かつてアルカディアにありき


 またひとつ、星がその生命を終えようとしていた。
 人びとはその星をアルカディアと呼びならわしていた。だが、その呪文のような言葉が何を意味するのか、知る者はひとりとしていなかった。
 ある者はホームで、またある者はワークステーションで、センターの電磁波望遠鏡からモニターに送られてくる映像を息をひそめて見つめていた。かれらの属する銀河系の星々のなかで最も美しい伝説の星アルカディア。それがいま、永遠に消滅しようとしていた。

 はるか昔、有史以前にアルカディアからこの星へ移り住んだひとにぎりの人びとが、かれらの歴史をノアと呼ばれる磁気記憶解析装置と数千枚の磁気記憶ディスクにおさめて携えてきた、と伝説は語り伝えている。だがノアもディスクもいまでは現存していない。天変地異によって失われたとも、また、愚劣な争いによって焼尽したとも諸説は紛々としてさだかでない。一説によれば、わずかに残された七枚のディスクが厳重に保管されたが、それも数千年の時の流れに風化し、いつのまにかその内容が消え去っていることに気づく者とていなかった、とも伝えられる。たとえ気づいた者がいたとしても、それを保存もしくは複製する手だてはなかったにちがいない、とある考古学者はその著書に記している。
 かれらの歴史は口承によってかろうじていまに伝えられている。

 人びとは息をひそめマイクロ波がとらえた宇宙の映像に見入っていた。ひとりとして席を立とうとする者もなく、声を発する者もなく、あたりは真空のような静寂に包まれていた。
 「アルカディアの人なら」と、ある者は思った。「白鳥の歌に耳をすますように、といったことだろう」。だがかれは白鳥という言葉に結びつくべき姿形を思い浮かべることはできなかった。この星には白鳥はおろかいっさいの鳥も動物も棲息してはいなかった。
 またある者は、祖父母から聞かされたアルカディアの伝説を思い起こしていた。いや、それはかれひとりにとどまらず、その場にいるすべての人びとの脳裏に去来したにちがいない。
 アルカディア――。
 その星には、四季というものがあったという。
 春には野原に色とりどりの花々が咲き乱れ、夏には灼熱の陽光が人びとの頭上に容赦なくふりそそぎ、秋には樹木がいっせいに紅葉し、冬には天から降る雪が地上を真っ白におおったという。
 陽光の下で人は裸で水とたわむれ、雪の上を人は木にまたがって滑走した、という。紅葉した葉はやがて枯れて地に落ち、季節がめぐるとふたたび新しい若葉が萌えだした。そして、やわらかな風が新緑の香ぐわしい匂いを人びとのもとへ運んだという。
 母からその言い伝えを聞いたある者は、それがいかなるものか想像もつかなかったが、「風」という言葉を舌にのせてそのこよなく美しい響きをいつくしんだ。
 その星には、動物というものが棲んでいたという。
 地を這うもの、空を飛ぶもの、水の中を泳ぐものがいた。四本足、六本足、八本足の動物、頭に刃のような鋭利な角を持った動物、黄金の羽毛からなる翼を持った動物、身長の数十倍もある長い鼻を持った動物、口から炎を吐く動物、躯を硬い殻で被い一生を水中で暮らす動物、砂粒のように小さなものから天までとどきそうな巨大なものまで、さまざまな生き物がその星には棲息していたという。
 そして、その星に住む人びとは、夜空をいろどる星々に動物の名を、また神々の名をつけて畏れたという。獅子座、蠍座、牡牛座、蟹座、犀座、プルートー、ジュピター、ウラノスネプチューン……

 伝説の星アルカディアは、モニターに映る無数の星々の中央で薄ぼんやりと白く光っていた。それは、みずから発光して闇を照らしながら空中を浮遊する螢という生き物のように、いまにもふっと消え入りそうなはかなげな光を発していた。
 すでに一時間以上の時が経とうとしていた。重苦しい沈黙に耐えかねたようにひとりの男が口をひらいた。
 「風――」
 かれは目を閉じてそう呟くとうっとりとした表情を浮かべた。
 となりの男がかすかに頷いて自分に言い聞かせるようにいった。
 「それは紗(ヴェール)のようにやわらかに頬をなでていく。でも決して手で触れることはできないんだ」
 「風は」と別の男がいった。「ときには雄々しく荒れ狂い、人々を吹き飛ばし、樹々を薙ぎ倒し、地上のありとあらゆるものを天高く舞い上げてどこかへ運び去っていくそうだ」
 「風か――。できることなら一度見たいものだな」
 ひとりの女性がトランプの切り札を差し出すように目を輝かせていった。
 「雪――」
 別の女性が間髪を入れず応じた。
 「そう、雪よ。わたしも雪が見てみたい。純白の結晶が空からきらきらと輝きながら無数に舞い降りてくるの。掌にうけるとそれは一瞬に融けて小さな水たまりを掌につくるの」
 ひとりの男がいった。
 「おれは麒麟だな。目にも止まらぬスピードで野原を疾駆し、天まで届きそうな長い頚で空高く飛ぶ翼を持った動物をひょいとくわえて食べてしまうんだ」
 別の男がいった。「そいつは空想の動物らしいがね」
 「ぼくは恐竜が見たい」少年がいった。「地上でいちばん強くて大きいんだ。ワークステーションの百倍ぐらい大きいんだよ」
 男がいった。「だけど、そんなに大きくて強い奴とおれたちの祖先はよく共存できたものだな」
 「アルカディアだからな」
 誰かがそういうと、みんながいっせいに頷いた。
 アルカディアなら、あらゆることが起こり得る。不思議なことも、魔法のようなことも、奇跡のような出来事も、アルカディアなら起こり得る。
 「アルカディアだからね」
 誰かがまたそういった。そしてみんなが頷いた。
 「あっ」少年がモニターを指さして小さな叫び声をあげた。
 みんながモニターを見た。モニターのなかの、よるべなく頼りなげな光が闇にまぎれようとしていた。
 「消える――」「消えてゆく――」
 そこかしこで悲鳴のような声がした。
 太陽の光を浴びて、最後の力を振り絞るかのようにかすかな光を発していた星がいま力尽き、輝きを永遠に失おうとしていた。かつて、そこに住む人びとによって地球(テラ)と呼ばれ、やがてこの星の人びとにアルカディアと呼びならわされた伝説の青い惑星が――。
 「さよなら」「さよなら」「さよならアルカディア
 はるか祖先たちの故郷であった星に、人びとは深い哀悼の思いをこめて口々に訣れを告げた。
 「アルカディアは滅んだのね、いま」どこかで声がした。
 「いいえ、アルカディアが滅んだのは――」その声に応えるように、ひとりの女性が呟くようにいった。
 「一万年前よ。一万年前の消滅に、いま、わたしたちは立ち会っているのよ」
 一万光年のかなたで、ひとつの星が宇宙の塵となった。