目の伏せ方だけで好きになる――『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』



 この2ヶ月、これはすごいという作品には巡り会えなかった。なにか書いておきたいと思わせられた作品は、残念ながらほとんどなかった。2つの作品を除いては。もっとも、毎月すごい作品にいくつも出会えるわけはないのだけれど。
 その稀な作品のひとつはスティーヴ・エリクソンの小説『ゼロヴィル』。これは全篇を通じて映画の氾濫する映画好きにはこたえられない小説で、映画批評家でもあるエリクソンの鋭い批評が登場人物をとおして全篇に鏤められている。タイトルはゴダールの『アルファヴィル』の科白から。3月のエリクソンの来日にあわせて2月末には柴田元幸さんの翻訳が白水社から出る予定なので、その頃にまた書く機会があるだろう。
 もうひとつは、先週から始まった連続TVドラマ『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう*1。ふだんはTVをほとんど見ないのだが、坂元裕二脚本のドラマは見逃せない。録画して繰り返し2度見た。
 坂元脚本の『Woman』についてはここで一度書いたことがある*2。その後、wowowの『モザイクジャパン』(2014)、フジテレビの『問題のあるレストラン』(2015)を見たが、いずれもあまり感心しなかった。わたしが坂元裕二に求めているものと肌合いが違っていたからだろう。このたびの『いつ恋』は、間違いなく『Woman』や『それでも、生きてゆく』のテイストにつらなる傑作になるだろう。


 女手ひとつで育てられた杉原音(おと)は、母を亡くし幼い頃から北海道の育ての親のもとで暮らしている。そこへ、音が失くした母の手紙を届けに、運送会社で引越しの仕事をしている曽田練(れん)がトラックに乗ってやってくる。
 音はトラックの品川ナンバーのプレートを見て「あ、新幹線のある駅でしょ」と言う。「あ、はい」「に、住んでるの?」「いえ、住んでるのは雪が谷大塚って」
 雪が谷大塚は東急池上線の駅。西島三重子の名曲「池上線」を思い出させる。練も雪が谷大塚できっと「池上線」の歌詞のような生活と恋をしているのだろう。
 「有名?」と音が訊く。「東京ってひと駅分ぐらい歩けるって本当?」「本当です」「ウソだ」「3駅ぐらい歩けますよ」「ウソ言うな、3駅って選手やん」「選手じゃないです」「競技やん」「競技じゃないです、3駅歩く競技ないです」クスっと笑う音。
 北海道の小さな町、ダムの底に沈むはずだったさびれた町から音は1歩も出たことがないのだろう。音には、東京は友だちとの会話か雑誌かで知った断片的な知識しかない都会だ、ということをこの科白がさりげなく伝えている。
 病の床に伏せっていた養母の容態が悪化し、たまたま通りかかった練のトラックで病院へかつぎ込む。病院の帰り、音は練にファミレスに連れて行ってくれと頼む。初めて来たファミレスに興奮する音。第1回のハイライトともいうべきシーンである。すこし長くなるが、再現してみよう。
 メニューに目移りしてなかなか注文する品が決まらない。大根おろしとトマトソースのハンバーグを両方注文して二人で分けようと提案する練。注文が終わったあともメニューを食い入るように見ている音。「網焼きチキンサンド、ポークソテーきのこクリーム」と目を輝かせて読み上げる。微笑んで見ている練。気づいてちょっときまり悪くなって「引越し屋さんはさ、ファミレスとかよく行く?」「そんなに」「ふーん。付き合ってる人とかいる?」「います」「どんな人?」「会社員」「じゃあさ、改札とか、駅のこっちとこっちとかでさ」とケータイで話す身ぶり。「電話するねとか言う?」「え?」「ね、花火大会とか行ったりする? 家具屋さんに二人で行ったり」「行かないです」「東京の家具屋さんて、すごい広いんでしょう。はぐれたりするんでしょう?」少し首をかしげる練。「ハイヒール?」「はい?」「その人」「ああ、はい」「どんな服着てる?」「服?」「うん」「服は……」自分のセーターとジーンズ、スニーカーを指して「ねえ、こんなのとはちょっと違うでしょう?」「もうちょっとオシャレっていうか」
 坂元裕二の脚本では、他愛のない会話でもその科白の一つひとつが意味をもっている。音は21歳になるまでファミレスに行ったこともなかった。おそらく花火大会も。そういう暮らしを強いられてきたのだろう。子どもの着るスキーウェアのようなセーターも、どこかのスーパーでディスカウントしたものを精一杯奮発して手に入れたにちがいない。新聞配達とクリーニング店でのアルバイトで、高校の学費も自分でまかなったはずだ。
 「ねえ、引越し屋さん、私にだってファッションに強いこだわりありますよ」。すこし意外そうな顔の練。ほらこれを見て、というようにマフラーを見せる音。「(笑って)それはあの、ファッションじゃなくて寒さしのぎですよね」「(笑って)それ言ったら服は全部寒さしのぎだよ」「それ言ったら一番オシャレなのは羊になりますよ」「羊?」「羊」「どうかな」と笑う音。
 やや間があって、「私にも付き合ってた人いましたよ。気象観測部の保利くん。中3から高3まで付き合ってて、けっこう好きでしたよ」「どんなところがですか?」「目の伏せ方?」「なんですかそれ」「わかんない? なんかこう、ふとした時にシュって感じの、わかんない?」「わかんないです」「やってみて」「いや、できないです」「できるって。はい」ぎこちなく下を向く練。「それじゃあ、下向いただけ」と笑う音。「目の伏せ方だけで好きになったんですか?」「なんか、彼が本読んでる時とかに、こう、何読んでるのかなあってこっそり覗き込んだり。あと、中庭に百葉箱ってわかる? 小さい家みたいな、温度計がはいってる箱。あそこに昼休み、保利くんいて、あ、今日フルーツサンド食べてるんだあとか、見てて、不思議だよね、こう、好きな人って、居て見るんじゃなくて、見たら居るんだよね。たとえば教室の……」思い出している。自分に言い聞かせるように「うん」
 「保利くん、いまどうしてるんですか?」「札幌の大学に行った。知り合いが一回偶然会って、元気にしてたって言ってた」。すこし沈み込む音。高3の時に「一緒に札幌の大学を受験しよう」というメールが音に届いたことがあった。家庭の事情で進学を断念したのだろう。音、沈み込んだ気持ちを逸らそうとメニューを手にして「いいアイデアだね、違うの頼んで分けるんだ。トリプルベリーパフェ。ふーん」とひとり言のように言う。音は保利くんとデートしたことがあったのだろうか。一緒にファミレスへ行って他愛のない会話をしたかったと思ったのだろうか。ドラマは大事なことを半分しか語らない。残りの半分は見る者の想像にゆだねられている。「また、見つかりますよ、好きな人」励ますように言う練。聞こえなかったように「ベルギーチョコプリン」とメニューを読む音。「やっぱり好きな人と……」。練は、音が好きでもない金持ちの男と、養父に無理やり結婚させられようとしているのを知っている。聞こえなかったように「一番オシャレなの羊って……」とつぶやく音。
 注文したハンバーグセットが来る。ナイフとフォークで切り分ける練。吹っ切ったように「白井さんと結婚することにした」と音は言う。「さっき病院で決めた。ありがとう。手紙持ってきてくれて。引越し屋さんが言ってたとおり、あれって私のつっかえ棒やったから。ほんまに嬉しかった。結婚する」見つめ合う二人。うなだれるように目を伏せる練。「引越し屋さん」「はい」。目を上げる練。「いま、すごくいい目の伏せ方しましたよ」


