アイルランドの飛行士は死を予見する

 

『幸せの答え合わせ』という映画を見た。2019年製作のイギリス映画で、原題はHope Gap、劇作家でもある監督のウィリアム・ニコルソンが自作の戯曲「モスクワからの退却 The Retreat from Moscow」をアダプテーションしたものだ。「モスクワからの退却」は、ナポレオンのロシア戦役における敗退を意味するが、物語は歴史的な戦争をテーマにしたものではなく、現代英国のある家庭における夫婦間の諍いを描いたものである。

 映画の冒頭、イギリス南部の海辺の町シーフォードの「ホープギャップ」と呼ばれるゴツゴツとした入り江で遊ぶ少年の姿が現れる。腰をおろして少年を見守る母親。回想シーンであることを示すように、成人したのちの少年のボイスオーバーが画面に流れる。「母親はなにを考えていたのか。幸せだったのだろうか」と。

 彼女は海辺から家へと向かいながら、パラグライダーの男に声をかける。「孤独な歓喜の衝動?」「なんだね、それは」と問う男に、彼女は「W・B・イェーツの詩よ」と応える。そして「戦いに駆り立てるのは法や義務でも、政治家や民衆でもない。孤独な歓喜の衝動が私を騒乱に向かわせた」と彼女の詩を読む声が続き、それは彼女が家に戻って机の前で珈琲を飲みながら詩集を開いている場面へとつながる。「すべてを比較し考えを巡らせると、将来がむなしく思えてくる。過ぎ去った年月も同じだ、生と死が等しい今の状況においては」。彼女は詩のアンソロジーを作ろうとしていて、この映画のなかでいくつかの詩が引用されもする。冒頭のイェーツの詩は、これから始まる物語のメタファーの役割を担っているのかもしれない。

 これは「アイルランドの飛行士は死を予見する」というタイトルの詩で、別の映画で印象的に、映画のテーマと分かちがたい形で引用されたことがある。それは『メンフィス・ベル』という1990年のアメリカ映画で、監督はマイケル・ケイトン=ジョーンズ。映画は第二次世界大戦でイギリスの基地に駐留するアメリカ空軍の若い兵士たちを描いたもので、メンフィス・ベルは彼らの乗る戦闘機の愛称だ。ナチスドイツを爆撃するための出撃の前に、アイルランド出身の兵士ダニーが詩を暗唱する。それがイェーツの「アイルランドの飛行士は死を予見する」なのだが、ダニー自身はそれを自分のつくった詩だと思い込んでいる……。

 大江健三郎はエッセイ集『新年の挨拶』のなかの1章で、この映画とイェーツの詩について詳述している。エッセイのなかの大江自身の訳でこの詩を引用しよう。

  アイルランドの飛行士死を予見する

 

 私は知っている 最後の時を迎えることを

 あの高みの雲のなかのどこかで。

 戦う相手を憎んでいるのではなく

 衛る者らを愛しているのでもない。

 私の郷土はキルタータン・クロス、

 わが同郷人はキルタータンの貧しい者ら、

 どのように終ってもかれらが損をこうむることはなく

 以前より幸いになることもない。

 法律や義務が戦いを私に命じたのではなく、

 役人らによってでも喝采する群衆によってでもない。

 喜びの孤独な衝動が

 雲の間のこの騒乱へとかりたてたのだ。

 私はすべてを計量し、思い浮べてみたが、

 これからの年月は呼吸の浪費と感じられたし、

 これまでの年月も呼吸の浪費にすぎなかった

 いまある生、ここにある死と計りあうなら。

 大江健三郎は、詩を引用した後、こう記す。

 この詩が、実際の戦闘に向かおうとして奮い立ち、また怯えてもいる若者の記憶の深みからよみがえる。そして、書きつぶしにみちたノートのなかでまとまったかたちをとる。しかもいったん出撃した後、負傷して恐慌状態にありながら、若者が啓示を再認するようにそれをイェーツの詩だったと認めるシーンに胸をうたれた……

 イェーツのこの詩「アイルランドの飛行士は死を予見する An Irish Airman Foresees His Death」は、筑摩世界文學体系71『イェイツ エリオット オーデン』の巻に田村英之助訳で収録されている*1。ちなみにこの巻の3人の詩人たちは、いずれも大江健三郎にとってデビュー時から変わることなく霊感源となってきた大きな存在である。『新年の挨拶』というこのエッセイ集のタイトル自体、オーデンの詩「A New Year Greeting」からとられたものだ。

 イェーツの詩に付された田村氏の注釈によれば、「アイルランドの飛行士」とはイェーツと親交のあったアイルランドの劇作家グレゴリー夫人の息子ロバート・グレゴリー少佐で、第一次世界大戦中にイタリア戦線で戦死した。キルタータン・クロスはアイルランドの地名。この注釈では「イタリア戦線で戦死」とのみ記されているが、大江健三郎(が繙読した研究書)によれば、英国空軍飛行士ロバート・グレゴリー少佐は、イタリア空軍の誤爆によって戦死したのだった。そしてイェーツがこの詩を書いた1920年には、イェーツは、そしてグレゴリー夫人も、「少佐がイタリア軍にあやまって撃墜されたことを知らないままだった」……。

 大江はここからさらに「誤爆による死」へと考察をすすめる。のちに『ヒロシマの「生命の木」』という本にまとめられることになるテレビ番組の取材で、大江はプリンストン大学理論物理学フリーマン・ダイソンにインタビューをした。ダイソン博士によれば、第二次大戦時にイギリス空軍が考案した迎撃システムは、レーダーで探知した敵機(ドイツ戦闘機)を自動的に射撃する機銃装置なのだが、「このシステムでは敵戦闘機一機に対して味方の爆撃機を四百機も撃ち落してしまう」というものだった。つづくダイソン博士の話はさらに驚くべきもので、1945年以降、ワシントン州の美しい小さな島に「ソヴィエトにいつでも核爆弾を落せる態勢にある戦略空軍司令基地」があり、「爆撃機も飛行士もみなつねに準備ができていて、誰かが声をかけさえすれば、すぐに世界を破壊しにでかけられる」のだという。戦争が終わり、平和な日常を取り戻した美しい小さな島で、出撃の合図を待ちながら年老いてしまった白髪の飛行士が、いまもなお所在なげに出撃の時を待ちつづけている光景を思い浮べて暗い笑いがこみあげてくるのを抑えられないが、飛行士は当然入れ替ってゆくのだろう。

 ダイソン博士は「そこにいる人たちに、世界はもうかれらを必要としていないということを、なんらかの方法でつたえねばならない。かれらにとって、自分たちがまったくなんの役にも立っていないという事実を受け入れるのは難しいことでしょう。かれらはじつに辛い事実に直面しなくてはならないのです」と語る。無意味な課役に携る若者に思いをはせるダイソン博士の想像力は称賛されるべきだが、彼がそう語ってから、世界は果たしてあるべき姿に向って前進しているだろうか。ほんとうに「世界はもうかれらを必要としていない」といえるだろうか。大江健三郎はこうしるす(30年前のことだ)。

このところのアメリカとロシア双方の核軍縮への意気込みは、すくなくとも両大統領の提案に見るかぎり非常なものだが、とくにロシア側軍部の核体制への固執をあらわす発言が少しずつ聞えてくるのは、当の課題の、制度化した凶々しさ、ともいうべき側面をあらわしている。

 そして、いまを「核による冷戦の終りの時」とするなら世界の壊滅の危機を乗り越えたというべきだが、祝祭の気分などどこにも窺えない。それぞれの国や国民を覆う「重い暗さ」がしだいに軽減されるとするなら、それはどのような手続きによってなのか。そしてそれに「わが国はどのような役割をはたしうるのだろう?」と大江は問いかける。

