〔Book Review〕シオドア・スタージョン『海を失った男』 


 『シザーハンズ』という映画がある。鋏の手をもつ青年の孤独というテーマは、いかにもフリークス・フリーク(怪物マニア)の監督ティム・バートン*1らしいが、ウィノナ・ライダージョニー・デップを愛するのは、鋏の手にもかかわらず、なのだろうか。それとも鋏の手をもっているから、なのだろうか。いや、そもそも彼女が愛したのは青年ではなくシザーハンズ、鋏の手そのものではなかっただろうか。
 異形の愛もしくは異類婚といったテーマは『美女と野獣』から江戸川乱歩の『人でなしの恋』まで、洋の東西を問わず枚挙に暇がない。相手はビーストや人形にとどまらない。海水とだって人は愛し合うことができるのである(オクタビオ・パス「波と暮らして」*2)。
 相手が異形であればあるほど愛の至純性は際立つ。愛するという行為を極限にまで突き詰めると、もはや愛の対象は何であろうと問題ではない、とでも言うかのように。
 さて、本書に収録された「ビアンカの手」は、「異形の愛」テーマの傑作として誉れ高い短篇である。
 食品店の店員ランは、母親と一緒に買い物に来た少女ビアンカを見初める。だが、ランの心をとらえたのはビアンカ自身ではなく、彼女の「淡雪みたいにやわらかくて、なめらかで、白い手」だった。ランは二人の住んでいる家を探し出し、引っ越してしまう。
 ビアンカの手はビアンカとは独立した生きものだった。手はランに見つめられると恥じらってテーブルの陰にそっと身をひそめ、ランが力づくで手を自由にしようとすると激しく抵抗した。
 「ランが視線をそらしているときに、手は恥ずかしそうにしながら彼に口づけ、手首に触れ、ほんの一瞬の甘美な出来事だったが、彼を抱きしめた」
 ランは母親に結婚の許しを請い、二人は結ばれた。「ランは幸せすぎて息もできないほどだった」。やがてランが待ち焦がれ夢見てきた「その時」がやってきた――。その先は、どうか本書をお読みいただきたい。
 バタイユが言ったように、エロティシズムとはまさに死に至るまでの生の称揚である。「ビアンカの手」は、性愛と死を――中条省平氏が名著『最後のロマン主義者』*3で論じたように「世界を動かす原理としての〈エロス〉と〈タナトス〉」を――描いた傑作である。これに匹敵するものは、川端康成の「片腕」以外には思いつかない。
 「ビアンカの手」を収録した『一角獣・多角獣』*4は絶版となって久しく、今では数万円の古書価がついているという。この「スタージョンのベストアルバム」(編者あとがき)はファンの誰もが待ち望んでいた最高の贈り物である。買わない手はない。

                  (「マリ・クレール」2003年10月号掲載)

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海を失った男 (晶文社ミステリ)

海を失った男 (晶文社ミステリ)

 

*1:キャサリン・ダンの『異形の愛』の映画化はどうなったのだろう。

*2:『美しい水死人』福武文庫所収

*3:中央公論新社

*4:異色作家短編集、早川書房