「わからない」とは何か
今朝(12月28日)の朝日新聞に斎藤美奈子が書いている「『わからない』の効用」と題する文芸時評を読んで、前回書いた「『が』という地獄」に通じるところがあったので、急ぎ書いておきたい。そろそろ家の掃除だとか正月を迎える準備だとかしなければいけないのに、こんなことをしていていいのだろうか。
斎藤美奈子は「文学界」の島田雅彦へのインタビューを引用して、こう書いている。
「〈「近代文学」の耐用年数が過ぎ、先細りしていった三十年だった〉と彼は総括し、文学史的知識や純文学のコードが1990年代に瓦解した後は〈安易な感動や予定調和の波瀾万丈、シンメトリックな起承転結の構造などを伴ったウエルメイドな作品が増え〉たと述べる。だからこそ〈まったく反対の作風の人材も送り出すべきだとは思っていましたね。生物多様性ではないけれども〉。」
さらに「新潮」1月号の中原昌也の「自伝抄」の「わからないものはみんな偉そうで高尚なものだと思ったり、通向けのものだと思ったりする。この貧困さは何だろう。みんな、精神が貧しくなっている」といった「歎き」(と斎藤美奈子はいうけれど、これは「ステートメント」というべきだろう)を引用したのち、「わからなさを否定したら純文学はあがったりなのだ。わからなくて結構という作品、わかってたまるかという作品、わかったらおしまいだといいたげな作品。そうしたものの文芸誌は宝庫だからだ」と、今月の文芸誌より三作品を採りあげて寸評する。
その三作品とは、松波太郎「イールズ播地郡」(すばる1月号)、磯崎憲一郎「赤の他人の瓜二つ」(群像1月号)、円城塔「こればペンです」(新潮1月号)で、それぞれの概要を紹介した後、「わからない度」を10点満点で3点、5点、7点と評価する。むろん「わからない度」が高いほうがいいというわけではあるまいが、最後にこう結論する。「『わからない』の効用はわからなさそのものにある。私の頭はこんなに悪かったのかと思うと愕然とする。しかし文学が、いや世界が簡単にわかると思うほうが間違いなのだ。」
斎藤美奈子にはいつも絡んでいるようで心苦しいのだけれど(まあ、愛読している証しと思ってお赦しねがいたい)、この時評を読んでひっかかったのは「わからない」ということを斎藤美奈子はどう考えているのか、ということだった。
「わかる」「わからない」とはきわめて個人的なもので、自分が「すごく面白い」と思っているものにたいして、他人に「これのどこが面白いの。ちっともわからないよ」といわれた経験は誰しもあるだろう。この「すごく面白い」には、「よくわかって面白い」と「なんだかよくわからないけど面白い」の二通りがある。「面白い」にはまた理性が感じる面白さと感性が感じる面白さとがあって、「なんだかよくわからないけど面白い」というのは、理解はできないけれど感性的には面白いということで、これも「わかる」に包摂して差し支えあるまい。面白さを感じるということは「わかる」ということなのだから。
一般的に「わからない」「難解な」といわれる作品は、おおむね前衛的・尖鋭的な作品である。映画ならゴダールやレネ、大島渚や吉田喜重の映画は総じて「難解」といわれたし、実験映画なら難解でない映画の方が少ないといっていいくらいだ。文学作品なら、たとえば塚本邦雄や山中智恵子の短歌、あるいは大抵の現代詩は「難解」だといわれる。たとえば次のような詩は、わたしには(なんだかよくわからないけど)面白い。だが、一般には難解な、わからない作品と呼ばれるかもしれない。
無関係に雲は流れる*1
それ以外の雨が降るために雲は流れるのでそこには音がない
なのになぜ雪が積もっているのかわたしにはわからない
クリーニング屋さんの話によればなにもないクリスマスにはよく雪が降るらしい
「パン屋は最後のパンを焼いている」
同じ夕空の下では
もしかすると同じ映画について考えているひととすれ違っているかもしれない
画像は動かなくなった動画じゃないと主張する知人とすれ違っているかもしれない
わたしたちを中心にしない円が描かれて
ここ以外の場所にも同じ雨を降らせるために雲は流れるので音がない
夕空の下には最後のパンを買うために出る旅がある