 大江が問いを発してから30年。「冷戦」は形を変えていまなお継続し、「世界の壊滅の危機」はさらに現実性を増しているかのようだ。核兵器は減少するどころか、いくつもの国に広まり、「誤爆」が引き金となって核戦争が起こる可能性はますます高くなりつつある。そうした現実の転換に「わが国はどのような役割をはたしうるのだろう?」……。

 

 映画『幸せの答え合わせ』に話を戻すと、冒頭近くで、ナポレオンの軍隊がロシアから退却する際に兵士たちがつけていた日記が数多く現存する、と語られる。戯曲「モスクワからの退却」はその兵士の日記に由来するのだろう。夫のボイスオーバーで語られる兵士たちの書き残した過酷な状況は、妻のボイスオーバーで語られるイェーツの詩と同じく、年老いた夫婦が辿って来た遥かな道のりと現在の二人のありようを暗示してもいるのだろう。

 物語の終盤、家を出て行った夫が暮す女の家を妻が突然訪ねる。訪問というより無断の侵入だが、そのシークェンスにダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの詩「Sudden Light」が、妻すなわちアネット・ベニングのボイスオーバーで流れる。彼女はその詩の第1行目「かつてここにいた I have been here before」をアンソロジーのタイトルにするつもりだったという。アネット・ベニングの朗読は絶品だった。彼女が朗読する詩のCDがあれば購入したいと思ったほどだ。

 その詩「閃光 Sudden Light」を『D. G.ロセッティ作品集』(岩波文庫)より松村伸一氏の訳で掲げておこう*2。 

     閃光

 僕はかつてここにいた。

  ただいつどうしてかはわからない。

 僕は知っている、ドアの向こうの芝生や

  甘く刺すような香りや

吐息のような音や、岸辺の光を。

 

 君はかつて僕のもの――

  どれくらい前かはわからない。

 ただあのつばめが舞い立つ方に

  君はこんなふうに首をめぐらせた。

面紗(ヴェール)が落ちた――すべて遠い昔に知っていたこと。

 

 あの頃、今――たぶんさらに今一度!……

  ああ僕の目のあたりに君の髪房が揺れる!

 かつてみたいに寝ころんでみないか?

  愛のためにこんなふうに。

ねむってめざめて、なお鎖は断たない。

 そして最後、彼女のつくった詞華集が息子の手によってインターネットのサイトとして開設される。サイト名はI have been here before。検索窓に単語を入れると、それに関連する詩が現れるという仕組みだ。息子は「希望」と入力する。現れたのは母が好きだといっていたアーサー・ヒュー・クラフの詩  ”Say Not The Struggle Nought Availeth“。これもアネット・ベニングの gently な朗読で流れる。こんな詩だ(平井正穂編『イギリス名詩選』岩波文庫より)。

   苦闘を無駄と呼んではならぬ

 

 悪戦苦闘しても無駄だ、

   骨折り損だし、怪我をするだけだ、

 敵は一向に怯まないし、逃げる気配もない、

   結局元の木阿弥だ、などと言ってはならない。

 

 希望を抱いて馬鹿をみるなら、心配が杞憂に終わることもある。

   もしかしたら、ここからは見えない戦場の一隅で、

 まさに今、君の戦友が逃げる敵を追っているかもしれない。

   君さえいなければ、勝利は味方のものかもしれないのだ。

 

 疲れきった様子で浜辺に打ち寄せている波も、

   いくら苦労しても一歩も前進してはいないように見える。

 それでも、ずっと彼方の湾や入江では、じわじわと、

   そして、黙々と、大きな潮がみちかけているのだ。

 

 夜明けの時にしても、東側の窓からだけ、

   光が射してくるのではない。

 東の空に太陽が昇るのが、どんなに遅々としていても、

   西の方を見るがいい、天地はもう明るくなっているのだ。

 アネット・ベニングビル・ナイの夫婦、ジョシュ・オコナーの息子、ほぼ3人だけの地味な映画だが、引用される詩が本歌取りの「本歌」として物語に陰影を与えている。見ごたえがあった。

【追記】文中《イェーツがこの詩を書いた1920年には、イェーツは、そしてグレゴリー夫人も、「少佐がイタリア軍にあやまって撃墜されたことを知らないままだった」》の「この詩」は、「アイルランドの飛行士は死を予見する」ではなく、「報復」という詩であり、原文はイェーツとグレゴリー夫人は、ロバート・グレゴリー少佐の死は知っていたが、誤爆による死であるとは知らなかった、の意味である。訂正する。ちなみに、グレゴリー少佐が亡くなったのは1918年、「アイルランドの飛行士は死を予見する」は、1919年刊行のイェーツの詩集The Wild Swan at Cooleに収められた(『対訳 イェイツ詩集』の注)。この詩はグレゴリー少佐を追悼する詩といっていいだろう。(2022年11月13日記)

        

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*1:『対訳 イェイツ詩集』岩波文庫には、高松雄一氏の訳で「アイルランドの飛行士は死を予知する」の題で収められている。

*2:訳注によれば、最終連「あの頃」以降の5行は1870年版に従ったとのこと。1881年版では、次のようになっている。「これは前もこんなふうだったのか?……/逆巻いて過ぎゆく時はこんなふうに/死のあらがいを受けてなお/僕等の愛を命と共に取り戻すのか?/昼と夜はもう一度一つの歓びを与えてくれるのか?」

チャンドラーの小説のある人生――新訳『長い別れ』をめぐって

 

 いささか旧聞に属するけれど、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』の新訳が出た。訳者は田口俊樹、タイトルは『長い別れ』。ハメットの『血の収穫』、ロスマクの『動く標的』の翻訳に次いで、「ハードボイルド御三家」の長篇に満を持して挑戦した、とのこと。

 清水俊二訳の『長いお別れ』も村上春樹訳の『ロング・グッドバイ』もすでに読んでいるのに新訳に手を伸ばしたのは「例の個所」がどう訳されているかを確かめたかったからだ。以前、ここで片岡義男鴻巣友季子の共著『翻訳問答』について「チャンドラーを訳すのはやっかいだ」と題して論じたことがある。その個所を中心にかなり詳細に紹介したので、興味のある方は以下のリンクに当たっていただければ幸いである。

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 ここでは、うんと端折って再説してみよう。

「例の個所」とは、The long goodbyeの冒頭、原文で、At The Dancers they get the sort of people that disillusion you about what a lot of golfing money can do for the personality.と書かれているところ。

 清水俊二訳では「“ダンサーズ”では、金にものをいわせようとしても当てがはずれることがあるのだ」。

 村上春樹訳では「金にものを言わせようとしても人品骨柄だけはいかんともしがたいことを人に教え、幻滅を与えるために、〈ダンサーズ〉は、この手の連中を雇い入れているのだ」。

 これに対し、片岡義男訳は「ザ・ダンサーズの客はかねまわりの良さが人の性格をいかに歪めるかの見本のような人たちで、彼は店の客にはすでに充分に幻滅していた」。

 鴻巣友季子訳は「なにしろ〈ダンサーズ〉なんかで働いていれば、人間いくらお金に余裕があっても、人柄が良くなるわけではないという残念な例に山ほどお目にかかるのだから」。

 ついでに触れた『R・チャンドラーの「長いお別れ」をいかに楽しむか』の著者・山本光伸訳は「〈ダンサーズ〉がこの手の連中を雇い入れているのは、どれだけ遊び金を持っていようとお里は知れているということを思い知らせるためなのだ」。

