胸にセロリと新刊書



 北村薫さんの新刊『自分だけの一冊――北村薫のアンソロジー教室』を読む。
 カルチャーセンターでの講義をまとめたもので読みやすく、200ページたらずの新書なのであっというまに読み終える。そのなかでひとつ「おお、これはこれは」と思ったことについて書きとめておきたい。北村さんも「《おおっ!》と思うようなことがありました」という前置きでその挿話について話し始めている。
 その話は第2回目の講義で、そのまえの第1回目の講義にこういう前段があった。講義の日の午前中の出来事であるという。
 北村さんに『詩歌の待ち伏せ』という名著がある(この本については1巻目が出たときに書評を書いたことがある)。ある方から『詩歌の待ち伏せ』について北村さんに問合せの手紙が届いたが、その本に出てくる俳句を書き違えていたという。件の俳句とは、
    胸に抱く青きセロリと刊書   舘岡幸子
 もちろん正しくは「新刊書」で、漢字一字が抜けている。北村さんはこの句について、


 「これ、読んだ瞬間に《いいなあ!》と思った句です。ここに描かれているのは、《青きセロリ》でも《新刊書》でもない。抱いているのが、どういう人かということですよね。抱いている《もの》が、それを決定する。」


とおっしゃる。さらに、


 「セロリは、歳時記では冬の季語らしい。しかし、人生の季語とした場合、《青きセロリ》も《新刊書》も春のものでしょう。これはもう、――若い女性だと、はっきり分かる。
読む者は、その女性に、否応無しに魅かれてしまうんですよね。彼女の眼が、見えるようです。」


 瑞々しい野菜とインクの匂いのしそうな真っさらの本。セロリには青春の一字も含まれている。だから時は春。若い女性だとする断定はいかにも北村さんらしい。セロリと新刊書を胸に抱いた女性は「円紫さんシリーズ」の《私》そのものである。好きにならずにいられない。


 さて、第2回目の講義の冒頭で、北村さんが思わず《おおっ!》と声をあげたと語った出来事とはなにか。
 先の《胸に抱く》の句から、北村さんはある俳句を連想したという。《柚子湯》の句なのだが作者の名を思い出せない。そこでインターネットで検索すると、作者は山口青邨だとわかった。が、どうも自分の記憶していた句と少し違っている。検索で出てきた句は、
    吾子はみな柚子湯の柚子を胸に抱き
となっている。いくつかのサイトがそう書いている。でもこれじゃきっと記憶にとどめなかっただろう、と北村さんは思う。ただの平凡な情景をうつした句じゃないか。
 だけど、自分の記憶していたとおりに引用しているサイトも見つかった。そこで、歳時記をあらためて調べると、やはり記憶どおりの句だった……。
 さて、ほんとうの青邨の句はどういうものでしょうか、と北村さんは聴衆に謎をかける。どこかにひらがな一字が入る字余りの句ですよ、と。このあたりも、北村さんらしい話の運びだ。
 青邨には字余りの句の秀作が多い、と北村さんはいう。
    舞姫はリラの花よりも濃くにほふ
 「リラの花より」だったら「ただの甘い句になる」と北村さんはいう。


 「《ああ、そうかい》で、終わりです。そこにわざと《も》を入れ、五七五のリズムを壊している。《花よりも》と、たゆとうところに、技があり、値打ちがある。」


 仰せのとおりである。一字の「千金の重み」。
    わが世にはつひに逢ふべき人ならずただわびすけといふは冬の花   大井廣
の「は」とおなじ。塚本邦雄が「点睛は勿論下句にあり、それも「いふは冬の花」の「は」にすべてをかけてゐると言つてもよい」と評したごとく(id:qfwfq:20070807)。 
 あるいは、これは二字の字余りになるけれども、
    鳥帰るいづこの空もさびしからむに    安住 敦
 この句は鈴木六林男の「天上も淋しからむに燕子花」とはるかに響き合っている名句。


 さてさて。山口青邨の句の正解とは――。ネタばれのようで聊か気が引けるけれども、検索すればすぐに出てくるので御容赦いただこう。


    吾子はをみな柚子湯の柚子を胸に抱き


 北村さんの読解がすばらしい。以下は直接本書に当たられたい、とすべきなのだが、ええい書いてしまおう。この解説によって青邨の句がいっそう輝いて見えるのだから(ここまで読まれた方はぜひ本書を購読されたい)。


 「さて、一字が加わって、《みな》が《をみな》になった。《吾子はをみな》――句の意味が、全く変わってしまいますね。《吾子》――この子は、まだ胸の膨らみのない小さな女の子です。その子が、柚子湯の柚子を胸に抱いたんですね。両手で二つと思いたい。そのしぐさを見て、父ははっとする。《ああ……、この子は女の子だったんだ……》。込み上げる無垢の、無限の愛と共に、そう思う。嫌らしい意味など全くなく、この子は女性だったんだと思う。
 自分の生は限りがある。その後に続き、生命の火を灯し、大きくなって行く幼きものを見守る視線――ここにあるのは、それですね。その内には、やがてはこの子も成長し、自分の元を去って行くのだという哀しみさえ含んでいる。」


 柚子を胸に抱いた女の子は成長して、きっとセロリと新刊書を胸に抱くことだろう。
 北村さんが「おおっ!」と思ったのは、ふたつの「胸に抱く」の句が奇しくも一字抜けていた、それがこのカルチャーセンターでの講義をきっかけに繋がったという不思議さにある。

 じつはこの本をきっかけに、むかしわたしが企画したアンソロジーで、北村さんに作品の収録をお願いしたときの話を書こうと思ったのだけれど、思わず長くなってしまった(久しぶりに書いたので疲れてしまったし)。つづきは次回に。
 北村さんの編になるアンソロジー『謎のギャラリー 愛の部屋』に収録された愛すべき掌篇「ミス・レディ」の作者、スペンサー・ホルストをめぐる後日譚にも感銘を受けた。第3回目の(最終)講義、矢野峰人の訳詩「シナラ」*1と師・上田敏との交流についての話もじつにいいのだけれど、それらは直接本書に当たられたい。

自分だけの一冊―北村薫のアンソロジー教室 (新潮新書)

自分だけの一冊―北村薫のアンソロジー教室 (新潮新書)

*1:アーネスト・ダウスンの詩。矢野峰人の訳詩集『しるえっと』では「シナラの影」。矢野峰人選集第1巻所収、国書刊行会、2007。