小鳥の不屈の歌――エミリ・ディキンソンの詩を読む
予約していたKindleFireが暮れに届いた。さっそくエミリ・ディキンソンの詩集をダウンロードする。Poems by Emily Dickinson, Three Series, Complete 、パブリックドメインの無料版である。洋書――とりわけこういった大部の書物――はかさばるし、近頃辞書の小さい文字を読むのに難渋するようになっていたので電子版は甚だ便利である。ドストエフスキー全集の英訳版なんて紙だと6000頁近い分量が電子版だと11メガバイト弱で300円だからね。買いませんけど。ブライアン・ボイドのStalking Nabokovを購入する。
日本語の本は漱石、鴎外、一葉、荷風、賢治らの青空文庫版をダウンロードする。それで気がついたのだけれど、岩本素白も数点出ている。2011年が没後50年だったのですね。あれあれ、うっかりしていた。
電子版書籍の可読性はわるくない。小さい活字の古い文庫本よりはずっと読みやすい。1頁10行なのでどんどんページが繰れる。たくさん読んだ気になって気分がいい。ふだんはPCの画面で編集の仕事をしているのだけれど、校正は必ずプリントでするようにしている。紙で見ると画面で見落としていたことに気づくといったことがよくあるからだ。電子版書籍にもどこかそういったところがあって、うまく言えないけれど、文字が画面の表層に貼りついていて奥行のない感じがある。すらすら読めるけれど(もちろん日本語の本ですが)、意識の表層にとどまって奥にまで届いてこない。紙の漱石とデジタルの漱石はどこか違っているような気がする。慣れないせいなのかもしれないけれど。活字から電算写植に切り替わったときも誌面がなんだかつるつるした感じがして頼りなく感じたものだ(もう30年も前の話だ)。それとちょっと似た感じがしないでもない。
エミリ・ディキンソンはこのところ数ヶ月間読みつづけている。もっぱら翻訳でだけれど、何種類かの翻訳を読み比べるとなかなかおもしろい。自分の感覚にどれがいちばん合っているかというだけでなく、それぞれの翻訳を重ね合わせたときの差異やずれを通して、その向こうに原詩がおぼろげに見えてくるといった感じがある。英語で読んでも原詩を読んだことにならないのが詩のやっかいなところで、わたしの語学力では辞書的な意味を知ったというにすぎない。味わうところまでは到底いかない。翻訳というフィルターを何枚も重ねてピントを調節するのが、いまのところわたしには詩を理解する最上の方法である。英語の原詩もフィルターの一枚といった感じ。
さて、「すばる」2月号に「翻訳という怪物」という鼎談が掲載されている。出席者は、柴田元幸、管啓次郎、ジェフリー・アングルス。アングルスさんは日本の小説や詩の英訳を手がけていられる方。鼎談のなかで、エミリ・ディキンソンの詩をそれぞれが訳すという試みがあって興味深く読んだ。取り上げるのは“Hope” is the thing with feathers - 。
まず、原詩を掲げておこう。
“Hope” is the thing with feathers -
That perches in the soul -
And sings the tune without the words -
And never stops - at all -
And sweetest - in the Gale - is heard -
And sore must be the storm -
That could abash the little Bird
That kept so many warm -
I’ve heard it in the chillest land -
And on the strangest Sea -
Yet - never - in Extremity,
It asked a crumb - of me.
次にそれぞれの訳を掲げる。
希望という言葉は あの 羽のあるやつ−
たましいの中にとまって
歌詞のない歌をうたい
けっしてやめない いっときも−
いちばん 大風のときが こころよく聞こえる−
よっぽどひどい嵐でないかぎり
あの小鳥が 恥入ったりはしない
ほんとうに たくさんのひとを暖めてきたのだ−
おそろしく凍てつく地でも わたしは聞いたし
どこより未知な海の上でも 聞いた−
なのに−ぜったい−どんなにひどい時にも、
鳥はパンくずひとつ わたしに求めたことはない。
(柴田元幸訳)
望みとは 羽あるものなり
たましひの中に宿りて
言葉なき節を
絶えず 歌ふ
風強ければ 最も美し
その多くの心を暖めたる
小鳥をば 傷つける嵐あれば
なんと惨きものなるか
寒き国にも 未知の海にも
その声 われは聞きしことあれど
小鳥は戸惑ひても われに一度も
少しの口餌も 頼みたることなし
(ジェフリー・アングルス訳)
「希望」は羽根をもつもの−
魂に降り立つ−
そして言葉のない歌をうたう−
そして歌い止めることはない―けっして−
とても気持ちをやわらげてくれる 強い風が吹くほど−
あまりに激しい嵐だけだ−
みんなをあんなに温めてくれた
この小鳥が途方に暮れるとしたら−
寒い寒い土地でその歌を聞いた−
遠い遠い海の上でもその歌が聞こえた−
それなのに−けっして−末期を迎えても
小鳥は私に求めませんでした−小さなパン屑を。
(管啓次郎訳)
翻訳するにあたってそれぞれが工夫した点などが語られる。以下にいくつかの要点のみを抜粋して掲げる。詳しく知りたい方は雑誌に直接当たられたい。
