文士の底意地――川崎長太郎

 ナボコフの話題を続けるつもりでいたのだけれども、聊か重くなりそうなので、今回はいつものように読み散らかしている本から他愛のない感想文で一席おうかがいすることにしたい。


   1

 岩波書店のPR誌「図書」に平出隆が書いている「遊歩のグラフィスム」という連載エッセイを愛読している。すでに二十回を数える連載だが、このところ、彼が「文藝」の編集者として担当した川崎長太郎の話題が続いている。平出は私のような生半可な編集者でなく伝統ある文藝誌の編集者であるから作家との附き合いも本格的で、川崎長太郎という特異な作家の懐に入り込みその人物像を見事に描出して読み応えがある。私が平出に会ったのは彼がまだ河出に入る前、気鋭の若手詩人と目されていた頃で(それ以降会っていないが)、お互いに二十代だったのが夢のようである。
 五月号の連載第二十回は「荷風ヴァーサス長太郎」と題し、紅燈の巷を描いた作家を川崎がいかに意識していたかを伝えて興味深い。
 「自分のしたことを他人のように見、そしてそれを書くということが私小説の骨法といえるだろう」と平出は書く。


 「物語というものにこしらえの虚ろを感じるところには、その精神の常態があらわれる。自分のしたことを突き放す先は、物語のない方向ということでもあろう。
 川崎長太郎の場合、海辺の物置小屋とそれを囲む雄大な海山のひろがりは、自分を小さな存在として、いわば他人の中の一人として見るための構えの中心をなしている。売春街、私娼窟、魔窟などと書かれる界隈への踏み込みは、まるで他者性の奔騰する坩堝へ、みずからを他人として投じる実験という様相を帯びることがある。人はなぜ、「私」一人の小屋を離れて、魔の界隈をぐるぐると徘徊するのか。」


 川崎長太郎私小説の拠って来たる所以を怜悧に分析した批評である。最後の一節、「川崎長太郎は」とせず「人はなぜ」と問うところに注目したい。かつて石川達三は川崎の「硬太りの女」という小説を谷崎潤一郎の「鍵」と並べて「不潔で非芸術的なもの」で「自由の敵」であると論断したそうだが*1、女性との交渉をあけすけに描いた私事と見なされがちな川崎の小説に、平出は、人間がひとしなみに備える免れ難い性行のようなものを見ようとしている。あえて言うまでもないが、不潔なものや不道徳なものを描いたからといってそれが不潔で不道徳な小説であるわけではない。ときに不潔であったり不道徳であったりする人間というものの性を凝視するのが文学の使命の一つであるのだから。たしかパスカルの警句であったと思うが、あらゆる悪徳は人が自分の部屋にじっとしていられないところから生ずるのである。


