ミランダ

 雪はいっこうにやむ気配がなかった。
 むしろいっそう激しく降りつのり、一フィート先すら霞んで見えた。
 でも、もしこの吹雪がやんだとしても、何もかも見渡すかぎり雪におおわれて、きっと右も左もわからないでしょうけどね。ミランダは絶望的な気持ちでそう思った。
 視界が雪にさえぎられて距離も方向もわからなくなる状態をホワイトアウトというんだ。だれかのそんな言葉をミランダは思いだした。かんじんなのはそんな言葉の知識じゃなくて、どうしたらここから抜け出せるかなのに、とミランダは思ったが、そのための知識も手段もミランダにはもちあわせがなかった。
 兎の親子がやっと身をひそめることができる程度の小さな洞穴にミランダが降り籠められてから、もう三日がすぎていた。なぜ雪山に登るなんて無謀なことをしたのかしら、ミランダはじぶんの軽率さを呪った。そうよ、危ないからやめなさいってあれほどママがとめたのに聞かなかったから罰があたったのよ。ああ、ママ、ごめんなさい。でも悪いのはわたしだけじゃない。一緒に登ろうって誘った……誘った……だれだったかしら、わたしを誘ったのは。ミランダの頭は朦朧としていた。仲間と誘いあわせて雪山へ登ったことも、吹雪のなかでかれらと別れてひとり洞穴に避難したことも、ミランダにはもはや夢の中かはるか昔の出来事のようにさだかでなくなっていた。
 ミランダのお腹がキューっと鳴った。大事にとっておいた最後の三枚のクラッカーをミランダが食べてからもう五時間の時がたっていた。リュックには口に入れられるものといえばクラッカーの空き箱ぐらいしかなかった。わたしは山羊じゃないのよ、だれが空き箱なんか食べるもんですか。ミランダは吹雪のカーテンにむかって力まかせに空き箱を投げつけた。それはミランダの鼻先にぽとりと落ち、瞬く間に雪にかき消されて見えなくなった。
 ミランダを悩ませていたのは空腹だけではなかった。さっきから堪え難い眠気がミランダを襲っていた。だがミランダは知っていた、この眠気に身をゆだねたが最後二度と目覚める日の来ないことを。がんばるのよ、眠っちゃだめ。ミランダは必死で己を叱咤した。でも、なぜだめなの? だれかが救けにきてくれるとでもいうの? ミランダは甘美な睡眠の誘惑になかば身をゆだねながら問いかけた。いつ? いつまで待てばいいの? 意識が遠のいてゆく。じぶんを呼ぶ声が遠くで聞こえるような気がした。ミランダ、ミランダ……


 「起きなさい」
 ミランダが目をあけると母親の顔があった。
 「早く起きて用意しないと学校に遅れるわよ」
 「ねえ、ママ」ミランダは安堵の吐息をもらし、すがるような眼差しで母親に訊ねた。「わたし、たすかったのね」
 母親はミランダをやさしく抱擁すると、小さなひたいにくちづけしていった。
 「こわい夢を見たのね。でももう大丈夫よ。ママがついてるから」
 夢? あれが夢だっていうの。あんなにはっきりした夢ってある? 背中にくっつきそうになるほどペシャンコのおなか、トーストにのっけたマーガリンみたいにとろけそうなまぶた、そして冷蔵庫の中に閉じこめられたような耐えがたい寒さ。あれがみんな夢だったなんて信じられない。
 「わたし、山に登ったの。そしたらすっごく雪が降ってきて」ミランダは何かにせかされるように母親に訴えた。
 窓辺に立った母親が花柄のカーテンを勢いよく引いた。
 「ほら、今日もいいお天気よ」
 六月のやわらかな陽ざしが部屋に射し込み、ベッドのミランダをやさしく包んだ。


