小麦畑を渡る風



 ジョージ・スタイナーは八十歳を目前にしてあたかも自らの仕事の総決算であるとでもいうように、書こうとして実現しなかった七冊の本についての試論を一冊の本にまとめた。『私の書かなかった本』My Unwritten Books *1と題されたその書物にスタイナーは簡潔な序文を附している。書かれざる書物は成し終えた仕事に影のようにつきまとう、と。「重要だったかもしれないのは書かれざる書物なのだ。それはよりよく失敗することを可能にしたかもしれないからだ。あるいはそうでなかったかもしれない。」
 こんなささやかなブログだが、わたしも書こうとしてうまくゆかずに破棄したことが幾度もある。スタイナーを真似るわけではないけれども、うまく思考の道筋が見つけられずに抛ったままになってしまっていたある「問題」についてここに書いておきたい。


 岩波の「図書」2009年2月号に今枝由郎「情けは人の……」というエッセイが掲載されていた。今枝さんはフランス国立科学研究センターに勤務するチベット史の研究者で、著訳書もあるがわたしは読んだことがない。「情けは人のためならず」ということわざの「誤用」(情けをかけると人のためにならない)に関するエピソードが枕にあるが、そこは省略する。
 今枝さんによると、ブータンの人たちは仏教の因果応報律に従って生きていながら、善行にたいする果報を期待していないという。つまり善行を積むことじたいが「楽果」そのもので、かれらは「情けをかけることは、誰のためかということも、相手にとって、よいことかよくないことか」ということも超越した次元にあるのだという。そして、「それをさらに超えた次元」にあるのがサン=テグジュペリの『星の王子さま』の挿話であるという。わたしが興味を覚えたのは以下についてである。
 王子は自分の住んでいた星で、気難しいバラに水をやったり衝立てを立ててやったりと世話を施したが、結局仲違いしてすべてむだになってしまった。だが、地球に来て美しいバラを見ても思い出すのは仲違いしたバラのことばかりで、あのバラこそ自分にとって大切だったと思う。
 そこで今枝さんは、キツネが王子にいう言葉のフランス語原文(C’est le temps que tu as perdu pour ta rose qui fait ta rose si importante.)を掲げて、十種を超える邦訳を並べてみせる。訳文はおおむね二つの傾向に分けられるが、ここではそれぞれの代表として二例のみ挙げておく。
 (1)「君がバラのために時間をついやしたからこそ、君のバラはあんなにたいせつなものになったんだ」(石井洋二郎訳)
 (2)「きみがバラのためにむだにした時間のぶんだけ、バラはきみにとってたいせつなものになったんだ」(三田誠広訳)
 違いは「時間をついやした」と「時間をむだにした」である。サンテックスはmettreやemployerでなくperdreという動詞を選択しているから後者のように「失った、むだにした」とするのが正しいだろう、と今枝さんはいう。フランス語版と同時に出版された英語版(訳者はサンテックスの友人だという)もwasteを用いているともいう。フランス語の語感についてわたしはなんともいえないが、今枝さんがいうように、時間をついやして世話をしたから大切なものになったという理解が一般的であろうし、訳文にかんしてもそう取っている前者が圧倒的に多い。しかし今枝さんは、後者のように「仲よくなるために費やした時間と労力」はむだになったが、「その過程があったからこそ」王子はバラと永遠にのこる「きずな」をつくれたのだ、という。さらに、
 「友人関係にしても、努力して、仲のいい親密な関係になった。だから、その友人はたいせつだということになる。それが、普通の次元であり、一般に理にかなっていると思われる。ところが、このことに関しても、サン=テグジュペリは、まったく異なる次元の理解をしている」
と、もう一つの例を挙げる。
 王子とキツネは時間をかけて忍耐強く「手なづけ合」った。だが別れの時が近づき、キツネが「きっとおれは泣くよ」というと、王子は「きみが手なづけてくれといったからじゃないか」という。


 「そのとおり」とキツネは言った。
 「でも、やっぱりきみは泣くんだ!」
 「そのとおり」とキツネは言った。
 「じゃあ、きみにとって何の得にもならなかったじゃないか!」
 「おれは、小麦畑の色を得したよ」


