちゃんとの話が始まる。
 要するに落語の枕なのだが、思いつきを並べているように見せかけて、じつはきわめて周到に計算された構成であることがわかる。そうして、「ぼくの悦っちゃん」とジャムとがドッキングして春の朧夜、幼い眼に映った鮮烈な情景が展開する。
 さすがに演出家だけあって、画面外から聞こえる声、悦っちゃんの白い腕と脚と苺ジャム、雛壇の真紅色との対比が、見事な映像的効果をあげている。
 「日がな一日、ぼんやりしているわけにもいかないので、朝から女の体と遊ぶ」(「桃狂い」)だとか、「菊ちゃんの中が、妙にサラサラしているのだ。(略)ほどほどに潤ってはいるのだが、片栗粉を水に溶いたみたいに引っかかりがない」(「粒あん漉しあん」)といった、ドキッとする表現にも事欠かない*2。淫蕩にたゆたいながら、万華鏡のように、ブラッドベリの『刺青の男』のように、次々と繰り広げられる大人のお伽話。
 とはいえ、ここに登場する女たちはいずれも男のファンタジーのなかにのみ棲息する生きものであることはいっておかねばならないだろう。そういう意味ではこれも鏡花の末裔の手になる一種の幽霊譚ということになるのだろうか。
 あるいは、これは、百物語を模して『青蛙堂鬼談』連作をものした岡本綺堂の「むかし語り」に倣った、著者一流のむかし語り――、そう、もうひとつの「昭和恋々」なのかもしれない。

               (「マリ・クレール」2003年8月号掲載)
  """"""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""

飲食男女(おんじきなんにょ)―おいしい女たち

飲食男女(おんじきなんにょ)―おいしい女たち

*1:久世光彦は現代短歌に造詣が深く、連作短篇小説集『あべこべ』(文藝春秋)には、東直子の短歌、「お別れの儀式は長いふぁふぁふぁふぁとうすみずいろのせんぷうきのはね」が引用されている。ただし、下の句が「薄水色の扇風機の翅」と変更されているのだけれど。水原紫苑の歌集『客人』の書評では、「叫(おら)びつつ樹にくちづけし少年の精在るごとし路上光れり」を引いて、「谷崎の『白昼鬼語』を思い出す」と注釈している(『美の死 ぼくの感傷的読書』筑摩書房)。

*2:後日、某仁に「片栗粉を水に溶いたみたいに引っかかりがない」とは卓抜なる表現なりと話せしが、何某首を傾げて曰く「引つかかりのなきは水に溶きたる片栗粉を熱せし時ならむ。されどサラサラとは背馳せしにや。惟ふにサラサラせしがゆゑ引つかかりたるにやあらむ」。我反論に窮す。真理は孰れに在りや。