 村上春樹訳と山本光伸訳の「この手の連中」、片岡義男訳の「彼」は、いずれも駐車場の係員を指す。村上/山本訳の、〈ダンサーズ〉が(客に?)幻滅を与える(思い知らせる)ために「この手の連中を雇い入れている」には首をかしげた。駐車係のあんちゃんがどうやって客に幻滅を与えるのか、そこのつながりがよくわからなかったからだ。片岡訳は意味はよく通るが、駐車係のタフぶったあんちゃんが客に幻滅していたという点にひっかかりがあった。そんなにウブなのかね、と思ったのだ(鴻巣訳も幻滅するのは店で働いている人間だという点で片岡訳と同じといっていい)。

 さて、では田口俊樹の新訳ではどうか。

「遊びに大金をはたく人たちは人間的魅力にもあふれている、などという幻想をものの見事に打ち砕いてくれる人種が集まる店が、この〈ダンサーズ〉という店だ。」

 ここではdisillusionを「幻滅」ではなく、「幻想を打ち砕く」と訳している。打ち砕かれたのはタフぶったあんちゃんというわけではない。わたしには、この訳がいちばんしっくりするものだった。ちなみに、わたしが以前、試訳として挙げたのは「ダンサーズには、金に余裕がありさえすれば人柄も良くなるといった迷妄を醒まさせるような類いの人間たちがいるものだ」である。

 清水俊二訳『長いお別れ』は、その切れのいい訳文で、村上春樹も含めてすべてのチャンドラリアンがお世話になった訳書だが、正確さではいささか難点があった。村上訳は原文に忠実に翻訳した画期的な翻訳だったが、その分、文章がややもったりするという難点があった。それは、カーソン・マッカラーズの『結婚式のメンバー』の訳文に関しても同様である。

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 このたびの田口俊樹の新訳『長い別れ』は、正確さをそこなわず、しかもきびきびとした訳文で「名手渾身の翻訳で贈る決定版」(帯の惹句)というにふさわしい。だれかに薦めるならこの本がいいと思う。

 村上春樹は『さよなら、愛しい人』の訳者あとがきで次のように書いている。

いざ翻訳するとなると、チャンドラーの凝った描写文体は時としてまことに厄介な代物である。癖があるというか、論理的・整合的というよりはむしろ気分で書いていくところがあって(そういうところはフィッツジェラルドの文章に少し似ているかもしれない)、しばしば頭を抱え込まされる。すらすらと読んでいるぶんには「なんとなく気分的にわかる」のだが、細部をできるだけ正確に日本語に置き換えようとすると、場合によってはだんだん頭がこんがらがってきて、「ここまでややこしく書かなくてもいいだろうに」とつい愚痴も言いたくなる。だいたいそんな筋には直接関係のない描写をいくら丁寧に訳しても、読者の大半は適当に読み飛ばしてしまわれるのだろうし(失礼)。

 くだんの個所も、チャンドラーが気分で書いた厄介な代物で、そういう意味では清水俊二訳は「大人の風格のある」(『ロング・グッドバイ』の村上春樹の訳者あとがき)いい訳文というべきかもしれない。村上春樹はおなじく『さよなら、愛しい人』の訳者あとがきでこう述べている。

チャンドラーの小説のある人生と、チャンドラーの小説のない人生とでは、確実にいろんなものごとが変わってくるはずだ。

 いかにも村上春樹らしい警句で、チャンドラーの小説とは半世紀以上の付き合いのあるわたしも、そうかもしれないと思わせられる。これがチャンドラーでなく、ドストエフスキーだとすれば、やや重すぎる。たしかにいろんなものごとが変わってくるだろうけど。あるいは、カフカなら「どんな人生だよ」と突っ込まれそうだ。いろんな作家の名前を当てはめてみるのも楽しいが、やっぱりチャンドラーとかチェーホフあたりがしっくりくるようだ。

 ちなみに「チャンドラーの小説のある人生」を送ったとおぼしい作家の書いた小説を挙げておこう。グアテマラの作家エドゥアルド・ハルフォンの『ポーランドのボクサー』(松本健二訳)という短篇集だ。

ロング・グッドバイ』の「例の個所」のすぐ前にこんな文章がある。

女は駐車係に、ぐさりと突き刺さり背中から少なくとも四インチは飛び出しそうな視線を向けた。(田口俊樹訳)

 いかにもチャンドラーらしい張喩で、村上春樹も小説で(たぶんチャンドラーに学んで)よく使う修辞法だ。『ポーランドのボクサー』の「彼方の」という短篇にこんな一節がある。

ハルフォン先生、フアンが退学したわけをご存じですか? いや、大学では個人的事情としか教えてもらえなかったと私は答えた。わたしたちのほうでそうしてほしいと頼んだのです、と母親は言うと視線を落としたが、あまりの勢いだったので、まるでそのまま花崗岩の床を貫いて地面に突き刺さりそうに見えた。

 チャンドラリアンとおぼしいハルフォンも、『ロング・グッドバイ』の突き刺さる視線の比喩に感銘をおぼえたのだろう。『ポーランドのボクサー』はいい小説集だ。ハルフォンのほかの作品も読んでみたいと思う。

 

 

 

『雪国』裏ヴァージョン――川端康成『雪国』について(その3)

 

 前述の水村美苗の「ノーベル文学賞と『いい女』」というエッセイには、『雪国』の英訳に関してもう1ヶ所、興味深い指摘があった。島村が駒子に「君はいい子だね」といい、それが「君はいい女だね」という言い方に変わる場面である。ざっとおさらいしておこう。新潮文庫では145頁。

 宿で、冷酒で悪酔いした島村を小さな子を抱くように介抱する駒子。島村はおさなごのように安心して駒子の熱い体に身をまかせたというから、添い寝でもしていたのだろうか。「君はいい子だね」島村はぽつりという。「どこがいいの?」と問う駒子に「いい子だよ」と繰り返す島村。要領を得ない言葉に駒子は「そう? いやな人ね。しっかりして頂戴」と取り繕いながら、ふと合点がいったかのように含み笑いをしながら、借着してお座敷に出るような私のどこがいい子なのよと混ぜ返す。さらに、初めて会った時に、島村が自分に芸者の世話をさせようとしたことまで言い募る。島村は、最初の駒子との出会いから馴染みになるまでのゆくたてを振り返ってでもいたのか、「一人の女の生きる感じが温く伝わって」きて、「君はいい女だね」という。「どういいの」という問いにも「いい女だよ」と繰り返すだけだ。「おかしなひと」と駒子は怪訝そうにしていたが、一転して何かに気づいたように「それどういう意味? ねえ、なんのこと?」と突然激して島村を詰問する。

「言って頂戴。それで通ってらしたの? あんた私を笑ってたのね。やっぱり笑ってらしたのね。」

 真赤になって島村を睨みつけながら詰問するうちに、駒子の肩は激しい怒りに顫えて来て、すうっと青ざめると、涙をぽろぽろ落した。

 (略)

 島村は駒子の聞きちがいに思いあたると、はっと胸を突かれたけれど、目を閉じて黙っていた。

「悲しいわ。」

 駒子はひとりごとのように呟いて、胴を円く縮める形に突っ伏した。

「あんた私を笑ってたのね」という言葉は前にも聞いた覚えがある。そう、初めて「あんなこと」があった後のことである。「心の底で笑ってるでしょう。今笑ってなくっても、きっと後で笑うわ」と駒子はむせび泣いたのだった。あの時からずっと島村は笑っていたのだと思い、「くやしい、ああっ、くやしい」と泣きじゃくる駒子。

 英訳では「君はいい子だね」は’You’re a good girl.’ 「君はいい女だね」は’You’re a good woman.’となっている。水村美苗はくだんのエッセイで、You’re a good girl.は問題ないが、You’re a good woman.は「君は正しい人だね」あるいは「あなたは正しい人です」というニュアンスになるという。つまり倫理的な意味での「善き人」を表す。したがって、You’re good.とでもすれば、「You’re good girl in bed」というニュアンスをもちえたかもしれない、と水村はいう。