 音を演じる有村架純が圧倒的にいい。『それでも、生きてゆく』で、連続ドラマの初めてのヒロインを演じた満島ひかりの再来を思わせる。練の高良健吾も受けの演技をみごとにこなしている。
 音が練と一緒にトラックに乗っているところを目撃した白井は、養父に破談を申し入れにやってくる。玄関で出くわした白井から悪態を投げつけられる音。家の中に入ると、音が後生大事に持っていた母の遺骨を養父がトイレに流しているのを見つける。性懲りもなく今度は中年の男やもめとの縁談を勧める養父。絶望している音を抱えるようにして養母が言う。「音、逃げなさい。もう、あんたの好きなところに行きなさい」。因業親父を振り切って外へ飛び出す音。外は土砂降りだ。土砂崩れの注意警報のサイレンが鳴るなかをひた走る音。通りかかった練のトラックと出会い、乗り込む音。このシークエンスの演出も充実している。主題歌の手嶌葵「明日への手紙」は、このドラマのために作られたかのようにsuitableだ。
 音は上京し、雪が谷大塚に住む。その1年後から第2回が始まる。明日の夜9時が楽しみだ。

植草甚一ふうにいうと……――村上春樹・柴田元幸「帰れ、あの翻訳」についてのあれこれ



 植草甚一ふうにいうと、「MONKEY」最新号の村上春樹柴田元幸の対談を読んで、村上春樹はホントにアメリカの小説をよく読んでいるなあと唸ってしまった。この対談は特集の「古典復活」にちなんで、絶版や品切れになっている英米の小説について二人が語り合ったものだ。古典復活といってもここに出てくるのはいわゆるクラシックな小説ではなく、30〜40年ぐらい前にふつうに読むことのできた翻訳小説がほとんどで、だから対談のタイトルも「帰れ、あの翻訳」となっている。村上さんはわたしより2歳年上、柴田さんは3歳年下、したがってわたしはお二人のちょうど真ん中あたりの世代になるのだけれど、読書体験としてはほぼ同世代といっていいだろう。お二人が選んだ〈復刊してほしい翻訳小説〉50冊、それぞれの書影が出ていて――相当に年季の入ったくたびれた本なのでおそらく蔵書を撮影したものだろう――いずれも8割方はわたしの蔵書と重なっている。処分してもう手元にない本もあるけれど、だいたいわたしも20〜30歳代に読んでいた本ばかりである。品切れになっているのは当然で、かといって取り立てて珍しい本というわけではなく、古本屋へ行けばいまでも均一本で転がっているような本がほとんどだ。書影についてはあとで触れるとして、まずは対談についてちょっと思いついたことを書いてみよう。


 「僕がフィッツジェラルドを訳しはじめたころも、『グレート・ギャツビー』と短篇が少し出ているぐらいで、あとはほとんど出ていなかった」(村上さん)
 村上さんがフィッツジェラルドを訳しはじめたのは、ウィキペディアによると1979年、「カイエ」に載った「哀しみの孔雀」が最初で、81年に「哀しみの孔雀」を含む短篇集『マイ・ロスト・シティー』の単行本が刊行される。柴田さんが注で書いているように、フィッツジェラルドは81年に荒地出版社が作品集(全3巻)を出して短篇もそれなりに読めるようになったが、村上訳『マイ・ロスト・シティー』と2冊の『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』がフィッツジェラルド再評価の先鞭をつけたといっていいかと思う。それより10年ほど前、わたしの学生時代にはエリザベス・テイラーのスティル写真がカバーになった角川文庫の『雨の朝巴里に死す』(飯島淳秀訳、映画化された「バビロン再訪」の邦題)、新潮文庫の『華麗なるギャツビー』(野崎孝訳、これは名訳だと思う)、それに角川文庫の『夢淡き青春』(大貫三郎訳、副題にグレート・ギャツビーと付いていたけれど、なんでこんな邦題にしたのだろう)あたりをよく見かけたものだ。角川文庫版の『夜はやさし』(谷口陸男訳)はすでに絶版になっていたように思う(のちに金色のカバーで復刊される)。


 「マッカラーズ、個人的に大好きで、『心は孤独な狩人』が絶版なのはすごく残念で、自分で訳したいくらいなんだけど、何せ長いからなあ」(村上さん)
 柴田さんが「映画にもなってますね。邦題は『愛すれど心さびしく』」と応えている。この映画は見ていないけれど、『ママの遺したラヴソング』という映画で、スカーレット・ヨハンソンが寝食を忘れて読みふけっていた、死んだ母親の好きだった小説が『心は孤独な狩人』のペーパーバックだった。母親のかつてのボーイフレンドでアル中の元英文学教授がジョン・トラボルタで、かれがT・S・エリオットの詩「四つの四重奏」を朗唱したりするのだけど、こういった映画のなかの文学趣味がわたしは嫌いではない。『ミリオンダラー・ベイビー』でイーストウッドがつぶやくW・B・イェーツの詩「イニスフリーの湖島」もよかった*1。あれはジョン・フォードの『静かなる男』へのオマージュなのかもしれない。マッカラーズの『結婚式のメンバー』を村上さんが訳しているそうだ。これはたのしみ。


 「研究者のあいだでは、同じアメリカ南部の女性作家ということで、マッカラーズはフラナリー・オコナーとよく較べられて、オコナーの方がすごいと言われがちです」(柴田さん)
 南部の女性作家ってことだけで較べられてもなあ、と思うよねえ。アメリカ北部の男性作家という括りで誰かと誰かを比較したりしないもんね。村上さんにいわせれば、それは「ジム・モリソンとポール・マッカートニーを較べるようなものですよ」ということになる。さすが、比喩が的確だ。昨年と今年、『フラナリー・オコナーとの和やかな日々』『フラナリー・オコナージョージア』の2冊が翻訳刊行された(いずれも新評論から)。オコナー再評価の機運があるのだろうか。オコナーの短篇「善人はなかなかいない」には、佐々田雅子の新訳がある*2
 翻訳家大久保康雄について、柴田さんが「個人の翻訳者というよりは「大久保康雄」という名の翻訳工房であり、面倒見のよい個人・大久保康雄の統括の下、総じて良質の翻訳が大量に生産された」と注に書いている。へえ、そうなんだ。わたしたちの世代はみんな大久保センセイの翻訳にお世話になりましたね。いま新訳が刊行中の『風と共に去りぬ』とか、ヘミングウェイとかヘンリー・ミラーとかO・ヘンリーとかダフネ・デュ・モーリアとか、もうあれもこれも大久保センセイの翻訳だった。常人の仕事量ではありませんね。ちなみに『風と共に去りぬ』を大久保康雄と共訳した竹内道之助は三笠書房創立者でもあるけれど、三笠からクローニン全集というのを全巻個人訳で出していた。クローニンって、いまはもうほとんど忘れられた作家だけど、むかしはクローニン原作のテレビドラマなんかが幾つもあってけっこう読まれてたのね。石坂浩二樫山文枝の「わが青春のとき」とか。ぼくも原作買って読んだもん。どちらかというと大衆的な小説家だけど復刊すると意外と受けるかもしれませんね。
 復刊といえば、柴田さんが対談で挙げているマラマッドの『店員』(『アシスタント』の題で新潮文庫から出ていた)や、オコナーの『烈しく攻むる者はこれを奪う』を復刊した文遊社は目の付け所が絶妙ですね。ナボコフの『プニン』に、ペレックの『物の時代 小さなバイク』、サンリオSF文庫で出ていたアンナ・カヴァンデイヴィッド・リンゼイ。最近ではグラックの『陰欝な美青年』。「おお、そうきたか」って、なんか一昔前の文学好きといった感じの選書だな。個人的な希望をいわせてもらうと、『陰欝な美青年』と同じ筑摩の海外文学シリーズで出ていたデープリーンの『ハムレット』、ビュトールの『仔猿のような芸術家の肖像』、ヒルデスハイマーの『眠られぬ夜の旅』(新潮社の『詐欺師の楽園』も)、河出のブッツァーティ『ある愛』、アルトマン『サセックスフランケンシュタイン』、サンリオのジョン・ファウルズ『ダニエル・マーチン』、SF文庫のボブ・ショウ『去りにし日々、今ひとたびの幻』、スラデックの『言語遊戯短編集』なんかをぜひ復刊していただきたい。それに青柳瑞穂訳の『アルゴオルの城』(人文書院)とかね。あーあ、こんなこと書いてたらキリないな。最初に書いた書影について急いで触れておこう。