   2

 川崎長太郎に『夕映え』*2という短篇集がある。十四篇の短篇小説に、吉行淳之介との対談「作家の姿勢」を巻末に収める。この対談は「文藝」に掲載されたものだが、吉行に促されるようにして編集者がときに短く口をはさむ。この編集者が平出である。平出は「荷風ヴァーサス長太郎」で、この川崎と吉行との対談と、川崎の随筆「永井荷風」とを取り上げて(双方に同じエピソードが出てくる)、川崎の小説の「骨法」を瞭らかにしてゆく。川崎の文章をトレースした平出の文章をさらにトレースするのも藝のない話なので、ここでは川崎・吉行対談に目を向けてみよう。
 自分の書いているものが私小説だという意識は持っているか、という吉行の問いかけに、正直に言うと私小説を書いているときは小説を書くという気持があまりない、と川崎は応える。ある意味でそれは告白であり、日記であり、記録であり、あったことを再現するのである、と。そして返す刀で吉行の小説『夕暮まで』を「あれは完全に作っているんですからね」と批評し、「『夕暮まで』は小説。私小説は大むね私事で、あらず小説。どっちが人を動かすか、ということになると、価値問題は別ですね」と自負を覗かせる。吉行はたじたじとなりながら、私小説には事実の誇張はないかとさらに問いかける。川崎は「ありのままを書くのが、私小説の一つのカン所になりますからね。誇張、おまけ、芝居気、作為というのは、やっぱり横道にそれるんじゃないですか」と断じる。
 話題は、平出が件のエッセイででも取り上げている、玉の井での川崎と荷風との邂逅に移る。
 川崎は、玉の井の暗がりでノートを広げて地図を描いている荷風に出会う。文学青年であった川崎は崇拝する作家に「先生のご勉強振りは恐縮しました」と声をかける。荷風が『?東綺譚』を発表する前のことである。「川崎さんの言葉は、勉強してああいうところを書くもんじゃないというお気持でしょう。勉強して書くものじゃないと。だから、お雪さんというのはいないかもしれない。地図だけ書いて、あとは想像で作った人物かもしれませんね」という吉行の言葉に、川崎は平野謙荷風論を援用しつつ「荷風文学はどこまで行っても、一つの趣味性の枠内ということは言えるんじゃないでしょうか。肌と肌をこすり合うという男女関係においてもですね。手ぶらで対象にぶつかっていくというあれじゃないですね」、手ぶらで体当りでは荷風は川崎の師徳田秋声にかなわないと応じ、吉行もまた「荷風タイプ」であると評する。この絶妙のやりとりを抜書きすると、


 吉行 いや分かりました。だから、いい悪いじゃないというのは、それは……だけど、ご自分としてはちゃんと、いい悪いがあるわけね(笑)。
 川崎 肌に合う、合わない。うまい言葉でしょう(笑)。
 吉行 うまい言葉だけれども、同じですよね(笑)。
 川崎 荷風的な、ああいうタイプね、なんか水臭い感じがするんだな、秋声はあまり水臭くなさすぎたかもしれませんけどね。はっきり対蹠的な文学ではありますね。
 吉行 よくお話は分かります。


 川崎は、吉行は都会人でこっちは野暮天だから、と弁解してみせるが、吉行は、『夕暮まで』を認めると川崎長太郎ではなくなるからそれでいい、と応える。川崎は万葉集を例に引き、千年以上前のものでも「実感の流露」「人情の底に届いたものは古くならん」、それにひきかえ源氏物語は「作りもの」という感じがするという。ありのままか作りものかを論じるに万葉集と源氏を例に挙げるのは聊か大仰すぎると感じたのか、川崎は「吉行先生、もっと柔らかくしてくださいよ。少し目の色変えてきましたからね」と方向を転じようとする。
 後輩の作家に対して「先生」を連発しながら、川崎は、吉行の小説も荷風の小説も所詮育ちのいいインテリの拵え物にすぎない、と暗に言いたげである。むろん吉行がそれに気づかないわけはない。荷風花柳界に行け、玉の井には来るなといいたいのでしょうと問えば、川崎は笑って否定しない。吉行はさらに、自分より赤線の女のほうが金持ちだった、「あの時代は僕も赤線行っても、川崎さんには怒られない状態だった」と弁解にこれ努めるが、川崎は無言。吉行は困って「少し納涼閑談風に舵取りしてくれよ」と編集者の平出に頼む始末だ。ついに同席していたらしい川崎夫人が「聞こえないんでしょう、きっと耳が」と助け舟を出して、話は補聴器談義になってしまう。対談はこのあと「納涼閑談風」に続いて、最後、吉行が「そうとう強烈なパンチが出てきたな」「最初、目の色変わるという意味が分からなくてね、僕が変わっているのかと思っていたら、ご自分なのね。なるほど」と述懐して終る。