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 だが、仮に島村が’You’re a good woman.’ではなく、’You’re good girl in bed.’という意味で’You’re good.’といったとしたら、駒子はどう聞きちがえたことになるのだろうか。’You’re good girl in bed.’といわれたと思い、激昂したのではなかったか。さらにいえば、駒子が怒ったのは、たんに性的存在として見られたというだけではなく、「都合のいい女」と思われた、と思ったからだろう。金銭づくではないけれど、不見転芸者と同列に見られていた、駒子にはそれが口惜しかった。

「私はそういう女じゃない」、それが駒子の自恃なのだ。島村はそういうつもりで言ったのではなかったが、駒子の「聞きちがい」は故なきことではないのだと「心疚しいものがあった」。駒子に「それで通ってらしたの?」と問われれば、そうではないと言い切れない。だから疚しいのだ(サイデンステッカーは英訳の序文に「彼が何気なく“いい女だよ”とことばを変えた時、彼女は今まで利用されていた自分に気がつく」と書いている。角川文庫版『雪国』に収録)。

 島村はどう思っているか知らないが、私は島村を愛している。その愛がまったくの一人芝居だったのが悲しい。駒子は銀の簪を「ぷすりぷすり」と畳に突き刺しなどしていたが、ふいに部屋を出ると、思い直したのかすぐに戻ってきて島村を湯に誘った。

 翌朝、客の謡の声で島村が目を覚ますと、鏡台の前にいた駒子が立ち上がってさっと障子を開ける。

 窓で区切られた灰色の空から大きい牡丹雪がほうっとこちらへ浮び流れて来る。なんだか静かな嘘のようだった。島村は寝足りぬ虚しさで眺めていた。

 謡の人々は鼓も打っていた。

 島村は去年の暮のあの朝雪の鏡を思い出して鏡台の方を見ると、鏡のなかでは牡丹雪の冷たい花びらが尚大きく浮び、襟を開いて首を拭いている駒子のまわりに、白い線を漂わした。

 前回の末尾に書いた場面に照応する美しいシーンだ。そして、続けて、

 駒子の肌は洗い立てのように清潔で、島村のふとした言葉もあんな風に聞きちがえねばならぬ女とは到底思えないところに、反って逆らい難い悲しみがあるかと見えた。

 そういう女じゃないはずの駒子が温泉芸者に身を落している。肌の清潔さがよりいっそう駒子の悲しみを表しているかのようだった。

 この場面が『雪国』初版のラストシーンである。文庫本では2行空けて、新たに書き加えられたシークェンスが続き、繭蔵の火事の場面で幕を閉じる。これが『雪国』現行版となる。

 ここで、前述したBSドラマ版『雪国』について述べておこう。

 ドラマ版では島村が視点人物となり、彼のモノローグで物語が進行してゆくため、駒子の内面はうかがい知れない。それだけいっそうミステリアスな存在として印象づけられるのだが、ドラマでは原作のラストシーンである繭蔵での火事のあと視点人物が入れ替り、冒頭の場面にまで戻って駒子の日記(原作には文面は出てこない)をなぞりながら駒子のモノローグによって内面を明かしてゆく。ミステリーの謎が解き明かされるように、あるいは伏線が回収されるように*1

「私はそういう女じゃない」も「私が悪いんじゃないわよ。あんたが悪いのよ。あんたが負けたのよ。あんたが弱いのよ。私じゃないのよ」も「あんた、心の底で笑ってるでしょ」も、島村に対してではなく(心のなかで)行男に向けて発した言葉とされる。大胆でチャレンジングな解釈である。ドラマ版『雪国』は、制作者たちが小説『雪国』をどう読んだかという、ひとつの目覚ましい回答である。

 病気になった行男の療養費を稼ぐために芸者になったという噂を、「いやらしい、そんな新派芝居みたいなこと」と駒子は否定してみせたが、このドラマ版『雪国』は駒子と行男の秘められた純愛がテーマのまさに新派芝居となり、駒子の「悲しみ」はせつないまでに際立つ。駒子のモノローグで語られる物語は『雪国』のエモーショナルな裏ヴァージョンであり、実をいえばわたしは新派芝居が嫌いではない。

 駒子はいとまを告げる時でも決してその場を去ろうとはしない、とドナルド・キーンがどこかで書いていた。行動は口にした言葉を裏切り、言葉は感情と背馳する。

 川端がこの小説で行間に埋め込んだものはなにか。それは書かないということでその存在をより強く露わにするなにものかだ。レティサンス(闕語法)のお手本というべきだろう。読み込めば読み込むほどほんとうの姿が徐々に表れてくる、それが『雪国』だ。奥深い小説だと思った。

                               ――この項了

BSNHK『雪国』より

 

*1:駒子と葉子との関係も明瞭になるし、駒子が芸者に出るまえの本名も明かされる。また、島村と駒子が再会した宿で、駒子が島村の逗留をあらかじめ知っていたように見えるのは、行男を迎えに行った駅で島村の姿を認めたからだとされる。ちなみに脚本の藤本有紀は、NHKの『カムカムエヴリバディ』の脚本の「怒濤の伏線回収」で話題になっているらしい。見てませんけど。

black and white in the mirror――川端康成『雪国』について(その2)

 

 前回、島村と駒子の「あんなこと」について、思わず筆を費やしてしまった。しかし、ことはまだ終わっていない。肝心の「あんなこと」が小説でどう描かれているのかについて、ふれておかねばならない。

 呼び寄せた芸者と一緒に部屋を出た島村は、芸者を置き去りにしてひとりで裏山に登っていった。そして、山から下りてきたところで、くだんの二羽の蝶がもつれ合いながら飛び立つのだが、そこへ島村を探しに駒子がやってくる。島村は駒子にむかって、芸者は「止めたよ」と告げる。君に見劣りしないぐらいの女でないとその気にならないからねといったふうなことを言うと、駒子は「知らないわ」とそっけなく言いはしたものの内心悪い気はせず、「芸者を呼ぶ前とは全く別な感情が二人の間に通っていた」という成り行きとなる。「芸者を呼ぶ前」は一種のfriendshipの関係だったのが、芸者という性的存在が絡むことによって二人の関係が新たなステージに更新され、そこに性的な意味合いを帯びることになったのである。「はじめからただこの女がほしいだけだ、それを例によって遠廻りしていたのだ」と島村は気づく。そういう目で見ると女は「よけい美しく見えて」くるのだが、駒子を観察する島村の目は、いきおい官能的とならざるをえない。

 細く高い鼻が少し寂しいけれども、その下に小さくつぼんだ脣はまことに美しい蛭の輪のように伸び縮みがなめらかで、黙っている時も動いているかのような感じだから、もし皺があったり色が悪かったりすると、不潔に見えるはずだが、そうではなく濡れ光っていた。

 この駒子の口唇の描写は言うまでもなくvaginaの暗喩にほかならない。つまり、性的存在として駒子を見る島村の視線を川端の描写はなぞっているのである(駒子の口唇の描写はあとでもう一度出てくる。そしてそれはいっそう官能的な描写となり、「彼女の体の魅力そっくりであった」と語られる(むろん、体を重ねたのちのことである)。

 そしてその夜、駒子はなじみのスキー客に安酒をしこたま飲まされて、泥酔状態で島村の部屋へやってくる。「島村さあん、島村さあん」と声高に叫ぶ駒子の声は「それはもうまぎれもなく女の裸の心が自分の男を呼ぶ声であった」のだから先は知れている。「いけない。いけないの。お友達でいようって、あなたがおっしゃったじゃないの」「私はなんにも惜しいものはないのよ。決して惜しいんじゃないのよ。だけど、そういう女じゃない。私はそういう女じゃないの」と口では拒みつつ、それとは裏腹に駒子はからだを開いてゆく。