 まずは村上さんの〈復刊してほしい翻訳小説50〉から。ケン・コルブの『傷だらけの青春』(角川文庫)。写真では背しか見えないけれど、表紙カバーはエリオット・グールドキャンディス・バーゲンのツーショット。映画『…YOU…』のスティル写真である。好きだったな、この映画。主題歌(映画原題と同じ GETTING STRAIGHT*3)もよかった。ダリル・ポニクサンの『さらば友よ』は映画『さらば冬のかもめ』の原作*4。これも角川文庫で、この頃(1970年前後)角川文庫から外国映画の原作本が続々と出ていたんですね。これはたしか角川春樹さんの仕事で、のちの角川映画のメディアミックス(横溝正史とか森村誠一とか)につながってゆく。『マッシュ』も『くちづけ』も映画の原作。けっこう原作本を読んでるんですね、村上さんは。
 左上に掲げられている絵はジョン・ファウルズの『魔術師』の原書ダストジャケット*5。ちょっとシュールで面白い絵なので調べてみた。画家はトム・アダムスさん*6。ここに掲げておこう。

 柴田さんの〈復刊してほしい翻訳小説50〉には、ダニロ・キシュやミロラド・パヴィチなど、英米以外の作家も挙げられている。パヴィチの『ハザール事典』は先頃、文庫化された。ドナルド・バーセルミの『口に出せない習慣、奇妙な行為』はサンリオSF文庫から出ていたが、『口に出せない習慣、不自然な行為』と改題されて彩流社から復刊された。復刊本も品切れのようだ。ゼーバルトの『アウステルリッツ』も挙がっているけれど、これは品切れ中なのか。単行本が出て、ゼーバルト・コレクションに入るときに「改訳」されたが、実際は、重版の際にほどこすのと同等の小さな手直しである。ナサニエル・ウェストの『いなごの日』と『クールミリオン』(いずれも角川文庫)は、改訳するかそのまま岩波文庫にでも入ればいいのに。『孤独な娘』も入ったことだしね。

MONKEY Vol.7 古典復活

MONKEY Vol.7 古典復活

*1:脚本はポール・ハギス。かれの監督作品『サード・パーソン』は、今年BSで見た100本ほどの映画のなかのベスト。

*2:「善人はそういない」、アンソロジー『厭な物語』文春文庫所収。

*3:https://www.youtube.com/watch?v=vWER0TLWLuo

*4:さらば冬のかもめ』はアメリカン・ニューシネマの代表作の1本。監督がハル・アシュビー、脚本がロバート・タウンハル・アシュビーハスケル・ウェクスラー(撮影)コンビの『帰郷』で、ジェーン・フォンダジョン・ボイトはそろってオスカー主演賞を手にした。ベトナム反戦映画の代表作。ジョン・ボイトアンジェリーナ・ジョリーのお父さんですね。ロバート・タウンはわがオールタイムベストの1本『テキーラ・サンライズ』で監督も務めた。Allcinemaの『テキーラ・サンライズ』の解説には不賛成。『さらば冬のかもめ』、BSでやんないかな。

*5:Published by London: Jonathan Cape,1966

*6:http://www.tomadamsuncovered.co.uk/index.html

怯えるカフカ


 『小泉今日子書評集』が書店新刊の平台に並んでいた。読売新聞に10年間掲載された書評を集成したものだという。それぞれの末尾にあらたに短いコメントが附されている。手に取ってぱらぱら頁をくっていると、ある箇所にきて、おおっと思った。最近、文庫本の小さい字が読みづらくて眼鏡をかけて読んでいる、といった意味のことが書かれていた。キョンキョンが老眼鏡ねえ。歳月人を待たず、か。わたしもむろん疾うから老眼だが、いまのところ文庫本のルビもどうにか裸眼で読めるので老眼鏡はもっていない。目はひとより酷使しているので、そのせいか、1年ほどまえに白内障の徴候があると医者に診断されたが、いまのところ自前の水晶体を騙し騙し使っている。たんにモノグサで眼鏡をかけたり手術をしたりするのが面倒なだけなのだけれど。
 文庫本といえば、最近創刊された集英社の〈ポケットマスターピース〉シリーズは近来出色のものである。全13巻と多くはないが文庫版世界文学全集というべきもので、初回配本がカフカゲーテの2冊。とりあえずカフカの巻を買ってみた。「変身」(「かわりみ」とルビが振られている)と、「ある戦いの記録」から抜粋した2篇、それに「田舎医者」から1篇、都合4篇が多和田葉子の新訳、ほかに「訴訟」(「審判」)や「流刑地にて」「巣穴」など8篇すべてが70年代生れの中堅研究者(川島隆、竹峰義和、由比俊行)による新訳。さらに書簡選、公文書選も収録されている。 
 「変身」冒頭の有名なセンテンスを多和田葉子はこう訳している。


 「グレゴール・ザムザがある朝のこと、複数の夢の反乱の果てに目を醒ますと、寝台の中で自分がばけもののようなウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫)に姿を変えてしまっていることに気がついた。」


 「なにか気がかりな夢」という訳語も含みがあって好きなのだが、「複数の夢の反乱」というのも、ざわざわした不安な夢の感触をつたえて悪くない。多和田葉子は本書に「カフカ重ね書き」という12頁におよぶ解説を寄せている。今年の「すばる」5月号に「変身」の翻訳が掲載された際に「カフカを訳してみて」という見開きの文章が掲載されたが、それと重複する部分もある。ふたつの文から大意を紹介すると――
 「変身」冒頭、原文は「ウンゲホイアのようなウンゲツィーファーに変身してしまった」であり、ウンゲホイアは化け物であり「余剰によって人間をはみだしてしまった」という語感があるという。ウンゲツィーファーは害虫、訳文の()内に補足されているように「生け贄にできないほど汚(けが)れた生き物」が語源である。父親の罪=借金を償うためにグレゴールは会社に生け贄として捧げられていたが、変身することによって生け贄をまぬがれて自由の身になる。だがその代償として家族や社会から見捨てられ、生き延びることができなくなってしまう。変身したグレゴールからはまた「引きこもり」や「介護」の問題も読み取ることができる。カフカの小説はそうした複数の解釈を生じさせる重層構造があるが、それは労働者災害保険局に勤めてさまざまな社会的問題と直面していたことと関係があるかもしれない、カフカの書いた公文書もそういう視点で読むと面白い、と多和田葉子はいう。
 というわけで、公文書選の「1909年次報告書より 木材加工機械の事故防止策」を読んでみる。これは、木材切削加工用のかんな盤の安全シャフトについての報告で、角胴と丸胴のシャフトの相違をイラスト図版つきで詳細に説明している。すなわち――