 八年後。
 ミランダは十八歳になっていた。十二歳で同級生の男の子に初恋をし、十三歳のときミランダを可愛がってくれたお婆ちゃんが逝き、その後を追うように十二年間寝起きを共にした最愛の老犬バロンが神様のもとに召され、十五歳の聖夜祭の夜ボーイフレンドとファーストキスをし、失恋し恋をしまた失恋し、カレッジに入学してサークルの友人たちと冬山に登る計画をたてた。
 「ねえ、ママ、お願いだからイエスっていって」ミランダは母に懇願した。
 「だめよ。どうしても山に登りたいのなら夏にしなさい」
 「大丈夫だって。危険なことなんかちっともないんだから」
 「お願い、ミランダ。後生だからママのいうことを聞いて」
 ミランダの頭には日光に反射してキラキラと輝く白銀の世界が一面にひろがっていた。母親の必死の願いも、ミランダには公園のホットドッグ売りの呼び声以上の効果はなかった。
 出発の前夜、ミランダを翻意させることをあきらめた母はリュックにクラッカーを一箱しのばせて、翌朝、笑顔でミランダを送り出した。
 雪山はミランダの想像をはるかに超えた汚れなきパノラマだった。純白に雪化粧をほどこされた樹々、掌に掬うとさらさらこぼれ落ちる砂のような新雪ミランダは何度も「ファンタスティック!」と讃歎の声をあげた。山小屋で一泊し、翌朝、尾根伝いに次の山小屋をめざし、もう一泊して下山する予定だった。夏ならばハイキングかボーイスカウトオリエンテーリングとさして変わらない、登山の初心者にも安全なコースだった。誤算は、先導者が尾根伝いのルートを間違えたこと、そして冬山の天候の急変に高をくくっていたこと、その二つだけだった。だが遭難するにはその二つで充分だった。

 ルートを間違えたことにかれらが気づいたのは、早朝に山小屋を出発し、昼食を取るためにひと休みしたときだった。来た道をすぐに引き返せば日が沈む前に元の山小屋に戻れる。失点はたやすく挽回できるだろう。だがかれらが引き返しはじめたとき、かれらの失態をあざ笑うかのように天に暗幕が引かれ、時ならぬ薄暮があたりを包みはじめたと思うまもなく、横なぐりの風雪がかれらを襲った。雪が降りつもり帰り道がわからなくなる前に山小屋へ急ごうと主張する者、ビバークして吹雪がおさまるのを待とうと主張する者、意見は真っ二つに分かれた。だが露営しようにも満足な装備はおろかそのための知識すらかれらにはなかった。その事実に目を瞑らなければ、いずれを選択するかは挙手を求めるまでもない。かれらはロープで互いの身体を結びつけ、吹きすさぶ雪に遮断された行く手を手探りで進んだ。
 一時間で十メートルも進んじゃいないわ、ミランダは凍える身体をふるわせながらそう思った。これが帰り道だって証拠はあるの? 逆方向へ進んでるかも知れないじゃない。前方に雪に撓んだ大木が見え、その根方に小さな洞穴を見つけたミランダは、もうこれ以上歩きつづける気力をなくしていた。洞穴で吹雪がおさまるのを待つと頑なにいい張るミランダをひとり残し、仲間は山小屋への道を急いだ。山小屋へたどりつけば、そこから人里へは難なく戻れる。一昼夜を待たずにレスキュー隊が君の救出に駆けつけるだろう。そのことばを頼みにミランダは待った。そして、三日がすぎた。
 寒さと空腹と眠気に襲われながら救けを待つミランダの脳裡に、八年前に見た夢がふいに甦った。そうだったの、あれはこれを知らせる夢だったんだわ。遠のいていく意識の片隅でミランダは夢の意味をさとった。だが、あらがいがたい眠気はミランダのまぶたを強引にひきおろした。


 あらかじめ仕組まれた奇跡によって目覚めたジュリエットのように、ミランダのまぶたがふっと開かれた。ミランダの視界には、いつ果てるともしれない吹雪が立ちふさがっていた。
 夢、を見てたの? ほぐしようもないほど縺れ絡まった毛糸玉のように、ミランダの頭は混乱していた。目覚めると暖かなお家にママがいて、わたしは十歳で、それからいろんなことがいっぱいいっぱいあって、わたしは十八になり、カレッジに入り、仲間と雪山に登り……
 あれが夢だっていうの。あんなにはっきりした夢ってある? 
 でも、でもわたしのグランマは元気でわたしの帰りを待ってるわ。バロンなんて知らない。第一わたしは犬なんて飼ったことないし、わたしを雪山に誘ったのは……誘ったのは……だれだったかしら。ミランダの頭は朦朧としていた。夢のなかのわたしがミランダなら、このわたしは誰なの? 
 もはやその疑問はミランダにはどうでもよかった。たったひとつ確かなことは、とミランダは思った。わたしがこのまま死んでゆくことだわ。重力の法則に従うようにミランダのまぶたはふたたびゆっくりと閉じられた。
 意識が遠のいてゆく。じぶんを呼ぶ声が遠くで聞こえるような気がした。ミランダ、ミランダ……