 酔いで半ば痺れていた。

「私が悪いんじゃないわよ。あんたが悪いのよ。あんたが負けたのよ。あんたが弱いのよ。私じゃないのよ。」などと口走りながら、よろこびにさからうためにそでをかんでいた。

 英訳ではこのあと1行ブランクが入る。それは女の放心状態を表すいかにも妥当な処置ながら、原文では空きはなく、「しばらく気が抜けたみたいに静か」だった駒子が、ふと我に返ったかのように「あんた、笑ってるわね」「今笑ってなくっても、きっと後で笑うわ」とむせび泣く。ここでも、袖を嚙むという動作で駒子の性的恍惚(trance)が暗示されるのみで、幼年の読者ならおそらくここも読み飛ばしてしまっただろう。島村は翌日、東京へ帰る。これが駒子との最初の出会いだった。

 ふたりが再会して、島村が例の人差し指を駒子に突きつけた夜、ふたりは一緒に湯に浸かり、島村の部屋で褥をともにするのだが、その場面も前に劣らずさらに「ぼかして暗示的に表現」される。

 部屋に戻ってから、女は横にした首を軽く浮かして鬢を小指で持ち上げながら、

「悲しいわ。」とただひとこと言っただけであった。

 女が黒い眼を半ば開いているのかと、近々のぞきこんでみると、それは睫毛であった。

 神経質な女は一睡もしなかった。

 固い女帯をしごく音で、島村は目が覚めたらしかった。

 ぼかしすぎでしょ。

 駒子が部屋に戻ると、もう蒲団のなかに身を横たえている。枕から浮かした日本髪の鬢を小指で持ち上げるというのは、鬢のほつれを小指で搔き揚げる仕種にほかならず、ということはすでに事は終わったあと、ということになる。

 和泉式部の和歌、

黒髪の乱れも知らずうち臥せばまづかきやりし人ぞ恋しき

を思わせる。

 そして「悲しいわ」とひと言漏らすまでが一文なのだから、この文章の凝縮力にはただならぬものがある。この「悲しいわ」という言葉もきわめてambiguousで、なぜ悲しいのか駒子自身にさえそのわけは確かではなかっただろう。

 ちなみに、「黒髪の乱れ」は女の乱れる恋心の暗喩にほかならず、「黒髪」は日本文学の伝統における必須アイテムである。川端もこの作品において駒子の黒髪、髪の黒さを執拗に描写しており(駒子が長唄の「黒髪」を口ずさむ場面もある)、『雪国』を「黒髪の小説」として主題論的に分析することも可能だろう(もう誰かがやってるでしょうね)。

 明け方、宿の人がまだ起きないうちに帰ろうと駒子は身支度をはじめる。鏡台に向かう駒子。窓外の雪が鏡の奥で真白に光り、雪のなかに真赤な頰を浮べた駒子の「なんともいえぬ清潔な美しさ」に島村は見とれる(島村は鏡に映る駒子を、汽車の窓硝子に映っていた葉子と重ね合わせている)。

 もう日が昇るのか、鏡の雪は冷たく燃えるような輝きを増して来た。それにつれて雪に浮ぶ女の髪も鮮やかな紫光りの黒を強めた。

 日の光りに輝いて目に痛いばかりの白い雪と底光りするような漆黒の髪との鮮やかな対比。それが鏡という縦長のスクリーンのなかでゆるやかに変化してゆくという幻想的で美しいシーン。川端会心の描写だろう。

                             ――この項つづく

豊田四郎監督『雪国』より

 

「あんなこと」や「こんなこと」――川端康成『雪国』について

 

 今年は川端康成の没後50年にあたる。そのせいか、NHKBSプレミアムで『雪国―SNOW COUNTRY―』が放送された(4月16日)。脚本藤本有紀、演出渡辺一貴、主なキャストは駒子が奈緒、島村が高橋一生、葉子が森田望智。奈緒の演ずる駒子は、「清潔な」と称されるとおりの透き通った表情で、雪景色のなかにひっそりと佇む姿は儚げで息を呑むほど美しい。いまどきの女優さんにはめずらしい雰囲気がある。

 冒頭、汽車に乗った島村が温気にくもる窓ガラス越しに葉子を認める場面。蒸気機関車の汽笛の効果音が入る。だが実際は、国境の長い(清水)トンネルを越えるには、煙の出るSLではなく電気機関車が用いられたといわれる(2つの映画版でも汽笛が鳴っていたが、これはもう定番か)。ちなみに、このBSドラマ版では島村のモノローグ(ナレーション)で物語が語られるが、冒頭では「国境(こっきょう)の長いトンネルを抜けると」と発音され、ラストで再度繰り返される際には「国境(くにざかい)の長いトンネルを抜けると」と発音されていた。「国境」の読み方には周知のように従来から議論があり、ここでは折衷案を取ったというところか。大庭秀雄監督『雪国』の予告編をYouTubeで見ると、「くにざかい」と発音していた。

 さて、今回のドラマ版は、島村のモノローグで物語が進行するため、駒子の内面は雪のヴェールに包まれたようにミステリアスだ。しかし、そのもどかしさに応えるかのように、ドラマは後半にちょっとした仕掛けを施し、駒子の内面を明らかにしてみせる。それについては後述するが、ドラマ版を見た余勢を駆って映画版の『雪国』を観る。豊田四郎監督の1957年の名作。岸恵子の駒子に魅了される。指先の、髪の毛の、一本一本までコケティッシュだ。その色香はときに妖艶ささえ感じさせる。八千草薫の葉子は対照的に清楚で、この世のものと思えぬほど神々しい。島村役の池部良岸恵子カップルに小津安二郎の『早春』が重なる。『早春』は『雪国』の前年、1956年公開だから、『雪国』のカップルに『早春』がなんらかの影を落としていたかもしれない。観客は当然二作を重ね合わせて観ただろう。

 続けて、小説『雪国』を読む。以前、再読しようと購入してそのままになっていた新潮文庫版である。中央公論社版の全集「日本の文学」で読んだ中学生以来の再読になるか。この小説は、徹頭徹尾、おとなの男と女の話であって、加うるに仄めかしと大胆な省略で読者を眩暈する。当時なにをどう読んだものやら覚束ないが、所詮中学生にこの小説がわかるわけがない。再読してそう思った。

 たとえば冒頭、島村が温泉宿の廊下で駒子と再会する場面。文庫版では16頁。

あんなことがあったのに、手紙も出さず、会いにも来ず、踊の型の本など送るという約束も果さず、女からすれば笑って忘れられたとしか思えないだろうから、先ず島村の方から詫びかいいわけを言わねばならない順序だったが(後略)

 なんの説明もなく突然「あんなこと」と書かれているので、読者は読み飛ばしてしまいかねないところだ。文庫版には以下のような「注解」が附されている。筆者は郡司勝義氏。

*あんなこと 著者は性にかかわる場面は、すべて直接に表現せず、ぼかして暗示的に表現をなしている。それが、一層深い含みをもたらしてくる。

 少し前の場面からたどってみよう。

 島村は、駅の待合室で青いマントを着て頭巾を被った女を見かけてはいたが、それが前に会った駒子だとは思わなかった。宿に着き、湯から上がって部屋に戻ろうとしたときに、長い廊下のはずれの帳場の曲がり角に、お引き摺りと呼ばれる裾の長い着物を着て立っている駒子がいた。小説では「女が高く立っていた」と書かれており、それを生かすためだろうか、BSドラマ版では階段を上りきった二階の踊り場で島村に背を向けて立っている駒子を仰角でとらえる。映画では、原作通り、駒子は長い廊下のはずれに背を向けて立っており、島村の存在を背中で感じるとくるっと振り返りわずかに微笑んでみせる。その駒子をカメラがズームしてバストショットでとらえる。駒子との再会がこのたびの逗留の目的でもあったのだから、島村は駒子の姿を見ても着物の長い裾から「とうとう芸者に出たのか」と思いはしても、出会ったことへの驚きはなかっただろう。いっぽう、駒子はといえば、島村がふたたび当地にやってきたことを知る由もないので、どこかで島村の姿を見かけたのか、あるいは宿の女中に教えられたのかもしれない。廊下での遭遇はむろん偶然ではなく、意図してのものだ(むしろ待ち伏せていたというべきか)。ふたりは「やあ」とも「おひさしぶり」ともいわず、示し合わせていたかのように黙って二階の部屋の方へと歩き出すのだから、ほとんど「道行」の場面といっていい。