 「(角胴は)かんな刃とテーブル面のあいだに広い隙間が空いているせいで作業員の身に生じる危険は、明らかに突出して大きい。この方式のシャフトで作業するということは、すなわち危険について無知なまま作業して危険をいっそう大きくするか、あるいは避けようのない危険にたえずさらされている無力を意識しながら作業するか、どちらかを意味する。きわめて用心深い作業員なら、作業に際して、つまり木材を回転刃に送る際に木材より指が前に出ないよう細心の注意を払うことができるだろうが、危険があまり大きいので、どれだけ用心しても無駄である。どれだけ用心深い作業員でも手が滑ることはあるし、片手で工作物をテーブル面に押しつけ、もう片方の手でかんな刃に送るとき、木材が躍ることは少なくない。すると手が刃口に落ちて回転刃に巻き込まれてしまう。そのように木材が浮いたり躍ったりするのは予測不能であり、防ぐこともできない。木材にいびつな箇所があったり枝が出ていたりするとき、あるいは刃の回転速度が足りないとき、あるいは木材を押さえる手の力が不均一であるときに、それは簡単に起こる。だが、ひとたびそのような事故が起これば、指の一部または全部が切断されずには済まない。」


 面白い。書き写していると面白くてつい長く引用してしまった。「避けようのない危険にたえずさらされている無力を意識しながら作業する」なんて役所の報告書としてはレトリックが過剰で、もっと簡潔に事実のみを述べよ、と上司が注意したのじゃないだろうか。イマジネーションが過剰に発動して、カフカはここでほとんど作業員と一体化して危険におびえているかのようだ。
 巻末の詳細な作品解題で川島隆は、公文書は従来カフカ研究において重きをおかれていなかったが、近年では「文学作品と公文書のあいだの文体上・モチーフ上の連続性が指摘されるようになってきて」おり、「両者の境界線を撤廃し、カフカの公文書を「文学作品」として読む可能性もまた読者の前に開かれている」と記している。 安全ヘルメットを発明したのはカフカだという「風説」もあったそうだが、危機や危険にたいする異常に鋭敏なセンサーは、たとえば「巣穴」などの作品にも明確に発揮されている(川島隆は、この木工機に関する報告書を「流刑地にて」と対をなすテクストだと書いている。慧眼である)。
 本書に収録された公文書は、ドイツの「批判版全集」の公文書の巻からカフカの文章であることがほぼ確実なものを訳出したそうだが、もっと読んでみたいと思わせられた。「カフカお役所文集」なんて出るといいなあ。売れないだろうけど。「訴訟」や書簡選には、批判版全集の校注を参考に訳注を附すなど、ぜんたいに最新の研究成果が取り入れられている。800頁の大冊で本体1300円と、値段もお買い得である。


小説家は寛容な人種なのか、もしくは、ドイツ戦後文学について



 又吉直樹の「火花」は「文學界」に掲載されたときに読んだ。芥川賞候補になる前だったが、いい小説だと思い、好感をもった。ただ、いささか「文学」っぽすぎるような印象があり、そこがいささか気になった。芥川賞受賞後、「文學界」の特集(9月号)を読み、いくつか出演したTV番組を見て(漫才の番組ではない。わたしは彼の漫才を見たことがない)、聡明な人だな、という感想を持った。小説家にしては聡明すぎるようで、そこが彼の弱点かもしれないと思った。そう思ったのは、村上春樹の『職業としての小説家』の冒頭に、「小説を書くというのは、あまり頭の切れる人に向いた作業ではない」と書かれていたからである。
 村上は「頭の回転の速い人々が――その多くは異業種の人々ですが――小説をひとつかふたつ書き、そのままどこかに移動してしまった様子を僕は何度となく、この目で目撃してきました」と書いている。「頭の回転の速い人々」が小説家に向いていないとする村上説の当否については直接その文章にあたって判断していただきたいのだけれど、わたしが村上説をそうかも知れないと思ったのは、芥川賞の選考委員のだれよりも又吉直樹のほうが頭の回転が速く聡明そうに見えたからである。ある種の「頭の回転の速さ」がなければ、生き馬の目を抜くような芸能界で頭角をあらわし生き残ってゆくのは不可能だろう。小説家として「生き残ってゆく」資質は、それとは違うものだと村上は考えているらしい。
 芸人や芸能界の世界を舞台にした小説でわたしが思い出したのは、中山千夏の『子役の時間』と松野大介の『芸人失格』である。いずれもよく書けたいい小説だと思った記憶がある。ずいぶん昔に読んだので「火花」と比較して論評はできないが、遜色はなかったように思う。松野大介はそれ以降も小説を書き続けている(というよりも物書きに転身した)らしいが、中山千夏は数冊の小説集を出して、村上春樹のことばを借りれば「そのままどこかに移動してしまった」。ビートたけし荒木一郎も一時期小説に手をそめて「移動してしまった」才人たちである。
 又吉直樹の小説が村上のいう「多少文才のある人なら、一生に一冊くらいはわりにすらっと書けちゃう」一瞬の火花のようなものにすぎないのか、それともこの先「二十年、三十年にもわたって職業的小説家として活躍し続け」てゆくのか(もしくは池田満寿夫唐十郎のように二足のわらじを履き続けるのか)、見届けたいと思う。

