呼びかけと応答



 ひとつのエピソードを書きとめておきたい。老人ホームに居住するひとりの高齢の女性の話だ。かりにAさんとしておこう。Aさんは、ある事故によって数年前から「失語症」の状態になっていた。といっても、脳の器質的な障害による失語症ではない。日常生活において、「うん」とか「いや」といった短いフレーズで意思表示はするが、長いセンテンスの言葉をけっして発しない、という状態だった。同居する夫も子どもたちもAさんと会話しようという努力に疲れ果て、なかば匙を投げた状態だった。
 Aさんが老人ホームにやってきたのは二週間前のことだ。そういう入居者であるということは、老人ホームではたらくだれもが心得ていたし、Aさんもまた、職員のだれに対しても口をひらこうとしなかった。だが、ひとりのケアマネージャーの女性だけは、ほかの入居者にたいするのと同じように、毎日のようにAさんに呼びかけていた。
 Aさんが入居して二週間たったある日のこと、彼女はいつものようにAさんに呼びかけた。「どう? 毎日の食事はおいしい?」。Aさんは、いつものように「いや」といったあと、「まずい」と応えた。彼女は「おや」と思い、かさねて問いかけた。「そう。Aさんはどういうものが食べたいの?」。「うな重がいいわね」、Aさんは覚束ない口調で、だが、しっかりと答えた。彼女は内心の驚きを抑えてつづけた。「そう。うな重は美味しいわよねえ。でも、ここのメニューにはないから、出前でも取りましょうか」。「いいわね。そうしてくれる」といったあと、Aさんの、それまで牡蠣のように閉ざしていた口が嘘のように開き、彼女とひとしきり会話を続けたという。Aさんは数年ぶりに重い口をひらいたのだが、その後も、他の職員たちにたいしては、あいかわらず「ああ」とか「うん」といった単語しか発しないという。
 このエピソードは何を意味しているのだろうか。Aさんは、なぜ口を閉ざし、なぜその重い口を彼女にのみ開いたのか。
 わたしが思うに、Aさんは意識的に口を閉ざしていたのではあるまい。Aさん自身にもわからぬ理由によって、言葉が口をついて出てこなかったのだろう。自分で意図せずに精神にバリケードが張られた状態であったのだろうと思う。他者の声はバリケードに阻まれて、Aさんの内面にまで届かなかった。だが、あるとき、ひとりの女性の声がバリケードを透過してAさんに聞こえてきた。Aさんはその声に自然に反応した。それは、山の奥深くにたった独りで迷い込んだまま忘れ去られた遭難者への呼びかけの声のようなものだったのかもしれない。そのときAさんは、自分に呼びかけるだれかの声を、はじめて聞いたと思ったのだろう。
 Aさんに日々倦まず呼びかける彼女の声が、Aさんの心を鎧のように覆っていたバリケードを、少しずつ穿っていったのである。他者の心をひらくとは、そうした絶え間ない、弛むことのない呼びかけによってである。この小さなエピソードは、人間の心の不可思議さをあらわすとともに、人と人とのコミュニケーションの在り方の肝心かなめのところを指し示しているように思う。
 ジュディス・バトラーは『自分自身を説明すること』*1で、次のように書いている。


 《ニーチェは、私が自分自身の物語を始めるのは、私に説明を求める「あなた」に直面したときだけである、ということをよく理解していた。「それはあなただったのか」という他者からの問いかけ、あるいは割り当てに直面したときにだけ、私たちの誰もが自分自身を語り始め、あるいは危急の理由で、私たちが自分を語る存在にならねばならないことに気づくのである。むろん、こうした問いかけに直面して無言のままでいることもつねに可能であり、その場合、沈黙は問いかけへの抵抗を表現する。つまり、「あなたにはそのような問いかけをする権利はない」とか、「私は問いに応えてこの申し立てに権威を与えはしない」とか、「たとえそれが私であったとしても、それはあなたの知ったことではない」といった抵抗である。こうした場合に沈黙は、問いや質問者が行使する権威の正当性を疑問に付すことであるか、質問者が立ち入ることのできず、立ち入るべきでもない自律の領域を画定する試みである。語りを拒否することもまた語りへの関係であり、呼びかけの光景への関係なのである。それは、語りの留保として、尋問者が前提としている関係を拒絶するか、尋問された者が尋問者を拒絶するよう、関係を変化させる。》


 呼びかけは、単独者である「あなた」への呼びかけである、と呼びかけられた者が了解したとき、その声は呼びかけられた者に届く。そして、呼びかけられた者は呼びかけた者に応答する。「それはあなただったのか」――ほかならぬ「あなた」への呼びかけなのだ――と、呼びかける者の声が「あなた」の心をふるわせ、呼びかける者の身体が「あなた」の身体の奥深くをゆさぶる。そのとき、「あなた」はおもむろに他者にむかってみずからをひらきはじめるのである。

自分自身を説明すること―倫理的暴力の批判 (暴力論叢書 3)

自分自身を説明すること―倫理的暴力の批判 (暴力論叢書 3)

*1:『自分自身を説明すること――倫理的暴力の批判』佐藤嘉幸、清水知子訳、月曜社、2008年