   3

 この対談では、電車の中での川崎と荷風との再度の出会いが語られるが、先述の随筆「永井荷風」では同じ出来事が「より強く、他人としての「私」の突き放しが行われている」と平出は随筆に目を向ける。その剣豪同士の睨み合いにも似た出来事と、平出のいう川崎の「さりげない凄み」が如何なるものであるかは平出自身の文に就いていただきたい。ここでは、荷風=吉行論にも通ずる川崎の「尾崎一雄――小説的人物論」*3にふれておきたい。
 尾崎一雄は川崎より二歳年長、同じ小田原中学に通った。川崎は尾崎の弟と同級生で、のちに退校処分となり一時家業の魚屋を手伝うが、文学への志已み難く上京して小説家への道を歩む。やがて、川崎は尾崎と親しく言葉を交わす仲になるのだが、「等しく私小説を信奉してきた」川崎の目に映る尾崎にはどこか荷風に通じるようなところがあったのかもしれない。「妻と目出度く添い遂げ、三児も恙なく教育して世に送り出した」尾崎がそのことを自讃し、喜ぶのも無理はない。「私などは一寸貰い泣きを禁じ得なくなる」。「生涯子なしの私如きは、同君の異常に近い喜びざまに、素直に頭が下がるのである。本当に尾崎君大変だったろう、よくここまでと感傷的な気持に引き込まれもするのである」とまことに皮肉な書きっぷりである。


 「家長として、家づくりに成功し、文業の上でも大体過不足ない評価をうけ、先年野間賞を獲得、昨年は芸術院入りを果し、文学者として立派に箔もついたのである。かつての日、父祖の産を売り飛ばすところから、同君を「極道息子」呼ばわりしひんしゅくした郷党の面々にも、自ら鼻が高いことであろう。ここらで、ひと息ついて、いずれサナギとなるしかない身の上、古本や古雑誌の整理、古手紙・古写真の整理から、老妻同伴の旅行、うまいもの漁りにもたっぷり時間かけられ、存分老境の静けさをわがもの顔に出来る勘定であった。」


 「功成り名遂げた」尾崎へ向ける川崎の皮肉な眼差しをとらえて、保昌正夫は「(略)「まともでない」川崎長太郎から「まとも」な尾崎一雄への底意地こめた姿勢が読みとれて、この「尾崎一雄」は川崎長太郎でなければ書けない(=書かない)ものだろうと思った」と書く*4。抹香町に出入りする「川上竹七」(川崎自身をモデルとする)も、そしてこの「芸術院会員尾崎一雄に向けた激情」も、川崎が青年期に詩人として涵養したアナーキズムダダイズムと無縁でない、と保昌は説く。「「私小説家」川崎長太郎の最初期、『民衆』から『赤と黒』に加わっていったあたりの「感傷」と「感激」は、その後も尾を引いて、ときに激しく発火するようである」と。雀百まで、いや、老いて益々盛んというべきか。
 尾崎は著書『あの日この日』のなかで、「きびしくその事実誤認、「見損なひ」を指摘している。「私小説」作法にかかわる、私小説作家として腹に据えかねるところが出た物言いである」と保昌は書き、こう結ぶ。「私小説作家というのは、きついな、とあらためて思う」。
 ところで、川崎の件の随筆「永井荷風」は『もぐら随筆』に収められている。私は川崎の小説を数冊所持して愛読しているが、随筆は未見である。幸い『もぐら随筆』は今週、講談社文藝文庫から出る予定だという。愉しみに待ちたい。


もぐら随筆 (講談社文芸文庫)

もぐら随筆 (講談社文芸文庫)

*1:浅見淵「三冊の新刊本」、浅見淵著作集第一巻『評論』所収、河出書房新社、一九七四年

*2:川崎長太郎『夕映え』河出書房新社、一九八三年

*3:川崎長太郎『つゆ草』文藝春秋所収、一九七七年

*4:保昌正夫川崎長太郎――『民衆』『赤と黒』のころ」、『保昌正夫 一巻本選集』河出書房新社所収、二〇〇四年