 
 さて、村上のこの文章――「小説家は寛容な人種なのか」と題されている――で、もうひとつ面白いと思ったのは、「小説家の多くは――もちろんすべてではありませんが――円満な人格と公正な視野を持ち合わせているとは言いがたい人々です」という断言である。村上は続けて「また見たところ、あまり大きな声では言えませんが、賞賛の対象にはなりにくい特殊な性向や、奇妙な生活習慣や行動様式を有している人々も、少なからずおられるようです」と書いている。「僕も含めてたいていの作家は」と書いているように、自らを「基本的にエゴイスティックな人種」であると村上は認めているのだろう。わたしにも小説を書く知人がいなくはないけれども、それほど「奇妙な生活習慣や行動様式を有している」ようには見えない。村上は「たいていの作家」を「だいたい九二パーセントくらいじゃないか」と書いているので、かれらは残りの八パーセントに属するのかもしれないが、かれらよりわたしのような人間のほうがきっと「賞賛の対象にはなりにくい特殊な性向」の持ち主にちがいない(年をとっていくぶん円満になったという気が自分ではしているのだけれど)。
 最近刊行された『廃墟のドイツ1947』という本を読んで、このもうひとつの村上説を思い出した。これは「四七年グループ銘々伝」と副題のついたハンス・ヴェルナー・リヒターの本。四七年グループとは1947年にドイツで結成された文学グループで、「グルッペ47」とも言われる。リヒターはその中心人物で、本書はそのグループの仲間たちのポートレートを描いたものである。訳者の飯吉光夫によると、原著(「蝶たちの曖昧宿で」)では21人の肖像だがすこしカットされて17人が収録されている。
 「四七年グループ」については、日本ではドイツ文学者の早崎守俊が『負の文学――ドイツ戦後文学の系譜』(思潮社、1972)や『グルッペ四十七史――ドイツ戦後文学史にかえて』(同学社、1989)といった著書でつとに紹介してきた。第二次世界大戦で敗戦国となったドイツと日本には共通点が少なくない。ドイツの戦後文学を主導した「グルッペ47」は、早崎守俊も『負の文学』で書いているように、日本では1945年に荒正人埴谷雄高らによって創刊された「近代文学」に相当するといえるだろう。「近代文学」派の小説家・批評家たちが日本の戦後文学を牽引したように、「グルッペ47」には(のちにノーベル文学賞を受賞する二人の小説家を含む)錚々たるメンバーが加わっている。『廃墟のドイツ1947』で取り上げられた小説家・詩人たちのなかから、わたしに比較的親しい名前を拾ってみても、次のような人たちが挙げられる。イルゼ・アイヒンガー、アルフレート・アンデルシュ、インゲボルク・バッハマン、ハインリヒ・ベル、ギュンター・アイヒ、ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーギュンター・グラス、ヴォルフガング・ヒルデスハイマー、ウーヴェ・ヨーンゾーン、ハンス・マイヤー、マルセル・ライヒラニツキ、マルティン・ヴァルザー、ペーター・ヴァイス。このほかにも、パウル・ツェラーンやペーター・ハントケらも「グルッペ47」の集会に参加している。
 集会では小説や詩を著者が朗読し、それが「こっぴどい批評」にさらされて「満身創痍になる」こともあったという。村上春樹のいうように「自分がやっていること、書いているものがいちばん正しい」という「エゴイスティックな人種」の集まりだから、さもありなんというべきか。「「四七年グループ」は、彼(アルフレート・アンデルシュ)の見解では、出世主義者の集団で、つねに一人が他をだし抜こうとしており、この出世主義芝居の中心に彼にはギュンター・グラスが立っているのだった」とリヒターは書いている。「(グラスは)「四七年グループ」の集会に毎年やって来、機会はすべて捉えて朗読をし、三年間それをやっても無駄ではあったものの、おめず臆せず、ベルリンまたはパリから、極貧にもかかわらず、やって来た」というから、野心を抱いた若者だったのだろう。むろんグラスは、ヒルデスハイマーが見抜いたように「なみなみならぬ才能」を有していたし、こうと決めたら脇目も振らずに精進する「一種の勉学の天才」だった。そして集会で朗読した『ブリキの太鼓』によって「いわば一夜にして、グラスは有名な作家に成り上がった」のである。 
 いっぽう、アルフレート・アンデルシュは「グルッペ47」の前身ともいうべき雑誌「デア・ルーフ」(「叫び」、「呼び声」とも)以来のリヒターの盟友だったが、飯吉光夫が「無理をして書いている」と評しているように、彼についてはいささか歯切れの悪い書きぶりである。アンデルシュは「野心家だった」とリヒターは書いている。それも並外れた野心家で、「トーマス・マンより有名になることが自分の目標だ」と語ったという。周囲のものたちは「唖然として口をぽかんと開けていた」が、アンデルシュ自身は「困惑しきった沈黙に気がつかず、むしろそれを暗黙の了解のしるしにとった」というから、村上説による小説家の資質を充たしてあまりある。
 ヴィンフリート・G・ゼーバルトは、リヒターのこの回想を引いた後、「たしかに当初、アンデルシュの予想は当たったかに見えた」と書いている(『空襲と文学』白水社)。『自由のさくらんぼ』、さらに『ザンジバル』によって大きな反響と賞賛を得たが、『赤毛の女』において「批評界は二分」され、絶賛の一方で「胸くその悪い嘘とキッチュのごたまぜ」(ライヒラニツキ)と酷評される。ライヒラニツキは次の作品もこき下ろしたため、アンデルシュは「いちじるしく気分を害し」たが、短篇集をライヒラニツキに思いがけず褒められると「あれだけ毛嫌いしていた男に対して、そそくさと愛想のいい手紙を書き送る」。そして、つぎの『ヴィンターシュペルト』にたいしてライヒラニツキがまたもや否定的評価を下すと、アンデルシュはかれを告訴しようかとまで考えたという。ゼーバルトは『空襲と文学』において一章をさいてアンデルシュの作品を懇切に論じているが、訳者の鈴木仁子があとがきで「あまりにも酷ではないか」と記すほど、その批判は身も蓋もなく厳しい。「夢のテクスチュア」(『カンポ・サント』同)と題されたあの発見にみちた繊細なナボコフ論とのあまりの懸隔は読むものに眩暈を生じさせるほどだ。
 ギュンター・グラスに対するアンデルシュの態度は「最初から敵意にみちたものだった」とリヒターは書いている。すでにいち早く「世界的に有名になっていた」グラスへの嫉妬によるものとみていいだろう。グラス以上にアンデルシュ自身が「出世主義芝居の中心」にいたのだから。リヒターはアンデルシュにたいして時にうんざりしながらも彼が死ぬまで長く友情をたもって付き合った。良くも悪くも中庸を重んじる性格だったのだろう。リヒターがここで取り上げている作家たちに比して小説家としてそれほど大成しなかったのは、「基本的にエゴイスティックな人種」であるといった作家としての資質を欠いていたからなのかもしれない。本書はそれをよく証だてているといっていい。


職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

廃墟のドイツ1947: 47年グループ銘々伝

廃墟のドイツ1947: 47年グループ銘々伝

眠れゴーレム


 五、六年前になろうか、寺山修司未発表歌集と題された『月蝕書簡』が岩波書店から刊行されたのは。寺山修司が晩年に作歌したものを田中未知が編纂した遺稿集であるという。この本の出版を新聞広告かなにかで見たときに、わたしのなかに危惧するものがあった。しばらくは打ち捨てていたが、ある時(怖いもの見たさといった)誘惑に抗しきれず、手に取ってみた。そこにあったのは無惨な歌の残骸だった。わたしは、わたしの危惧を確かめるためだけにこの歌集を手にしたことを後悔した。寺山さんは晩年に至って――本人は晩年と意識していなかっただろうが――なぜこのような拙劣な自己模倣にすぎぬ歌を詠んでみようと思ったのか。それだけがわたしのなかに謎として残った。
 『寺山修司青春歌集』(角川文庫、一九七二年)の解説で、寺山を世に出した名伯楽中井英夫がこう書いている。
 

 「寺山修司は十二、三歳のころに作歌を始めたらしいが、その短歌が初めて世に現われたのは一九五四年(昭和二十九年)十一月のことで、部厚い全歌集が発刊されたのは一九七一年一月、といっても、歌のわかれ(ややあいまいな)を宣言した跋文の日付は七〇年十一月となっているから、ちょうどまる十六年間、公的な短歌の制作発表が続いたわけである。この文庫版は『青春歌集』と銘うたれているけれども、その間のすべての作品が収録されている。」


