荘周が委蛻


 むかし、あるところに周といふ者があつた。周は唐で仙術を修し怪力乱心を操る術に秀でてゐるとの専らの噂だつた。周が白紙に描いた鯉を池に浮かべてやると、鯉は紙から抜けだしすいすいと泳ぎ始めたといふ。あるとき、周を訪ねた客人があつた。談論風発数刻を過ごし気がつくともはや深更、おや思はぬ長居をしてしまつたと客人が辞去しようとすると生憎月は雲間に隠れ足元が覚束ない。周は客人を待たせ、玄関で白紙にさらさらと月の絵を描いて頭上に翳した。待つこと暫し、中空にちひさな月がぽつかりと浮び、周の翳した紙はいつのまにか蛻けの殻と化してゐたといふ。

 評判を聞きつけた男が周のもとを訪れた。風聞によれば老師は望むものは何であれその筆先にて拵えることができるとの由、それは実でせうか。男はさう周に問ひかけた。周は徐ろにうなづいた。師よ、一生のお願ひです。どうか吾子をお描き願へますまいか。吾子は六つの歳に流行り病で彼の世に旅立ちてしまひました。子は天地の委蛻なりと雖も、吾子亡せにしより此の方夜も眠らえず、偶偶眠れば夢に遇ひて涕涙漣漣として已むことなし。いまひとたび此岸にて吾子の起ち居を見ること叶はば、たとひ我が命と引き換えにせしとも悔ひはございません。
 男は涙ながらに周に訴へた。それほどまでにいふのなら描いてしんぜよう。周は男から幼子の容貌を問ひ質し、白紙の上にさらさらと描き始めた。みるみるうちに頑是ない幼子の姿が紙上に現れた。をを、まさしく吾子に生き写し、と男は欣喜雀躍した。幼子が絵から抜け出てくるのを男はいまや遅しと息を詰めて待つた。だが絵のなかの幼子はいつかな出てこようとはしなかつた。師よ、一刻もはやくこのかひなで吾子を抱きしめさせたまへ。

 周は徐ろに口を開いた。さきほどお前は何と申した。吾子を此岸に呼び戻すことが叶はば自らの命と引き換へにしてもかまわぬ、さう申したな。その言葉に偽りはないか。むろん嘘偽りはございません。吾子をこの手に擁くことが叶はばこの身はどうならうとも。その言葉を言ひ終はらぬうちに男の姿はふつと掻き消え、最前まで男のゐた座布団の上にはあどけない幼子が無垢の咲みを浮べて鎮座してゐた。
                      (古今恠異夜譚 第十六夜