カムバック

 手のひらはじっとりと汗ばんでいた。膝の震えを止めようと手で押さえると躰全体がぶるぶると震えた。アルコール依存症は完治したはずだった。禁断症状じゃないとすれば極度の緊張のせいだろうか。
 「まさか」男は声に出して言ってみた。「尻の青いガキじゃあるまいし」
 ワンフィンガーでいい、喉に投げ込んでやればこんな震えなどすぐに止まるんだが。喉はカラカラに渇き、湿り気のかけらもなかった。グラス一杯のウィスキーのためなら人殺しでも水乞いの裸踊りでも喜んでしてやる、男は背後にいるはずの悪魔にむかって呪いの言葉を擲げつけた。
 「おさらいですか?」
 背後で声がした。振り向くと悪魔でなく支配人がいた。蝶ネクタイを棒タイに替えれば企業の労務管理のほうが似合いそうな四十絡みの痩せた男だった。
 「はは、なんだか緊張しちまいやがって」自然とへつらうような口調になっていた。出番の前にネタを復唱するタマかよ、このおれが。
 「もうすぐですよ。頑張って」支配人はゴール目前で息切れしかかったマラソンランナーを励ますようにそう言うと楽屋を出て行った。
 男は壁の時計を見上げた。秒針があと一回転すると出番だ。大きく深呼吸をした。セコンドがタオルを投げ入れてくれるのを心待ちにしているボクサーの心境だった。
 入り口のドアが開き、顔を覗かせた労務管理が目で合図をした。男はのろのろと腰を上げると楽屋を後にした。秒針の回転が地球の自転ぐらいの速度だったらいいのに。男は舞台袖の赤い緞帳の蔭で一瞬立ち止まると、背筋をピンと伸ばし、十年前のように勢いよく舞台の中央へ飛び出した。


 ひとしきり拍手が鳴り止むのを待って、男はおもむろに口を開いた。まばゆい光の輪の中で喋るのは何年ぶりだろう。頭の片隅でそう思いながら男の口は勝手に言葉を発していた。喉は相変わらず空炊きした薬缶のように干上がっていたが言葉はなめらかだった。
 薄暗い客席のそこかしこで小さく笑い声が起こった。おずおずとした遠慮がちな笑い声だった。客席は見えなかった。明かりのせいでなく見るのが怖かったのだ。昔なら客の表情を確かめながらとっさに次に話すネタを選んだものだ。だが、いまはそれだけの余裕はない。仮免の路上運転のように脇見をせずに真直ぐ走るのに精一杯だった。隣に指導員はいなかった。
 「だけど酷いネタだね。こんな噺で笑う奴の顔が見たいや」
 そう呟くように言うと、どっと笑いがきた。
 「こんな噺で笑うような客の前で話してる奴の顔が見てえや」
 笑い声はさらに広がった。昔のまんまだ。それにしても本当に酷いネタだ。十年前と変わりゃしない。そう思うことでわずかに余裕が萌しつつあるのを感じた。
 男はおずおずと客席に目をやった。ひときわ大口をあけて笑っている男が目に入った。


――あれはたしかスナックのマスターじゃねえか。おれが酔っ払って客と喧嘩してたらおれの首ねっこをひっつかんで捨て猫みたいに外へおっぽりだしやがったろ。なんでこんなとこにいるんだよてめえが。マンホールの蓋みてえな口あけて笑ってんじゃねえよ。


 男は隣の客へと目を移した。


――どこかで見たことがあるようなつらだと思ったらアパートの隣の部屋の禿親爺じゃねえか。夜中にピンクのゴキブリが壁を団体でごそごそ這い回ってたのを座蒲団でたたきつぶしてたら呶鳴りこんできやがったろ。こんなとこへ何しにきやがったんだよこの莫迦は。隣は向かいの部屋の婆あじゃねえか。おれの顔みるたびに唐辛子と梅干いっぺんに頬張ったようなつらしてそっぽ向きやがったくせに。禿親爺と手ェつないでくるんじゃねえよ、このくたばりぞこないが。おいおいてめえのつらだけは忘れようたって思い出せねえぜ、こんちくしょう。おれが借金しにいったら塩まいて追っぱらいやがったろ。金輪際銭なんか借りてやらねえからな。おとといきやがれ。


 男は心のなかで思いつくかぎりの悪態を吐きながら客席の顔を順々に見回していった。誰もが大きな口をあけて笑っていた。なにがそんなにおかしいんだこいつらは? 笑いたかったら笑いやがれ。みんなでおれを嗤いものにしにきたんだろ。上等じゃねえか。笑わしてやろうじゃねえか。笑わして。男は必死で自分を叱咤した。だが、どうしても言葉は出てこなかった。喉からはひゅうひゅうと隙間風のような嗚咽が洩れるばかりだった。ばかな。瘠せても枯れてもおれはプロの芸人だ。しゃべれ、しゃべるんだ。


 その時だった。客席の最後列のあたりで拍手が起こった。拍手はさざ波のように広がり、やがて岩に打ちつける荒波となって耳を聾せんばかりに轟いた。男は引退試合に出た野球選手のように潤んだ目で客席の顔をひとりひとり確かめていった。五十人も入ればすっかり埋まってしまう小さな劇場だったが、そこにいる客たちのただ一人として知らない顔はなかった。パチンコ屋の店員、競輪の予想屋、ガスの集金人、借金取り、叔父、叔母、その息子、幼馴染みの餓鬼大将、小学校の先生、小学校の同級生、近所の未亡人、近所の男やもめ、家主、主治医、看護婦、銭湯の主人、飲み屋の女将、質屋、八百屋、魚屋、床屋、花屋、薬屋、酒屋……
 衣装箪笥に吊るされた色とりどりの着替えのように、この小さな劇場に男の人生が犇めいていた。男は客席のどこかから自分に語りかける妻の声が聞こえたような気がした。


 「こんなに大勢の人が集まってくれて」ハンカチを目頭に当てた妻が男に語りかける。「幸せもんだよ、あんたは」
 「アル中のどうしようもない奴だが、妙に憎めないところがあった」叔父が相づちをうつ。
 「せめてもう一度舞台に立たせてやりたかったなあ」幼馴染みが言う。
 「あいつのこった、今ごろはあの世で舞台に立ってらァな」同級生が言う。
 「閻魔さまを笑わしてるってか」誰かが応じると控えめな笑い声が起こった。
 小さな劇場の舞台にしつらえられた祭壇の黒枠の中から男が笑いかけている。男の笑顔は困ったようにも今にも泣き出しそうにも見える。