 寺山修司の歌のすべてはこの二百頁に満たない文庫本のなかにある。「月蝕領主」を自称した中井英夫がこの『月蝕書簡』を見ずに逝ったことがせめてもの幸いと思われた。
 

 ここで何度も書いているので聊か気が引けるけれども、岩波「図書」の斎藤美奈子の連載「文庫解説を読む」、9月号では伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』『女たちよ!』と寺山修司の『家出のすすめ』『書を捨てよ、町へ出よう』を取り上げて対比している。『退屈日記』の解説は関川夏央、『女たちよ!』は池澤夏樹(いずれも新潮文庫)。「二冊の本の解説は、もう一編の良質なエッセイとして読めるものに仕上がった」という斎藤美奈子の評価にわたしも異論はない。関川とそう歳のはなれていないわたしにも、伊丹十三の書く「スパゲッティの正しい食べ方」は衝撃的だった。甘ったるいケチャップにまみれた西洋風いためうどんしか知らない高校生に、スパゲッティはアル・デンテでなければならぬと伊丹十三は懇切に説き聞かせたのである。「スパゲッティについての彼の講釈は、四十年を経たいまでも、私の脳裡にはっきりと刻まれている」と書く関川に、どれほど多くの同世代の読者が大きく頷いたことだろう。
 一方、『家出のすすめ』の解説は竹内健、『書を捨てよ、町へ出よう』は中山千夏(いずれも角川文庫)。斎藤美奈子はこの二冊に対し、いずれも「知己であることに寄りかかった解説」であり「完全に解説者の選択を誤った」と書く。竹内の解説には寺山との私的な交友だけでなく、家=故郷からの離脱を「己の思想の糧」とした寺山と、農村の過疎化といった現在(この解説が書かれたのは四十年以上前だ)の社会状況との関わりの指摘もあるにはあるけれど、斎藤美奈子の評価にわたしもおおむね首肯する。だが斎藤が「伊丹のエッセイは解説の力で輝き、寺山のエッセイは解説の力で輝き損ねているのである」として「若者へのメッセージを込めた本の解説は、その当時若者だった「正しい読者」にしか書けないのだ」と結論するとき、聊か性急すぎる気がしないではない。 
 斎藤が寺山の二冊に対して「なぜこんな人たち(といっちゃうが)に解説を依頼したのだろうか。もしくは二〇〇五年の改版時に、なぜ新しい解説者を立てなかったのか」と書いているように、要は解説にも賞味期限があるということだろう。伊丹十三の二冊はいずれも二〇〇五年刊だが、寺山の『家出』は一九七二年、『書を捨てよ』は一九七五年といずれも四十年ほど前のもので、十年前の伊丹十三の二冊に比べると、どうしても古いという感が否めない。もちろん古いのは解説であって、本文じたいは四冊とも六〇年代に書かれたものだが、風俗もしくは時代のファッションのようなものを別にすれば決して古びず、長く読み継がれるにあたいする名エッセイである。
 ちなみに寺山修司の『幸福論』(角川文庫、一九七三年)の解説は佐藤忠男。「思想の科学」出身の評論家らしい堅実な解説で、それはそれで悪くはないが、次のような箇所にはやはり時代を感じさせる。
 「世の中には、さまざまなかたちで差別され、疎外されている人間がいる。オカマ、ホモ、娼婦、トルコ嬢、彼ら、あるいは彼女らの多くは、自分を不幸だと思っているだろう。」
 大江健三郎は初期短篇を全集(「大江健三郎小説」新潮社)に収録する際に「トルコ」を「ソープ」に変更したが(「女ソープ師」という珍妙な表現は大江らしいユーモアの表われか)、大江にせよ佐藤にせよ、言葉を言い換えればいいという問題ではない。最近も『大江健三郎自選短篇』(岩波文庫)で、「奇妙な仕事」の「私大生」を「院生」に変えたが、作品の歴史性を無視した改悪というべきだろう。


 さて、話を冒頭の寺山の「歌のわかれ」に戻せば、中井英夫は解説で『寺山修司全歌集』の跋文――「こうして私はまだ未練のある私の表現手段の一つに終止符を打ち、『全歌集』を出すことになったが、実際は、生きているうちに、一つ位は自分の墓を立ててみたかったというのが、本音である」――を引いたのち、こう述べている。


 「(略)この生きながらの埋葬は結構なことだし、第一、いつまでも歌人でいる必然性は彼にはない。消えない歌人のふしぎさはいやというほど例のあることで、墓の中に横たわりながらも、いま一度どうしてもという使命感につらぬかれたときだけ、巨人ゴーレムさながらに土をふりはらって起きあがればいいのだ。」


 「消えない歌人のふしぎさ」とは短歌誌の編集者として中井英夫が嫌というほど目にした、曲がない身辺雑詠を飽きもせず作り続ける「おびただしい中高年齢層歌人」のことで、そうしたなかへ十代の寺山が「一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき」といった清新な歌を引っさげて颯爽と登場したのだから、中井英夫が「まさに青春の香気とはこれだといわんばかりに、アフロディテめく奇蹟の生誕をした」と歓喜したのもむべなるかなといわざるをえない。だが、「巨人ゴーレムさながらに土をふりはらって」起きあがった寺山の『月蝕書簡』におさめられた歌のどれひとつとして、わたしには「いま一度どうしてもという使命感につらぬかれた」歌とは思えなかった。
 たとえば『月蝕書簡』の、
  地平線描きわすれたる絵画にて鳥はどこまで墜ちゆかんかな
 と、『空には本』の、
  夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず
 とを比べてみれば優劣は一目瞭然である。就中、前者の切れ字は最悪である。

 ――塵にふすものよ醒めてうたうたふべし、か。
 「ああどうか
  眠り続けてくれたまえ
  あした枕辺には
  何もないから
  詩なんか一片だつて
  載つてやしないから」(中井英夫『眠るひとへの哀歌』)


寺山修司青春歌集 (角川文庫)

寺山修司青春歌集 (角川文庫)

山田稔『天野さんの傘』とその他のあれこれ



 山田稔さんの新刊『天野さんの傘』をようやく読んだ。奥付の刊行日を見ると2015年7月18日発行となっている。その前後に本書の刊行を知り、神保町の東京堂書店に足を運んだ。いままでならレジ前の新刊平台に積まれているはずだった。しかし、そこには見当たらず、3階の文芸書コーナーへ行ってみた。機械で検索してみるとたしかに在庫の表示があるのだが、探しても該当する場所に見当たらない。店員に訊ねると、在庫は客注品で、いま版元に注文を出しているのでしばらくお待ちいただければ入荷するとのことだった。ほう、山田さんの本を注文で取り寄せている人がいるのか、とちょっとうれしくなった。
 その後、入荷しているかどうか何度か東京堂書店へ行ってみたが入っていなかった。版元の編集工房ノアか京都の三月書房にでも注文すればすぐに手に入るのだけれども、この本は東京堂書店で買いたいと思ったのだった。山田さんの本を(編集工房ノアの本を)東京堂書店が置かないでどうする、という思いがあった。地道に文芸書を出し続けている小さな版元の支えになる東京では唯一の書店じゃないか。
 ちなみに、池袋のリブロが閉店し、そのあとに「居抜き」のような形で三省堂書店が入った。リブロもかつての(ということは三十数年前のということだが)店と比べると近年はいくぶん精彩を欠いてはいたが、それでもレジ前の新刊平台に『野呂邦暢小説集成』(文遊社)が並び、文芸評論のコーナーに『岩本素白 人と作品』(河出書房新社)が平積みされる程度には文芸書へのたしかな目配りがあった。リブロと入れ替りに入った三省堂書店は、日本と海外の文芸書が中心だった新刊平台をコミックで埋め尽くした。壁二面(10本ほどの棚と平台)に陳列されていた各国別の翻訳文学書は2本の棚に縮小され(英米独仏露等々の翻訳書がそこにちんまりと押し込まれている)、詩歌のコーナーはコミックとラノベによってほぼ壊滅した。
 池袋は乗換駅なので一昨日も勤め帰りに三省堂書店を覗いてみたが、岩波文庫の棚前の平台に新刊はなく、ハムスンの『ヴィクトリア』(さすが岩波文庫だね)と『文語訳旧約聖書 歴史』がそれぞれ1冊ずつ棚差しになっているだけで、新訳『パンセ(上)』は見当たらなかった。随筆評論の棚前平台に積まれた細見和之の『石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と死』(中央公論新社)の背が低くなっていたのだけが(数冊売れた証拠)わずかな救いのように思われた。
 閑話休題
 さて、東京堂書店でようやっと手にした『天野さんの傘』、なかの数篇はすでに読んでいたが、初めて読むものでは敗戦前後の頃を回想した「裸の少年」と講演録「富士正晴という生き方」が心に残った。表題の「天野さんの傘」は、いかにも山田さんらしい小説ともエッセイともつかぬ小品。山田さんは「VIKING」によって「既成のジャンルにこだわらぬ私のいまの自由なスタイル」、「自分に合った書法を習得していった」と「富士正晴という生き方」のなかで語っている。 
 ここでは「富士正晴という生き方」について、というよりその文章によって触発されたあれこれについて書いてみよう。多くは脇道もしくは愚にもつかぬ由無し事に違いないけれども。


