補説・小麦畑を渡る風


 前回の記事にトラックバックをいただいた。思うところを若干補足しておきたい。
 わたしとて日常生活においてはなるべく「むだ」をなくしたいと思い、そう心がけていないわけではない。目的地には最短距離・時間で着くようにするし、不要のものの溢れる身辺をすっきりさせて、できるだけシンプルに暮したいとねがっている。だが、そのねがいと裏腹に「むだ」をいっこう排除できずに非効率的な日々をおくっている。
 さて、TBしてくださった「無造作な雲」さんは、「ただあるだけで尊いという「価値」は可能か?」と書いていられる。それはそれで意味のある問いかけであるけれども、「尊い」というところに価値判断が認められよう。「むだ」はけっして尊くはない。尊くないから「むだ」なのだ。わたしの夢みたのは、いかなる価値にも回収されない「むだそれ自体」のゆくえである。
 たとえば、「むだは本当にむだか」という問いかけは、「むだにもそれなりの意味がある」という答えを内包しており、「むだ」と「非・むだ」は補完しあっている。つまり、あるシステムが円滑に機能するために「むだ」が要請されているのであって、それは「むだ」ではない。
 だれからも顧みられることのない、路傍の石にも値しない、たんなる「むだ」。そんなものは「むだ」だと人はいうであろう。わたしもそう思う。だが、と、ここでわたしはエポケー(判断停止)の状態に陥り、こうつぶやくのだ。「むだだっていいじゃん」
 どうやらわたしは効率的とか功利主義とかといった考え方にいささかうんざりしているのかもしれない。「むだ」を排除する思想はどこか勤勉を旨とする行き方に通じている。わたしが「むだ」のゆくえを気にするのは、若い頃に、いつもごろんと横になったまま何をするでもない「ものぐさ太郎」の生き方に深く共感したからのような気がしないでもない。あるいは犬のように生きることをねがったディオゲネスの生き方に。
 話があらぬ方へ行ってしまった。
 最後に「むだ」について最近目にしたあるエピソードについて書いておきたい。例によって何で読んだかもはやさだかでないので確かめるすべがない。違っていたら御容赦ねがいたい。
 野坂昭如は、近頃、病気と高齢のため性的欲望や関心がはなはだ希薄になってきて、女学生のスカートから伸びる足を見てもなんの感興も催さなくなったと述懐する。野坂昭如いわく「これがほんとの無駄足だ」。野坂氏の健康を切に祈る。