「それ以外の」というけれどどれ以外なのか、雨と雲とはいかなる因果関係にあるのか、雲が流れるとなぜ「音がない」のか、わたしにはうまく説明することができない。なのに、面白い。(わたしにとって)この詩のどこが面白いかというと、ことばによって「場面」が動いたり停滞したりするところで、そのことばの運動自体も微妙に速度が変わるといったところが面白い。ブランコに乗っている人の背中を押すと揺れる速度が変わるように、ことばを押して速度が変わるのをたのしんでいるような趣きがある。むろんこういった感じ方はきわめて個人的なもので、この詩の作者とも、あるいはほかの読者の読み方とも(たぶん)かかわりのないことだ。
たとえばこういう作品がある。
「あなたにめぐりあえてほんとうによかった/ひとりでもいい/こころからそういってくれるひとがあれば」
これを詩と呼ぶかどうかは議論があるだろうが、ここには「わかりにくさ」はない。これを「難解な」と呼ぶ人はいまい。この二つの「詩」を区切る境界があり、いっぽうは「わかる」といわれ、いっぽうは「わからない」といわれる。それが「一般的」な見方である。
だが、もしかすると、「無関係に雲は流れる」はよくわかるけれども、ひらがなだけで書かれた「めぐりあい」という作品は到底「わからない」、ということだってありうるだろう。それが「文学」という領域である。わたしにはそう思えてならないのだが、斎藤美奈子はそのへんをどう思っているのだろうか。
最近評判の佐々木中の『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房新社)という本の最初のほうにこういう話が出てくる。古井由吉があるインタビューでこう語ったという。
「いま現在の自分が理解できないものには価値がないという風潮が定着してしまった、と前置きしてから、こう言うんです。文学など落とし穴だらけで、うっかり理解したら大変だという作品が多い、と。(略)カフカやヘルダーリンやアルトーの本を読んで、彼らの考えていることが完全に「わかって」しまったら、われわれはおそらく正気では居られない。」
古井由吉はまたこうもいう、と佐々木中は古井由吉のことばを引用する。
「読んでいてちっとも頭に入らなくて「なんとなく嫌な感じ」がするということこそが「読書の醍醐味」であって、読んでいて感銘を受けてもすぐ忘れてしまうのは、「自然な自己防御」だと言うんです。だから読み終えると忘れてしまうし、ゆえに繰り返し読むのだ、とね。」
「他人が書いたものなんて読めるわけがない。読めちゃったら気が狂ってしまうよ。(略)書くということ、読むということは無意識に接続するということである。だからカフカの小説を読むということは、半ばカフカの夢を自分の夢として見てしまうということです。ならば、そこで「自然な自己防御」が働いて当然でしょう。」
それは「本質的な難解さ、退屈さ」であって、それを感じさせないもの、「嫌な感じ」を与えないものなどに読む価値はない、と佐々木中は言う。ここには、「わかる」「わからない」の議論に接続するもうひとつの読書の在り方がある。
さて、ここで前回の「『が』という地獄」に戻ると、古井さんは芥川の「歯車」を何度も繰り返し読んでいるうちに、どうやら「わかってしまった」らしい。「が」の地獄は芥川にとってと同様、それを読む古井さんにとっても「地獄」であったのかもしれない。読書とはおそろしいものだ。うかつに本など読むものではない。
そして、水村美苗のいうように、スウェーデン・アカデミーの面々がサイデンステッカーの訳した『雪国』に「許嫁でもなければ愛してもいない男の治療費――さらには、どうせ死に逝く男の治療費を出すため、身を犠牲にしてゲイシャに身を落とした「a good woman」の話を読んだ」としたなら、それはその小説が「わかった」ということになるのだろうか。「駒子なら、「いやらしい、そんな新派芝居みたいなこと」と言い放ったかもしれない」と水村美苗は皮肉っぽく書いている。
じっさいに目を通してはいないけれども、斎藤美奈子の内容紹介を読んだかぎりでは、文藝誌に掲載された三つの小説に「わからない」ところはあまりなさそうに思えるのだがどうだろう。斎藤美奈子の「文学が、いや世界が簡単にわかると思うほうが間違いなのだ」というのはその通りだが、それはくだんの三作品に対してではない。それらに比べると、たとえば「歯車」や『雪国』や、あるいは徳田秋聲や野口冨士男の私小説のほうがわたしには「落とし穴」だらけで「うっかり理解したら大変だ」と思わせられるのだが、これはわたしの偏見なのだろうか。
切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話
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