 わたしが富士正晴につよい関心を抱いたのはそれほど昔のことではない。といっても、もう二十年ぐらいにはなるだろうか。何がきっかけだったかは覚えていない。「VIKING」という同人誌はそれよりさらに三十年前、高校生の頃に知った。
 高校に入ってしばらくたった頃、級友何人かで読書会のような集まりを持とうということになった。なかの一人、たしか中学で生徒会の会長をやっていたという早熟の少年から聞いたのだと思う。「VIKING」は関西に本拠地があり、わたしたちの高校もその圏内にあった(ちなみに、手元にある古い「VIKING」の奥付を見ると、印刷は神戸刑務所となっていて、その所在地はわたしたちの高校と同じ市内にあった。神戸刑務所にはわたしの叔父が勤めていた)。かれは、やがては「VIKING」の向こうを張る同人誌をやりたいという稚気愛すべき野心を抱いていたのかもしれない。
 ともあれ集まったわたしたちの最初のテーマは、さて何を読むべきか、だった。毛沢東マルクスヘーゲルか、そんな名前があがった。だが、それではあまりにフツーすぎてつまらない。そう思ったのか、かれが候補に挙げたのはジンメルだった。だれそれ? わたしたちの誰もそんな名前を聞いたことがなかった(とはいえ、毛沢東マルクスヘーゲルも名前を知っているだけで、おそらくそこにいる誰ひとりとして読んだことはなかったにちがいない)。
 「ジンメルというのはあまり知られてへんけどすごい哲学者なんやで」。どこかで聞きかじったのだろう、かれは尊敬する遠縁の伯父かなにかのように自慢げにそう言ったが、ジンメルについてそれ以上のことは知らないようだった。わたしたちに否応のあるはずもなく、「ほんならジンメルにしようか」と即決した。「岩波文庫に『芸術哲学』という本があるんや」。いまでこそジンメルはエッセイであれ論文であれ解説書であれ手軽に入手することができるが、当時はその本ぐらいしか出ていなかった。中公の「世界の名著」の『デュルケームジンメル』の巻が出るのは2年ほど後のことである。わたしたちは岩波文庫の『芸術哲学』をもとめて、町の本屋へと連れだって出かけた。本屋の店長は文庫目録かなにかを調べて、「その本は品切れで重版の予定はないねえ」と厳かに宣言した。わたしたちはうなだれて帰途についた。ちなみに(「ちなみに」ばかりだけど)木村書店というその本屋は、小山書店から出た稲垣足穂の『明石』を復刊した本屋さんで、店長の父親は「水甕」に所属する歌人でもあると知ったのはずいぶん後のことである(いまも同じ場所で商いをしているようだ)。わたしたちの読書会はジンメルで意気消沈したせいか、その後何度か集まりは持ったもののなんら成果を挙げずに自然消滅した。
 またまた閑話休題
 ジンメルではなく富士正晴だった。わたしは古書店をまわり、富士正晴の本をぽつぽつと集めはじめた。単行本と文庫本をあわせていまでは二、三十冊ほどが手元に集まった。刊行年のいちばん古いのは1964年の『帝国軍隊に於ける学習・序』(未来社)。全五巻の『富士正晴作品集』(岩波書店)は十五年ほど前に、古書店の価格を比較して神保町の一番安い店で買った。月報附きの揃いで一万円だったと思う。インターネットで検索すれば、いまでは半額以下で売られている。書窓展の克書房なら揃いで1500円である。
 山田稔さんとともに『富士正晴作品集』の編者の一人である杉本秀太郎が今年の5月に亡くなったとき、わたしは東京堂書店へ行って杉本さんの詩集『駝鳥の卵』を買った。編集工房ノアから去年出た本で、東京堂書店へ行くたびに詩集棚にその本があることを確認しては買うのを先延ばしにしていたのだった。幸い、わたしと同じことを考えた人はいなかったようで、棚差しになっていた詩集はまだ誰の手にもわたらずにそこにあった。死因は白血病だというから、杉本さんは書きためた詩を死ぬ前に本にしておきたいと思ったのかもしれない。その杉本秀太郎唯一の詩集と、もう一冊、吉岡秀明『京都綾小路通』(淡交社)をひもといて杉本さんを偲ぶよすがとした。
 『京都綾小路通』は杉本秀太郎の伝記で、この本によれば、杉本さんは京都大学の大学院在学中に富士正晴と出会った。桑原武夫の引き合わせだった。桑原武夫は杉本さんの仏文科卒論の審査をした一人で(主査は伊吹武彦)、当時(1960年頃)、富士正晴桑原武夫人文書院から出る『伊東静雄全集』の編集に携わっていた。桑原から編集を手伝ってほしいと頼まれた杉本さんは、先斗町お茶屋での打合せで富士正晴と初めて出会う。二度目に会ったとき、富士正晴は「お前とこに行くわ」と杉本家(当時はまだ文化財には指定されていなかった)に押しかけて一泊し、その後、大阪茨木の自宅から京都に出てくるとしばしば杉本家に宿泊するようになった。富士正晴は起きると、顔も洗わず朝からウィスキーをがぶ飲みする(前夜も酒を飲んでいるのだが)といった傍若無人の振舞いをするのだが、おそらくそれは繊細さの裏返しの磊落さだったにちがいない。
 富士正晴については、大川公一の伝記『竹林の隠者 富士正晴の生涯』(影書房)のほか、山田稔『富士さんとわたし 手紙を読む』、島京子『竹林童子失せにけり』、古賀光『富士さんの置土産』(いずれも編集工房ノア)といった本がその人となりを伝えているが、詩人の天野忠の「内面はこまやかでデリケート、そして大胆不敵。ものおじせず、愛敬のある野放図というか、野性味が円熟していた」(『竹林の隠者 富士正晴の生涯』)という人物評が肯綮にあたっているように思われる。もうひとつ、松田道雄京都新聞に書いた追悼文の「冠婚葬祭をふくめて日本のムラ共同体にあるべたべたしたものを一切拒絶していた」「まれにみる近代的知性の持ち主」(同)も出色の人物評だろう。
 山田さんの「富士正晴という生き方」に戻れば、「私が富士正晴を読み直すとき思い浮かぶのは、流れのなかに残る一本の杭の姿であり、孤立をおそれず自立につとめよと説く声です」という言葉に感銘を受けた。松田道雄の人物評とも響きあっていよう。
 大阪茨木市富士正晴記念館が「富士正晴資料」を精力的に刊行しつづけている。その「整理報告書第20集」の『仮想VIKING50号記念祝賀講演会に於ける演説』(「VIKING」50〜56号に連載された富士正晴の単行本未収録エッセイ、2015年2月刊)と、那覇市で刊行されている季刊誌「脈」84号(2015年5月刊)に掲載された中尾務「島尾敏雄富士正晴 一九四七−一九五〇」(かつて「サンパン」に連載されたものに加筆)が読みごたえがあった。