 そして前述の「あんなことがあったのに…」に続くのだけれど、「あんなこと」といわれても中学生にはチンプンカンプンだったろう。島村はナシのつぶてにうち過ぎたことを後ろめたく思ってはいたが、駒子は「彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じている」風情で、「なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれて」、つい調子に乗って「こいつが一番よく君を覚えていたよ」と人差指を女の目の前に突きつけるのだから、ただのエロおやじだというしかない。そう思いませんか? 駒子は「そう?」とさりげなさを装いながらその指を握ったまま階段をのぼり、部屋に入ったとたん「さっと首まで赤くなって」いるのだから、むろん、その人差指がなにを意味しているかは百も承知だ。

 小説の冒頭、汽車のなかで島村は退屈まぎれに人差指を動かしながら「結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている」と思い、記憶のなかの女の姿はぼやけていても「この指だけは女の触感で今も濡れていて(略)鼻につけて匂いを嗅いでみたり」するのだから、「あんなこと」の正体は「こんなこと」かと大人にはわかるけれども中学生にはいささかハードルが高いだろう。文庫本には、「この表現は、きわめて触覚的で暗示的であり、肉感的な連想をさそう」と注記が施されているけれども、この注記じたいが「暗示的」で、性体験のない中学生にはもどかしさを感じるばかりだろう。

 以前ここで、水村美苗の「ノーベル文学賞と『いい女』」という、『雪国』の英訳について書かれたエッセイを紹介したことがある。

qfwfq.hatenablog.com

 英訳者のエドワード・サイデンステッカーは『雪国』の「際どいエロティシズム」を中和するために、たとえばこの「鼻につけて匂いを嗅いでみたり」という「非常に強烈な文章」を省略している、と水村美苗が指摘していた(サイデン氏はhe brought the hand to his face,「手を顔に持っていった」と訳している)。むろん、その一種の「自己検閲」が川端のノーベル賞受賞に寄与したと水村は考えているのだろう。

 さすがに映画の池部良は人差指の匂いを嗅いだりといった品のない真似はしなかった。まさかね。第一、窓硝子の曇りを掌で拭うと向かいにいる八千草薫の姿がファンタスマゴリーのように現れる場面では、たしか手袋をしていたはずだ。

 それはさておき。小説では、この再会から一転して、ふたりが初めて会った場面へとプレイバックする。島村は宿の女中に芸者を呼んでくれと頼むが、生憎とみんな出払っていて、踊りの師匠のところにいる娘なら呼べるかもしれない、と女中はいう。やってきた女に、島村は不思議なほど「清潔な感じ」を受け、歌舞伎の話などを夢中でしゃべる女に「友情のようなもの」を感じる。翌日、再び訪れた女に、島村は芸者を世話してくれと頼む。よくそんなことを頼めるものだと憤慨する女に、君を友達だと思うから口説かないんだ、という島村。口説かないのはよしとしても、なぜ彼女に芸者の斡旋を頼んだのだろう。女を揶揄ってその反応を確かめてみたいとでも思ったのだろうか。これってセクハラだよねえ。「島村はこうなればもう男の厚かましさをさらけ出しているだけなのに」と書かれているので、自分でもその理不尽さ(セクハラ)を自覚してはいたのだろう。島村にすればとりあえず性欲を満たすための相手がほしかっただけで、目の前にいる女はまだ十代の素人で、身の上話を聞くとなにやら事情がありそうなので、そんな「身の上が曖昧な女の後腐れを嫌う」という気持ちもあって女に手を出さなかったのだが、それにしても彼女に芸者の斡旋を頼むのは筋違いというほかない。

 結局、女中が呼んで、やってきたのは人はよさそうだけれど「いかにも山里の芸者」といった、おそらく垢抜けない十七、八のお姉ちゃんだったので、すっかりやる気を失ってむっつりしていると、「女は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしまうと、一層座が白けて」、島村は芸者を帰すために郵便局に行こうと芸者と一緒に部屋を出るのだが、この箇所に附された注釈が不可解だ。

*黙って立ち上って 客つまり島村に気に入られないで、断わられたと、この女は判断したため。

 これではまるで立ち去ったのが芸者のようだ。駒子は島村と芸者をふたりにするために気をきかせて立ち去ったのだが、注釈者のカンチガイを誘発した原因のひとつに名前の表記がある。小説ではここまでずっと駒子を「女」と呼んでいた。島村が駒子に初めて会ったとき、彼女はまだ芸者ではなかった。そして再会したときもまだ島村は彼女の名前を知らない。島村が彼女の源氏名を知るのは、再会した翌日、文庫本でいえば49頁、「今朝になって宿の女中からその芸名を聞いた駒子もそこにいそうだと思うと」で、初めて「駒子」の名が登場する。小説は島村の視点に寄り添うように、それ以降「女」ではなく駒子と表記することになる。三人称で書かれた小説で、この律儀な書き分けは珍しい。ちなみに、映画には、再会したばかりの駒子に島村が「おい、駒子」と呼ぶ場面があるが、これはmistakeだろう。

 ともあれ、奥付を見ると、この文庫が最初に発行されたのは「昭和22年7月16日」となっている。郡司勝義氏の注釈は、おそらく「平成18年5月30日 132刷改版」からだろう。わたしがいま手にしているのは「平成24年12月20日 148刷」である。それ以降にこの注釈に訂正が施されているのかどうかはわからないが、少なくとも改版が発行されてから6年間は見過ごされてきたわけだ*1。ついでに書いておけば、芸者と一緒に部屋を出た島村が、芸者を残して裏山のほうへひとりで上ってゆくと、二羽の黄蝶が島村の足元から飛び立ち、「もつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった」という箇所に附された注釈、

*蝶はもつれ合いながら この個所は駒子と島村との愛が破局に至るであろうことを暗示している。

 これは、角川文庫版『雪国』の澤野久雄の解説、

この小説の主人公は、山の宿で駒子に会うことを楽しみにしていながら、舞い上がる黄色い二匹の蝶に、いったい、何を見ているであろうか。「黄色が白くなってゆく」のは、やがては薄れるであろう愛の、はるかな予感であろうか。あるいは命の、薄れであろうか。

に示唆されてのことかも知れないが、注釈は批評や感想を述べる場所ではなく不適切だろう。

 澤野の解説文にしても、蝶が飛び立つのを島村が見たとはテキストのどこにも明示されていないのだから、こちらも不適切というしかなく、いわんや「薄れる愛の予感」だの「命の薄れであろうか」だのと感慨に耽っているのはみっともない。こうした埒もない「深読み」を誘発するのは川端の思わせぶりな書き方のせいであって、罪深い。

 こんな調子で小説を逐一辿っていると、BSドラマ版の「ちょっとした仕掛け」にまでなかなか到達しないが、長くなったのでこのあたりでいったん休止して、続きは後日にしよう。後日が数か月先にならないようにしたいものだ。

                           ――この項つづく

 

豊田四郎監督『雪国』より

 

*1:書店で確かめてみたら、「令和2年8月5日 157刷」でもこの注は健在だった。5月2日記

中野重治の電話

 