1行目のthe thingを「やつ」としたわけについて、柴田さんはこう述べる。“Hope”はクォーテーションマークがついているから「希望」という言葉を問題にしている。それをthing=「もの」と乱暴に定義しているので、その乱暴さを出すために「やつ」とした。2行目のperchは鳥が「枝にとまる」という言葉なので、鳥のイメージを通して希望について語るということをはっきりさせるようにした。
アングルスさんは、原詩は言葉がコンパクトで無駄がないので文語体で訳したといい、次のように指摘する。第3連1行目chillをふつうはこのように形容詞としては使わない。3行目のExtremityも通常はこのようには使わない。ディキンソンはごく普通の言葉をちょっと面白く使った、という。
管さんはthe thingを「生き物」とした(赤ん坊をpoor little thing などという)が、岩波文庫の『対訳ディキンソン詩集』と同じになるのでやめた。perchはどこか外からやってきたものが心の中に降りてくるというイメージから「降り立つ」とした。in Extremityはin extremisというラテン語のフレーズ(「臨終のときに」)をディキンソンが使ったと考えて「末期の」とした。
そして、最後の行のIt askedは過去形だが、これは過去の話としてよいかと柴田さんに問う。柴田さんは、だとすると小鳥つまり希望はもう死んだことになって「相当暗い話になる」、その前にneverがあるので「〜したことはない」の意味にもとれるという。アングルスさんも同意見で、「今まで私に何も頼んでいないぞ」と解釈するという。Extremityは単純に「極端なことになっていても私に何も頼め(ママ)ない」という解釈でいい。ディキンソンはプロテスタントだったのでラテン語がわかったかどうか、とも。
おもしろいのは、ディキンソンが律儀に韻を踏む時はポジティブに詠う時だという柴田さんの指摘で、第2連のheardとBird、storm とwarm、最後のExtremityとmeは不思議な形だが一応韻を踏んでいる。したがってストレートにポジティブな思いを詠いあげている感じがするので、希望は生きていてほしいと思う、という。
以上が、ディキンソンの詩をめぐる討議の概要である。3つの訳詩というフィルターごしに原詩を読むと、なんとなくイメージがつかめそうだ。
第一連、羽根の生えた「希望」というモノがたましいのなかの枝にちょこんと止まっているというイメージを思い浮かべる。ちょっとユーモラス。「希望は魂のなかにいる」と言わずに、鳥(ここではまだbirdと明示しない)の比喩で語るとその命題が具体的かつ肉感的に読む者に伝わってくる。比喩の力。
第二連、岩波文庫の亀井俊介さんはこう訳している。
そして聞こえる――強風の中でこそ――甘美のかぎりに――
嵐は激烈に違いない――
多くの人の心を暖めてきた
小鳥をまごつかせる嵐があるとすれば――
そして次のような注釈を施す。〈「希望」という小鳥をまごつかせ黙らせる嵐は、よほど激しいものに違いない。そんな嵐はあるはずがない〉。反語であるという解釈ですね。
柴田さんの「希望」が恥入るという訳はいま一つ腑に落ちないが、三者いずれの訳も反語であるかどうかは判然としない。ただ、「希望」を途方に暮れさせるほどのひどい嵐もきっとあるにちがいない、とわたしなら思う。ディキンソンがどう考えていたかはわからないけれど。
第三連の三〜四行、小鳥がパン屑ひとつ求めたことはない、とはどういうことか。亀井さんは〈「希望」はどんな状況にあってもけっして物乞いなどはしないのである〉と注釈しているけれど、ここはよくわからない。「私」は極寒の地や見知らぬ海上で「希望」=小鳥の歌を聞いたが、それはどんなにひどい時でも私にパン屑ひとつ求めなかった。「希望は物乞いをしない」はわからなくはないけれども、逆に、物乞いをする希望というやつはなんだか胡散臭いと思いません? だから、改まって物乞いをしないと言われてもなあ、という感じがするのですね。「希望」=小鳥をいったん忘れて、小鳥のイメージだけで読むとすっきりする。新倉俊一さんの訳ではこうなる*1。
わたしはそれを寒い土地や
見知らない海で聞いたことがある
だけど今までどんなにつらくても
わたしにパン屑をねだったことがない
けなげな小鳥さん。
ロバート・L・レアさんはそのあたりをかなりうまく説明している*2
「この詩は、抽象的な言葉に具体的な説明と例証を与えるディキンスンの今一つの「定義詩」(”definition” poems)になっている。この詩は隠喩で成り立っており、そこでは希望が嵐、すなわち困難な状況の中で止まり木の所から楽しそうに歌をうたい、しかも喜びを与えるその歌に恩返しなど決して要求しない鳥に喩えられている。逆境の中にあって、われわれが絶望に全面降伏するのを防いでくれるのは希望。すなわちわれわれの魂が失神するのを防いでくれるこの鳥の不屈の歌なのである。」
Hopeとは小鳥のようなもの、と具体的に定義し例証するわけですね。「希望」はどんな逆境にあっても私に援けを求めない、すなわち希望は弱音を吐かないということ。だけどその「希望」は私のたましいの中にあるのだから、私に援けを求めないというのがわかりにくいところか。それはそうとして、「鳥の不屈の歌」ってのはいいなあ。岸洋子さんの歌った「希望という名のあなたをたずねて遠い国へとまた汽車に乗る」(作詞藤田敏雄、作曲いずみたく)という歌を思い出しました。名曲です*3。