戦争は懐かしい――玉居子精宏『戦争小説家 古山高麗雄伝』を読む



 戦後70年といわれて、いまの若い人はどのような感想をもつのだろうか。二十歳の若者にとって、昭和20年は生れる50年前になる。わたしは昭和26年、1951年の生れだから50年前といえば1901年。日露戦争の始まる3年前になる。ロシアは革命の前、帝政時代である。いまの若者にとって日本の敗戦とは、そういう遠い遠い歴史上の出来事なのだろう。
 わたしの幼少期にはまだ戦争のにおいがそこかしこに漂っていた。学校へ戦争絵葉書を持ってくる子供がいた。町では白衣を着た傷痍軍人アコーディオンを弾いて物乞いをしていた。そうした戦争のにおいはやがて急速に薄れていった。
 一兵卒として体験した戦争を生涯書き続けた小説家古山高麗雄がこういう言葉を残している。


 「もちろん、戦争は懐かしい。当然である。戦争経験は、私の過去の中の重いものであって、楽しくない追憶が多いが、自分の過去の重いものが、懐かしくないわけがない。」


 古山高麗雄は大正9(1920)年に生れ、昭和17年、二十二歳で入隊し、東南アジア、いわゆる南方戦線に送られた。大正5年生れのわたしの父は、日中戦争で中国戦線へ、そして太平洋戦争で南方へ出征し、九死に一生を得て帰国した。寡黙な人だったが、戦争の話になると重い口をひらいたという。懐かしかったのだろうと思う。わたしは父から戦争の話を聞いた覚えがない。
 一度父が上京した折にわたしのアパートに泊ったことがある。靖国神社に行きたいというので案内した。大鳥居の前で父と別れ、わたしは喫茶店かどこかで時間をつぶして戻ってくるのを待った。若かったわたしは靖国神社に足を踏み入れることを頑なに拒んでいたのである。いっしょに行けばよかったとずっと後年になってから思った。淡い悔いの気持が尾を引いた。
 戦争は懐かしい――。
 玉居子精宏『戦争小説家 古山高麗雄伝』(平凡社)のなかの、そのことばで父のことをおもった。


 古山高麗雄にとって戦争体験は『トニオ・クレーゲル』のいう「何か監獄の類」であったのだろう*1安岡章太郎ら「悪い仲間」とやっていた回覧誌に彼は短篇小説を寄せている。旧制高校に通う男が下宿先の奥さんに性的な妄想を抱くといった、当時の自らの境遇をカリカチュアライズした小説だったようだ。「三枚目の幸福」と題されたその小説は、それからおよそ30年後に発表される処女作(と自認する)「墓地で」と、どこか「根本」において相通ずるところがあると自身が語っているけれども、彼が小説家となるにはその間に「何か監獄の類」が必要だったにちがいない。トニオがリザヴェータに語ったことばをもじっていえば、「自分の一兵卒としての経験が書くものすべての根本主題になっているんです。だから大胆に言ってみればこうじゃありますまいか。小説家になるためには何か監獄みたいなものの事情に通じている必要がある」と。
 そして、さらにトニオのことばに従って敷衍するならば、古山を小説家ならしめたのはじつは「戦争体験」そのものではなく、戦争体験を通して得た「誠実で健全で尋常な人間」たりえないという自覚なのである。以前、大西巨人の『神聖喜劇』にふれて書いたように、詩人や芸術家になるにはある種の「獄中体験」のようなものが必要であり、さらにいえば彼をしてそういうところへ追いやったものが「作家精神の根底や源に密接な関係を持っている」のである。そして、表現者というものは「誠実で健全で尋常な人間」もしくはそうした人間たちの営む社会・人生につよく惹かれつつ、いっぽうでそれを唾棄するというアンビヴァレンスのなかに生きている、というのがトニオの(おそらくはトーマス・マンの)、そして東堂太郎の(おそらくは大西巨人の)抱懐するイデーなのである。
 古山もまた、応召して戦場へおもむく前、明晰な頭脳をもちながらあるいはそれゆえに、成績劣等で落第した三高を自ら退学し、東京に舞い戻ってフーテン生活をするといった「青春放浪の戦場」*2にあった。「誠実で健全で尋常な人間」であることを愧じる性行は、実際の戦場へ従軍する前に幼いながらもすでに身につけていたのである。
 古山は初めて書いた小説を振り返ったエッセイ「三枚目の幸福」でこう書いている。


 「いずれにしても戦争が、私から何かを奪い、何かを与えた事件であり環境であったからには、振り返ってみないではいられません。(略)それが戦争でなくてほかのものであっても同じことですが、私の場合、まず、なんといっても戦争ぐらい、ドジの自覚を決定的に自分に押しつけたものは、ほかにはないのではないかという思いがあったのです。
 その自覚は、人をペシミスティックにし、去勢します。そして小説とは、その去勢を恢復する作業かも知れないと考えたことがありますが、いずれにしても、御大層なものではありません。小説とは、小さな生きものたちのささやかな談話に過ぎない、しかしだから心なごむものになりうる。そういったことで“恢復”を考えているのです。」*3


 「ドジの自覚」とは、古山にいわせれば、「人はみな、何かによって、いつ、どこでドジを踏まされてしまうかわかったものではない」という、いわば人生訓のようなものである。ドジを踏むのは「三枚目」ばかりではない。「実人生には、美男や成功者や艶福者はいても、ドジを踏む要素は押しなべて誰にでもある」のである。古山がそう気づくのに戦争体験を含む30年という時間が必要だったといえば、ひとは呆れるだろうか。
 だがそれを柄谷行人のいう「自己欺瞞に対しては苛酷なほどに働くような自意識」であると言い換えれば、ことはそれほど簡単ではない。自分を「誠実で健全で尋常な人間」だなどと間違っても思ってはならない。その仮借のなさがはたらくのは「自分自身に対してだけであって、それは他者に対してはマザーシップとしてあらわれ、けっして勇ましい正義の告発というかたちをとらないのである」(柄谷行人「自己放棄のかたち」*4)。
 そうした「ドジの自覚」は「戦争を扱った小説」であろうと「市井の話を扱った小説」であろうと選ぶところはない。「人が小さな、ぶざまな生きものである」ことを、たった一つのことを、古山高麗雄は生涯をかけて歌い続けたのである。
 『戦争小説家 古山高麗雄伝』では、心臓に持病を抱えながら、生れ故郷の北朝鮮新義州を一目みるために苦心する、その鬼気迫る執念――短篇「七ヶ宿村」で老妻に「あなたは、死ぬまで、戦争や新義州から離れられないのね」といわせた――に打たれた。戦争は懐かしい。それは古山高麗雄にとっては生れ故郷と同義であったのかもしれない。



戦争小説家 古山高麗雄伝

戦争小説家 古山高麗雄伝

*1:id:qfwfq:20140614

*2:勝又浩「愛と鎮魂――未復員兵の戦後」、『プレオー8の夜明け 古山高麗雄作品選』講談社文芸文庫、2001

*3:新鋭作家叢書『古山高麗雄集』所収、河出書房新社、1972

*4:新鋭作家叢書『古山高麗雄集』解説