 パンを食べないキツネに小麦畑は無用の長物だ。だが小麦色をした金髪の王子が自分を手なづけてくれたら、小麦を見るたびに王子を思い出すようになる。小麦畑を渡る風の音を聞くのがきっと好きになる。だから手なづけてほしいとキツネは王子に懇願したのだった。
 「キツネにとっては、せっかく友だちになった王子はいなくなり、彼との友人関係を築き上げるのに費やした忍耐、努力、時間はむだになってしまった。しかし、キツネは小麦畑の色、金髪の王子さまを連想できるもの、すなわち絆が残る以上、得をしたと言っている」と今枝さんはいう。そして、こう結論する。


「本当にたいせつなものは、見返りのあるなし、報われる、報われないとは関係なく、時間も、労力も、お金もむだになってしまって、なおかつ純粋にたいせつに思えるものではなかろうか。結果的に一見「むだ」と映るものこそが、ある種の試金石、試練となって、本当に大切なものを獲得させてくれると言えるのではなかろうか。」


 さて、この魅力的な問題構制について、わたしの考えあぐねている点を以下に記しておきたい。
 王子はバラと「絆」をつくり、キツネの心のなかにも小麦色の絆を残した。だが、それは、そのためについやした「忍耐、努力、時間」があってこそのものだ。「絆」は充分すぎるほどの「報い」「見返り」であり、それを得るための時間を「むだ」とはいえないだろう。だとすれば二つの訳文は表現こそ異なれ、おなじことを言っていることになるのではあるまいか(それについては後述する)。
 たとえば、男と女が出会い、たがいを手なづけあう(むろん同性でもいっこうにかまわないが)。二人は恋人同士となる。もしくは結婚する。だが、なにかの原因で二人に破局が訪れる。別れた二人のあいだには「絆」さえ残らない(ことが往々にしてある)。そうした場合、「関係を築き上げるのに費やした忍耐、努力、時間はむだになってしまった」のだろうか。だがそうした場合でも、結果はどうあれ、破局にいたるまでの時間はかけがえのないものとして二人にあるはずだ。「むだ」であったと思うのは、それが過去のものとして反省的にとらえられたときの理性的判断にすぎない。
 もう一度、今枝さんの言葉を引いてみよう。
 「本当にたいせつなものは、見返りのあるなし、報われる、報われないとは関係なく、時間も、労力も、お金もむだになってしまって、なおかつ純粋にたいせつに思えるものではなかろうか」
 たしかに、大切なものは「見返りのあるなし、報われる、報われないとは関係」ない。たとえ報われなくとも、たとえ蹉跌しようとも、<いま、ここ>にある「私」という存在はかけがえのないものであり、それが「生」の一回性というものだ。そして、「結果的に一見「むだ」と映るものこそが、ある種の試金石、試練となって、本当に大切なものを獲得させてくれる」という結論それ自体にさしあたって異論はない。
 だが、それでもなお、わたしは「むだとはなにか」にこだわりたいのだ。一見「むだ」と映るものが実は「むだ」ではなかったという弁証法は、あまりに教訓的すぎるのではあるまいか。
 ここで、王子とバラの挿話に戻れば、バラのために時間をついやしバラが大切なものになったというとき、バラのためについやした時間は価値を生むためのいわば有用労働である。いっぽう、むだにした時間のぶんだけバラは大切なものになったという場合、同じように見えて、そうではない。むだにした時間それ自体は価値を生まない非有用労働である。だがそこに飛躍があり(マルクスなら「命がけの飛躍」というだろう)、結果的に価値を生じる。
 有用労働であれ非有用労働であれ、いずれにせよついやした時間は最終的に価値を生むのだが、「本当に大切なもの」を獲得させてくれはしないただの「むだ」、有形無形のいかなる価値をも生むことのない単なる「むだ」は、はたして「むだ」であろうか。
 いかなる意味での功利主義ともいっさい無縁の「むだそれ自体」に、はたして「価値」はないのだろうか。わたしは空想(ユートピア)の世界の話をしているのであろうか。

*1:邦訳、みすず書房、2009年刊