小中英之――その6

 「この夜を境に、押し掛け兄貴の小中が、泣きの小中に転じるのである」


福島泰樹は書いている*1。「この夜」とは、前回ふれた小野茂樹が不慮の死を遂げた夜のことである。
 前回、私は「事故に遭う数時間前まで二人はいっしょに酒を飲んでいた」と書いたが、実際は二人が別れて数分後、小野を乗せたタクシーがハンドルをきりそこね、コンクリートの分離帯に激突したのだった*2。小中が事故を知ったのはアパートに帰り着いてからのことである*3。その後の「彼の嘆きは、尋常ではなかった」と、福島は「泣きの小中」を描写する。


 「笑って酒杯を上げていた途端、ジョッキに涙をぽとぽとと滴らせているのである。私は、何度肩を抱き寄せ、そんなに自分を責めるんじゃあないよと、声にならない声を呑みこんだことか」


 福島もまた小野を「微笑の美しい人であった」と評している。人柄、作品をともに愛し、おそらくは終生の好敵手とみなしたであろう同世代の友を出会って一年で亡くした小中の哀しみがいかばかりであったか想像に余りある。


 「小中には人恋しいところがある」と天草季紅は著書『遠き声 小中英之』*4で書いている。私が小中と会ったのは十回に満たないが、私の記憶のなかの小中も人懐こく、年少の人間を包み込む懐の深さがあった。福島が「押し掛け兄貴」と書いているのもそのあたりの機微を指してのことだろう。冗談に「歳をとったら(永田)和宏と裕子に養ってもらうんだ」と小中が語っていたことをよく覚えている。

 小中がN紙の短歌時評に何を書いていたかは殆ど記憶にない。掲載紙も、もはや手元にない。短歌誌に発表された歌や時事的なテーマを取り上げるのでなく、折々に目にふれた歌集なり歌書なりを一、二冊取り上げて批評する、といったスタイルであったような記憶がある。わずかに、曾宮一念について書いていたことを、その「へなぶり」という言葉とともに覚えている。小中の時評によって私は初めて曾宮一念の名を知ったのだったが、曾宮の本を手に取ろうとしなかった。二十代の青年にとってそれはあまりに渋すぎる内容に思われたからであった。
 私は小中と何を話したのだったろう。森有正堀辰雄を好んで読むと聞いたように思う。そんな記憶の欠けらがきれぎれに思い浮かぶだけだ。そういえば、岡井隆が復帰して久々に出した歌集『鵞卵亭』*5に頻りに感心していたことを覚えている。刊行して一年以上経った歌集であるだけに、よほど強い印象を受けたのだろう。

 小中の時評は半年で終わり、私は小中と会うこともなくなった。小中の後、時評を引き継いだのは藤森益弘であった。文学欄担当から映画演劇欄に異動した私は藤森から原稿を受け取ることはなかったが、藤森の第一歌集『黄昏伝説』の出版記念会(一九七八年)で小中とも再会しているはずだ。遅れに遅れた『わが からんどりえ』は翌る七九年にようやく刊行され、小中の差配で版元より恵贈を受けた。藤森の出版記念会で出会った「短歌人」の藤原龍一郎は、当時、婦人雑誌の編集者をしていたがのちにフリーランスとなり、その頃私が携わっていた講談社の『昭和萬葉集』の仕事を手伝ってもらうことになった。
 小中の第二歌集『翼鏡』(砂子屋書房)が刊行されたのは一九八一年のことで、一本を購入して耽読したが(『わが からんどりえ』に劣らず愛誦する歌は多い)、私は創刊したばかりの映画雑誌の編集に没頭しており短歌から距離を置き始めていた。
 それから二十余年が経った二〇〇二年四月九日、安東次男が亡くなった。享年八十二。安東の死を新聞で知ったとき、真っ先に思い浮べたのは小中のことだった。


