羊男は電子書籍の夢を見るか


 『1Q84 BOOK3』発売日の4月16日朝、会社の隣りのビルにある小さな書店で一冊購入してから出社した。店内にまだ客はいなかった。「たくさん入荷しましたか」と問うと、レジの店長は「実績に応じて割当てられるので、うちじゃそれほど入りません」と苦笑しながら答えた。それでも十冊ほどは積み上げてあったろうか。前日の夜、都心では零時を過ぎて発売を始めた書店もあったという。本の発売日に行列ができたのは『ハリー・ポッター』以来だろう。
 4月22日の朝日新聞朝刊に、編集委員の佐久間文子さんがこの「深夜の行列」にふれた記事を書いていた。「明け方まで第3巻を読みながら、人と本との関係を考えていた」と佐久間氏は書く。「電子書籍を読むための端末が開発され、書籍の電子化が進められているいまは、グーテンベルク革命以来とも言われる大きな転換期にある」と。


 《電子書籍なら新刊も希少な古本も同じように手に入り原理的には品切れも絶版もない。読書端末が日本でも普及すれば読書の風景も変わっていくだろう。
 いつでもどこでも好きなときに好きな場所でネットワークを経由し本が読める、というのは便利で歓迎すべきことに違いない。そのかわり、読みたい本を待ちわびる気持ち、探し回って手に入れた時の幸福感は失われていく。そのとき、この日「1Q84」に並んだ行列は、時代の転換点を象徴する場面になるのだろう。》


 紙の本であれ電子本であれ、発売日があるのなら「待ちわびる気持ち」に変わりはない。筆者の言いたいことはおそらく、書物の持つアウラの喪失への悼みだろう。デジタルデータを端末で読むことの味気なさ。それはわからぬではない。わたしもまた、書物の「姿」を愛することにかけては人後に落ちぬつもりである。だが、それをいうならブログもまたデジタルデータを端末で読む電子本の一種にすぎない。味気ないといえば味気ないかもしれないが、ときに書物を読むより幸福な読後感を抱かせられる文章に出合うこともある。そして、なによりも書物そのものがアウラの消滅の要因となった大量複製技術の申し子にほかならない。旧来の技術はイノベーションによって過去のものとなってゆく。レコードを追放したCDがインターネットによって危機に瀕しているように、電子本がさらなる技術革新によって過去のものとなり、身にまとったアウラの喪失を歎く日がやがてやって来るかもしれない。百万部を越えようという書物の発売日に行列ができるという事態は、この記事の筆者とは別の意味で、きわめて皮肉な、逆説的な出来事のように思えてならない。
 わたしがこの新聞記事に感興を催したのは、それ以上に次の一文にたいしてである。「電子書籍なら新刊も希少な古本も同じように手に入り原理的には品切れも絶版もない」。国会図書館で古典籍の電子化が進み、民間では青空文庫に代表されるような電子化の作業も着々と進んでいる。しかしそれでもなお、「希少な古本」が電子書籍で手に入る状況にはほど遠いといわざるをえない。おそらくそういう事態は永遠に来ないだろう。現在以降に出版される書物はすべて、紙の本と同時にデジタルデータを国会図書館に納入することを義務づけるとすれば、「原理的には」希めばあらゆる書物が「同じように手に入」ることになろう。だが、過去に出版された厖大な書物がすべてデジタル化されることはありえない。「希少な古本」は希少なまま“書物の大海”に漂うばかりである。
 先月、谷沢永一の『遊星群』第三巻、「明治篇・大正篇補遺」が刊行された。かりに過去に出版された書物がデジタル化されるとしても、谷沢氏が身銭を切って蒐めたこうした「雑書」は、おそらくその網の目にかかることはないだろう。あらゆる書物をデジタル化できないとなれば、当然「排除と選別」が行われるからである。文化とは、こうした奇特な個人による、蜘蛛の糸のように細くとも一本筋の通った営為によって継承されてゆくものなのだ。蜘蛛の糸を切ってはならない。


遊星群―時代を語る好書録 明治篇・大正篇補遺

遊星群―時代を語る好書録 明治篇・大正篇補遺