戦争のくれた字引き――黒川創『鶴見俊輔伝』を読む

 

 黒川創鶴見俊輔伝』を読んで、つよく印象づけられたことについて記しておきたい。本来なら鶴見自身の著作に直接あたりなおして書くべきだが、いまその用意がない。暫定的な心覚えとして書いておきたい。

 鶴見俊輔は戦後10年ほど経ったころ、「戦争のくれた字引き」という文章を発表する(「文藝」1956年8月号)。それは戦時中にジャカルタで起こった捕虜殺害にふれた文章で、鶴見自身は「小説」と称していたという。鶴見は「戦時下に自分が経験してきた事実と、それをめぐる思索」を「敵の国」「滝壺近く」というふたつの手記に記したが、晩年に自ら廃棄するまで手元に置いて発表しなかった。この手記をもとにして書かれたのが「戦争のくれた字引き」だという。

 鶴見は通訳担当の海軍軍属だった。ジャカルタで捕虜のひとりが伝染病に罹る。捕虜は敵国ではなく中立国のインド人だったが、捕虜にあたえる薬などないと鶴見の隣室にいた同僚に捕虜殺害の命令が下る。同僚は、捕虜に毒薬を飲ませたが死なないので、生きたまま穴に埋めその上から銃で射殺した、とげんなりした様子で鶴見に話した。もしその命令が自分に下っていたら、それを拒否することができただろうか。その自問が鶴見に「戦争のくれた字引き」を書かせる。

「戦争は私に新しい字引きをあたえた。それは、旧約にたいする新約として、私のもつ概念の多くを新しく定義した」と鶴見は書いている。それはたんに戦争体験が鶴見の考え方を更新したというにとどまらない。戦争がくれた字引きは、鶴見が物事を考えるにあたってつねに参照する道具となったということである。

 のちに「思想の科学」を創刊した鶴見は、「日本の地下水」という連載のサークル雑誌評のなかで、京都のパン製造販売会社・進々堂の社内報「隊商」(1961年5月号)を取り上げる。「隊商」は本書『鶴見俊輔伝』の著者黒川創の父である北沢恒彦が編集を務めていた。鶴見は、進々堂の専務・続木満那の「私の二等兵物語」という連載記事を取り上げて詳細に紹介している。

 続木は入営後10日目に送られた中国の戦地で「銃剣術や射撃の練習のために生きている中国人捕虜を目隠しもせず木にくくりつけて、突き殺したり撃ち殺したりすること」を命じられる。彼は前夜、もしそういう命令が下ればどうしようかと寝床のなかで考えた。拒絶するとひどい目にあわされる。仮病を使おうか逃亡しようかと考えたすえ「殺人現場に出る、しかし殺さない」と結論する。翌朝、雑木林に40人の捕虜が一列に並ばされ、その3メートルほど前にいた剣つき銃を構えた40人の初年兵に、小隊長の「突け」の号令がかかった。最初はだれも従わなかったが、小隊長が再度「突け」と怒鳴ると、5、6人が飛び出して行った。真っ白に雪のふりつもった野原に鮮血が飛び散った。小隊長が「続木、いかんか」と怒鳴った。彼はじっと立ち尽くしていた。小隊長は激怒して彼の腰を力任せに蹴り上げた。そして続木の手からもぎ取った銃剣の銃床で突き飛ばした。

 小隊長の命令に従わなかった男がもうひとりいた。大雲義幸という禅僧の兵隊で、ふたりはその夜、軍靴を口にくわえ、鼻をくんくん鳴らしながら四つん這いになって雪の中を這いまわるよう命じられた。「犬にも劣る」ということだったが「大雲も私も『犬にも劣るのはお前たちのほうだ』と心の中で思っていましたから、予想外に軽い処罰を喜んだ位でした。これを機会に二匹の犬は無二の親友になりました」と続木満那は書いている。

 鶴見はその後なんどもこの続木満那の文章に言及することになる。わたしはこの箇所を読んで、大西巨人の『神聖喜劇』を思い出した。第5巻「模擬死刑の午後」、戦地でどっち向けて鉄砲を撃つつもりかと軍曹に問われた冬木の「鉄砲は、前とかうしろとか横とか向けてよりほか撃たれんとじゃありまっせん。上向けて。天向けて、そりゃ、撃たれます」ということばを。

 もう一箇所、晩年の鶴見が、ともに癌経験者でもある作家柳原和子と、京都法然院の秋の庭を眺めながら行なった対談番組(ETV「いのちの対話(1)――病から生まれるもの」2001年1月8日放送)から。

 鶴見は、庭に舞い落ちる木の葉を指さして、こう語ったという。

「今の自分は、あの葉の一枚のなかにいて、世界が目の前をよぎる一瞬を眺めている。そのように感じる」と。

 

鶴見俊輔伝

鶴見俊輔伝