「七年前の春だったと思う、中野重治さんから手紙をいただいた」という書き出しでその文章は始まる。達筆にしるされたその名前は、すぐには「歌のわかれ」の作者とむすびつかなかった。なにごとかと訝しみつつ手紙を開いてみると、あなたの書いた小説「心中弁天島」を読みたいのだが、何年何月号であるのか御教示されたし、と書かれている。あの中野重治がなにゆえ一介の物書きの娯楽読み物に興味をもたれたのか、その故よしはわからぬものの「読んでいただけるなら、幸せこれに過ぐるはない」と感激した。

 学生時代、同居していた友人に詩人中野重治の存在を教えられ、貸本屋で『歌のわかれ』を借りて読んだ。大学に籍は置いていたものの、戦後の混乱のなかで寄る辺ない日々を過ごし、娑婆から遁走して坊主にでもなろうかと腐心していた頃だった。その本の印象は「一言でいうと清冽であった」。昭和二十九年暮のことだった。

 この文章の書き手はいうまでもなく野坂昭如なのだが、野坂は「心中弁天島」が収録されている刊行されたばかりの作品集(『軍歌・猥歌』か)ともう一冊を中野宅へ届けに押っ取り刀で参上した。同行した友人が玄関をあけると、中野重治本人がお出ましになり、「野坂の使いの者」だと告げると随分と驚いた。「あのおどろきようは、どうも野坂参三とまちがえたんじゃないだろうか」と友人は笑ったが、日本共産党の内部事情について疎い野坂昭如には要領を得ない受け答えだった。野坂はこの小文を次のように結んでいる。

 考えてみると、ぼくは中野重治さんについて、何も知らない、しかし、『歌のわかれ』は、なにものにもかえがたい、ぼくの青春の書であり、あの時期に、この小説とめぐりあえたことは、本当に幸せだったと思う。

 この短いエッセイは中公文庫の新刊、中野重治『歌のわかれ・五勺の酒』の巻末に収録されたものだ。

 来年2022年は中野重治の生誕120年であるという。帯に「生誕120年/文庫オリジナル」を謳い、「歌のわかれ」の末尾の一節から引用した「兇暴なものに立ち向かうために」のキャッチコピー。カバーはモホリ=ナジの抽象画。

 この文庫に収録された中野の小説は表題の二作のほかに「春さきの風」「村の家」「広重」「萩のもんかきや」その他、全九作品。巻頭に詩を一篇(「歌」)、それに中野自身の随筆四篇、さらに「解説」がわりに石井桃子安岡章太郎北杜夫野坂昭如らの中野について書かれたエッセイを収録するといった構成である。中野自身の小説にかんしては、いずれも「定番」といっていい作品で選定に新味はない。初めて中野の小説にふれる読者を想定しているのかもしれない。同様の文庫版アンソロジーであるちくま日本文学全集の『中野重治』の巻とは六作が重なっている。

 野坂ら四人のエッセイは、いずれも中野重治全集の月報に掲載されたものの再録である(安岡章太郎の文だけが定本版全集で、それ以外は新版全集かと思う)。北杜夫の文は以前読んだような気がするが、他はすべて初読である。あるいは一度読んだものの覚えていないだけなのかもしれない。わたしは中野重治全集全二十八巻(別巻一)のうち十五、六冊をもっているし(定本版と新版がまぜこぜだが)、単行本はたぶん二十冊ぐらいはもっている。さらに、旧版中野重治全集(四六判だった)の端本やら各種日本文学全集の中野の巻やら文庫版やらなにやらを合わせると五十冊はくだるまい。したがって、この中公文庫版に収録されている小説はすべて数種類の刊本でもっているのだけれど、それにもかかわらず、野坂のエッセイを読むためにだけでも本書を買ってよかったと思う。

 さて、わたしはかつて中野重治と、あるかなきかの些細な交流があった。そのことを「中野重治の電話」と題して書いたことがある。山田稔さんの『天野さんの傘』の刊行を記念して(そして、《「第5回かまくらブックフェスタ」への参加を記念して》)真治彩さんが作成された小冊子「感想文集『天野さんの傘』」に掲載されたものだ。「ぽかん」の別冊というべき同冊子は2015年の刊行で、すでに販売期間も終わっていることと思いここに再掲する。

           ***

  中野重治の電話

『天野さんの傘』は追悼文集といっていいほど知人友人たちのメモワールで埋め尽されている。生島遼一、伊吹武彦、長谷川四郎天野忠、松尾尊兊、黒田憲治、北川荘平、大橋吉之輔、そして富士正晴。「早々と舞台を去った」人々を「記憶の底を掘返して」ありありと現前させる、山田稔さんのエッセイの真骨頂である。

 松尾尊兊の訃報に接した山田さんは、書棚から松尾の『中野重治訪問記』を取り出して読み返す。松尾は京大人文研の助手仲間で、以来六十年に及ぶ交遊が続いていた。同著の記述をたどりながら、山田さんは在りし日の「松尾君」を呼びもどす。かつて「詩人の贈物」(『八十二歳のガールフレンド』)で書いたように、「思い出すとは、呼びもどすこと」なのだ。 

 わたしもまたこの本に導かれて書棚から『中野重治訪問記』を取り出してみた。松尾は師の北山茂夫が中野と親友であったことから、中野の知遇を得る。松尾にとって中野は愛読者として仰ぎ見る存在だったが、たびたびの訪問で中野も松尾に胸襟を開き、中野の死に際して夫人の原泉から「松尾さまは中野が心を開いて語りえたお一人だった」との書状が届くまでになっていた。「純朴」「晴朗とでもいうべき健康な明るさ」と山田さんがいう松尾の人柄が愛されたのだろう。

 松尾は中野邸を弔問したさいに、中野の書簡を集めるよう夫人に進言し、中野の死の翌年の一九八〇年、原泉は書簡蒐集に着手する。松尾は本書の序文で「厖大な来翰のうち文学者のものだけでも、中野さん自身の書翰とともに、『全集』の追録として、ぜひ公表してほしい」と記したが、それから三十余年を経た二〇一二年、七六五通を収録した六五〇頁におよぶ『中野重治書簡集』(平凡社)が刊行された。このなかには松尾尊兊に宛てた十三通も含まれている。すでに原泉も鬼籍に入り、息女の鰀目卯女さんが終始温かく見守ってくださった、と後記に書きとめられている。

中野重治訪問記』を読みおえ、浩瀚な『中野重治書簡集』を拾い読みしたわたしは、余勢を駆って石堂清倫『わが友中野重治』(平凡社)をひもといた。石堂は金沢の四高で中野の後輩にあたり、東大新人会でいっしょに活動した仲間である。同著は『中野重治訪問記』とは当然趣きがことなるが、中野をよく知る知己ならではの含蓄にみちている。中野は所属するコップ(日本プロレタリア文化連盟)への官憲の弾圧で投獄されたが、もし外部との交渉を断たれ、「一年でよいから一切文学に接する機会をうばわれ、単独で沈黙に立ち向うことがあったら、どうであったか」と石堂はいう。「甘える中野、甘やかした周囲は、小型か中型の愛情の世界に中野をとじこめはしなかったか」と。

 ちなみに、わたしは中野重治と一度だけ言葉を交わしたことがある。一九七六年、書評紙の編集者になった年のことである。その年の暮れに発行する翌年新年号のために、正月に相応しいネームヴァリューのある作家や学者に、「新年の抱負」といった短いエッセイを依頼することになった。文学の書評欄を担当していたわたしは、中野重治に原稿依頼の電話をかけた。記憶はさだかでないが、『中野重治全集』をしらべると第二十八巻に「白い杖のかわりはないか」という文章があり、末尾に(七六年十二月十五日)と日付が入っている。三百字ほどの短文である。おそらくこれにちがいない。わたしはこの原稿を受け取るために世田谷の中野邸へ赴いた。玄関先で封筒に入った原稿を原泉さんから受け取ったように思う。「今年はすこし落ちついて勉強したい」という書き出しだが、この年、中野重治は七十四歳、亡くなる三年前である。

