一場の夢――岡倉天心覚書


 岡倉天心日本美術院での教え子ジョセフィン・マクラウドを伴ってアジャンタ壁画を見るために渡印したのは1901(明治34)年のことである。アメリカの富豪の娘マクラウドは、かねてより帰依していた聖者ヴィヴェカーナンダをガンジス河畔で天心に引き合わせた。ふたりは一瞬にして互いの偉大さを見抜いた。ヴィヴェカーナンダは天心に告げる。「あなたはここで私を相手に何もすることはありません」と。「タゴールに会いにおいでなさい。彼はまだ生の中にいますから」。
 天心は詩聖ラビンドラナート・タゴールの家に半年余り寄寓し、仏跡をめぐり、高僧や反植民地運動の闘士たちと交わった。ある日のこと、ひとりのベンガルの画家が描きかけの絵を持って天心に面会を請うた。天心は彼のスケッチを一目見るなり、その絵の隅に二本のマッチ棒をある角度で置いた。画家は率然としてさとった。彼が描きあぐねていた絵の欠陥とそれを修正する方法がそこに明らかに示されていたからである。このエピソードを伝えているのはタゴールの甥スレンドラナートである*1
 当時インドでは反英民族運動、そして文藝復興が勃興しつつある頃で、欧州旅行から帰国したばかりのタゴールは兄の創刊した文藝誌に携わり、運動の立役者となった。まさにこの時期にタゴール家に寄寓した天心がインドの民族運動、文藝復興に大いなる刺戟を与えたことは言うまでもない。天心の死後、十年余ののち、日本を訪れたタゴールは講演で天心の思い出にふれつつこう語っている。


 「幾年か前のことです。私は日本の国から来た一人の偉大な独創的な人物に接したときに、真の日本に出遭いました。この人は長い間私共の客となり、そのころのベンガルの若い世代にはかり知れない霊感を与えました。それは私共の国で、国民の自覚が急激に勃興した一時期の直前の日でありました。東方の声がこの人から、私共の国の若い人々に伝えられました。これは意義深い事件であり、私自身の生涯の中の、記念すべき出来事でありました。彼は東洋の真価にふさわしい人間の精神に雄大な表現を与えることを、生涯の使命とするように、青年達に要求しました。」*2


 天心がベンガル滞在中に執筆した『The Ideals of the East(東洋の理想)』がロンドンのジョン・マレー社から出版されたのは1903年で、冒頭のAsia is One.がのちに大東亜戦争のスローガンに利用されるのは天心の与り知らぬことであった。OneはUnity(統一性)ともいうべき意味合いであり、詩人としての天分をもった天心にとって「類縁の精神が合一する」*3ことこそ自らの理想とする最高の境地であった。タゴールは同じ講演において、異なった言語と気質とをもつヨーロッパの国々が「結合」してつくりあげた光輝ある文明を称揚し、こう述べている。「固有の能力を持った人間の精神が一緒に働けば、不滅の生命を持つ一つの潜在的な力が、発揮されることを証明しています。これがヨーロッパ文明から、私共の受入れることのできる最高の教訓であります」と。ここに天心の考えた「アジアはひとつ」の余響を聴くことは難しくはない。
 天心はボストン美術館の中国・日本部長の職に就き、1912年、再度インドを訪れる。スレンドラナートの妹インディラが嫁いだチョウドゥリ家の晩餐の席で、天心はその家の主人の姪であるひとりの美しい寡婦と出会う。「宝石の声をもつ人」を意味するプリヤンバダとなのるその女性は『花粉』という詩集をもつ詩人でもあった。短い滞在期間中にわずか三度のみ彼女とまみえた天心は、ボストンへ向かう船中で彼女への手紙をしたためる。ふたりが英文で交わした三十余通の往復書簡はふたりの死後奇跡的に発見され、いまわたしたちの手許に一冊の本として、大岡信・玲両氏の見事な邦訳で遺されている*4


 「私はますます、あなたの清らかに澄んだ月のような魂と、私がこざかしくも私の心と呼んでいるところの泥んこの沼との間に横たわる、はてしないへだたりを思い知らされています。私はほんとにあなたにはふさわしくない男です――放埓で、利己的で、頑迷で、いやらしい獣で、ぼろぼろで、生のさまざまなみじめったらしい戦闘から受けた醜い傷あとをくっつけています。私はいったいあなたが何をこの私の中に見たのか、と思います。二人のあいだのこの素晴らしい出来事が、ほんとのこととはまるで思えません。私という人間は、結局のところ、一場の夢ではないのですか。」
          (1913年7月22日 五浦  プリヤンバダ・デーヴィー宛  岡倉覚三) 


 天心の脳裡には、かつての九鬼波津子との、姪八杉さだとの「過ち」の記憶が揺曳していたにちがいない。しかし、それもプリヤンバダには与り知らぬことである。こう書いた一か月余ののち、1913年9月2日に天心はこの世を去る。プリヤンバダと出会ったちょうど一年後のことであった。
 天心がプリヤンバダに宛てた、贈り物を列挙した最後の手紙――「あなたには、/羽織一枚(菊花の紋をつけたガウン)/帯一本(日本の婦人がウェストに巻く厚い飾り帯。別の使い途もありましょう)。菊花文様/帯一本(博多織として知られるもの)/しごき一本(飾り帯)菊花文様」――は、ランボーが死の前日に妹のイザベルに口述した最後の手紙――「一荷――象牙一本のみ/一荷――象牙二本/一荷――象牙三本/一荷――象牙四本/一荷――象牙二本」――を思わせる。
 赤倉山荘で死の床にあった天心は、こうつぶやいたという。「神様貴方のなさる事に感心しない事が有る」*5
 タゴールがアジア人として初のノーベル賞を受賞したのは1913年、奇しくも天心の長逝した年であった。


【追記】岡倉天心とプリヤンバダ・デーヴィーとの交遊を中心とした大原富枝の評伝『ベンガルの憂愁』がこのほどウェッジ文庫より刊行された(2008.12.28 記)

宝石の声なる人に―プリヤンバダ・デーヴィーと岡倉覚三*愛の手紙 (平凡社ライブラリー (221))

宝石の声なる人に―プリヤンバダ・デーヴィーと岡倉覚三*愛の手紙 (平凡社ライブラリー (221))

ベンガルの憂愁―岡倉天心とインド女流詩人 (ウェッジ文庫)

ベンガルの憂愁―岡倉天心とインド女流詩人 (ウェッジ文庫)

*1:東洋文化と日本の使命」、タゴール著作集第7巻、アポロン社、1960年。

*2:同上。

*3:大岡信岡倉天心』朝日選書、1985。

*4:大岡信大岡玲編訳『宝石の声なる人に――プリヤンバダ・デーヴィーと岡倉覚三*愛の手紙』平凡社ライブラリー、1997年。

*5:桶谷秀昭「憂ひ顔の美の使徒」、『滅びのとき昧爽のとき』小沢書店所収、1986年。