 氷片にふるるがごとくめざめたり患(や)むこと神にえらばれたるや
                         『わが からんどりえ』


 この歌に見られるように病身の小中は死の影を宿した歌を詠みつづけたが、病いを手懐けながら長生きするのだろうと私は心中思っていた。だがすでにその時、小中はこの世にいなかった。九七年に父を、二〇〇一年に母を見送ったのち、あとを追うように独りで逝ったのだった。死後刊行された遺歌集『過客』*6に附された文(「追い書き」)で、小中の晩年に親交のあったらしい辺見じゅんが、「宿痾を抱えた自らの命をいぶかるように、「母より先には死ねない」と、言っていた」と書いているように。
 二〇〇一年十一月二十一日没。死因は虚血性心不全だった。享年六十四。「何かの用件で外出しようとして玄関先で倒れ、誰にも知られることなく息を引きとり、二日間そこに横たわっていたのだ」(辺見じゅん)という。荷風の死を思わせる最期であった。


 今しばし死までの時間あるごとくこの世にあはれ花の咲く駅
                         『翼鏡』


 私が小中の死を知ったのは翌二〇〇二年五月、藤原龍一郎のブログでであった。死後すでに半年も経ってのことだった。瞑目した私の眼裏に浮かんだのは今の私より一回り以上若い、出会った頃の不惑を前にした中年男の顔だった。安東次男を「うちの先生」という時の、はにかんだような、誇らしいような、人懐こい笑顔であった。


 げに孤りひとりなるゆゑたしかむる著(ぢゃく)のきりぎし春の滴り
                       『わが からんどりえ』


 「著のきりぎし」とは、執著、愛著の切岸の意であろうか。以前(小中英之―その2)書いた、師安東次男の教えに通ずる「未練を絶つ」心ばえででもあろうかと思う。この歌はなにかの折りにふっと口をついて出てくる。
 最後に、小中の死を知った夜に藤原の掲示板に投稿した文を再録し、小中の四度目の忌日を機に始めたこの拙い覚え書のひとまずの結びとしたい。


 「身辺をととのへゆかな」投稿日:2002/05/01(Wed) 01:37


 藤原龍一郎さま


 ごぶさたしています。
 今日、たまたまこ掲示板を発見しました。
 そして、<電脳日記>を拝読して、小中英之さんが昨年亡くなられたことを知りました。
 先般、安東次男さんが亡くなられた折り、小中さんはお元気でいられるかな、と思ったのですが、そのときにはすでに冥府へ先立たれていられたのですね。

 かつて「読書新聞」の短歌時評を小中さんに書いていただいていた頃、毎月お会いして、たいへん好くして頂きました。
 新宿で飲んで、藤森益弘さんのお家へ二人でおしかけて泊めていただいたことなど、懐かしく思い出します。
 藤原さんとは、藤森さんの『黄昏伝説』の出版記念会で初めてお会いしたのでしたね。
 俳人・藤原月彦の令名はそれ以前から存じ上げていましたが。

 小中さんの推薦で短歌時評を来嶋靖生さんにお願いし、その縁でぼくは「昭和萬葉集」の編集をお手伝いさせていただくことになり、藤原さんと再会し…
 歳月茫茫たり、四半世紀も昔の話です。

 こんな私事は直接メールでお話しすべきだったかもしれません。
 でも、この掲示板なら、小中さんへの哀悼の思いを共有していただけるかもしれないと思い、初めて掲示板というものに投稿いたしました。


 ・身辺をととのへゆかな春なれば手紙ひとたば草上に燃す  小中英之


 『わがからんどりえ』と『翼鏡』を書架から取り出し、故人を偲んでいます。
                                  合掌

                           (この項了、敬称略)

過客―小中英之歌集

過客―小中英之歌集

*1:「みな行った茂樹も君も」、福島泰樹『葬送の歌』河出書房新社、二〇〇三年

*2:夫人作成の年譜による、『小野茂樹歌集』国文社、一九八二年

*3:天草季紅『遠き声 小中英之』砂子屋書房、二〇〇五年

*4:同上

*5:六法出版社、一九七五年

*6:砂子屋書房、二〇〇三年