 じつは中野重治とはもう一度言葉を交わしている。原稿が掲載された一月後だったか、中野さんから電話がかかってきた。稿料が届かないがどうなっているかという催促の電話だった。わたしは恐縮しながら、いかにも中野らしいと感心した。電話を切ったわたしが早急に支払うよう経理に督促したのはいうまでもない。

 

 

 

 

「群像」10月号を読んでみる(てか、目次をつらつら眺めてみる)

 

「群像」という雑誌があります。このブログをたまにご覧になるような方なら当然御存知でしょうが、あの「群像」です、文芸誌の。

 ふつう、日常会話のなかでグンゾーといっても通じません。「グンゾー?」と訝しげに訊かれて「いや、あの、ほらノーベルショーを取るとか取らないとか噂になってる小説家の村上春樹がシンジンショーを取った雑誌の…」とかなんとかゴニョゴニョいって問題を複雑にするのがおちです。今月号の「群像」に出ていたナントカの小説が、とかいって通じるのはきわめて狭い世界のはなしです。ま、それはともかく。

 最近、といっても、いつごろからか定かではないけれども、「群像」が分厚くなりました(どうやらリニューアル以降らしい)。手元にある10月号(今年の)なんてほぼ600頁ある。1頁に400字・約3枚入るとして、1冊1800枚! ゆうに単行本3冊分はあります。ちなみに文芸誌御三家の「新潮」10月号が約430頁、「文學界」10月号が約330頁であるのに比べると、ダントツに厚い。念のために書いておくと、この3冊はすべて図書館から借り出したもので、発刊後ひと月経つと借りることができるので、とりあえず借り出すことにしています。

 で、その「群像」10月号は創刊75周年記念号と銘打たれています。終戦の翌年に創刊されたんですね。河出の「文藝」なんて歴史はもうすこし古いけれど、倒産で休刊したり判型を変えたり満身創痍でなんとかつづいて、いまは季刊でやってます。頑張ってね。その創刊75周年記念号の巻頭が高橋源一郎の「オオカミの」という、これは短篇小説なんでしょうか。「デビュー作『さようなら、ギャングたち』から四十年」と惹句にあります。もう40年なんだ。ちなみに源ちゃんはわたしと生年月日がちょうどひと月ちがい。「さようなら、ギャングたち」は81年の掲載ですが、その2年前に村上春樹が「風の歌を聴け」で「群像」からデビューしたのでした。感慨深いです。

 目次をもうすこし辿ってみると、「小特集・多和田葉子」として多和田葉子の長篇小説「太陽諸島」の第1回目と池澤夏樹野崎歓の批評。「批評・エッセイ」というくくりで、柄谷行人「霊と反復」、蓮實重彦「窮することで見えてくるもの――大江健三郎『水死』論」があり、これが今号のわたしの「お目当て」です(40年前と変わりませんね)。あと、「創作」コーナーには瀬戸内寂聴大先生の掌編小説「その日まで」なんてのもあります。ほかのページより文字を大きくして、ここだけ1段組です。6頁ですが、通常の文字組なら3頁で終っちゃいます。だから文字が大きくて、余白も大きい。「玉稿」ですね。

 ちなみに、わたしもおよそ40年前に同じことをやりました。澁澤龍彦に映画評を書いてもらったときに、フォントを大きくして一段組。笑われましたけど。『ブリキの太鼓』の映画評で、今は亡きフランス映画社川喜多和子さんに「澁澤さんが書いてもいいって」といわれて、ありがたく原稿をいただいたのでした。それはさておき。

「女性蔑視はどうつくられるか」というシンポジウムが載っています。これは、

【報告】連続討論会——ラファエル・リオジエ 『男性性の探究』をめぐって | ブログ | 東アジア藝文書院 | 東京大学 (u-tokyo.ac.jp)

のオンライン・シンポジウムを「抄録」したもの。リオジエさんには『男性性の探究』という著書があり、なぜその本を書いたかというと、自分はフェミニストだと自称しているが、「目に見えないミソジニー(女性蔑視)に私自身が構造的に侵されている」と気づいたからだと仰っています。社会全体に女性蔑視・差別の構造があり、気づかぬうちにそれを内面化していたというわけです。

 で、ぱらぱらと頁をめくっていると、「言葉の展望台」という連載のなかの、

(自分はトランスジェンダーだが、LGBTを差別する人たちと)同じ程度には差別的な思想を身につけていた。そしてその思想に導かれるままに、自分自身の存在さえ拒絶し続けているのだった

という言葉と出遭います。筆者は三木那由他さん。276頁へだてて、リオジエさんと三木さんとが照応する現場に読者は立ち会うことになります。

 社会における差別を論じる「現代思想」の特集や単行本の論集でなく、1冊の文芸誌のなかではからずも遭遇する。そこに雑誌の醍醐味があります。ちなみに三木さんがこの文章で紹介しているメアリー・ケイト・マクゴーワンの『たかが言葉――発話と隠れた害について』(オックスフォード大学出版局、2019)は翻訳が待たれる本です。

 はからずも遭遇するといえば、こんな遭遇もありました。「群像」のデザインを担当している川名潤さんの連載「極私的雑誌デザイン考」(第21回)で、〈「WIRED日本版」「とサイゾー」〉と題されています。

 川名さんが20代の頃、愛読していたのが「WIRED日本版」で、

90年代後半から00年代はじめにかけて、日本の雑誌制作環境は、写植からDTPへと移行したが、その先達となったのがこの雑誌だ。日本でのフルDTPによる雑誌最初の一冊

と書かれています。

 「WIRED日本版」が1994年に創刊するすこし前に、わたしはその版元である出版社に入社したのでした。フルDTPなのは雑誌だけでなく単行本もそうで、それまでDTPで本を作ったことなどなかったわたしはえらく戸惑ったものです。編集部には「WIRED日本版」を立ち上げるスタッフもまだ一緒に働いていました(まもなくWIRED編集部として独立する)。

 そして川名さんが、「(「WIRED日本版」編集長の)小林弘人が「こばへんの編集モンキー」という名前で公開していたウェブ日記」で告知した新雑誌のデザイナー募集を見て応募したのが「私が憧れ、アルバイトで参考にしてきた雑誌「WIRED」残党による後継誌「サイゾー」のデザイン部」だったというわけです。

「WIRED日本版」は休刊し、編集長をはじめとする編集部の何人かがあたらしく会社を起して創刊したのが「サイゾー」で、できあがった創刊号見本を手にした川名さんは、クールな「WIRED」からかけ離れた「どこか昭和のカストリ雑誌」のような「サイゾー」の誌面に愕然とすることになります。わたしも「サイゾー」創刊号を見たときには「なんだか「アサ芸」みたいだなあ。小林くんが作りたかったのはこういう雑誌なの?」と拍子抜けしたものでした。

 だが、川名さんがADに「どういう雑誌をめざすのか」と訊ねると「お爺ちゃんがやってる印刷所が版下からひとりでなんとかして作った感じ」と答えたそうだから、その「昭和のカストリ雑誌」ふうスタイルは「確信犯」だったわけです。〈「WIRED日本版」「とサイゾー」〉は末尾に(以下次号、かも)とあるので、いま発売中の11月号を立ち読みしてこよう。

 この連載をふくめて、連載が30本ちかくあるというじつに盛りだくさんな内容で、これ1冊すべて読もうとしたらひと月はかかりますね。読みませんけど。