猥褻鳥


 目をこらしてみたが、鳥の姿を認めることはできなかった。鳴き声だけだ。いつものように。とにかくこのようにして世界の一日分のねじが巻かれるのだ。
                    ――村上春樹ねじまき鳥クロニクル
                     
                                 
  1
その鳥の存在に最初に気づいたのが誰だったのかいまではさだかでない。それは一種の都市伝説のように人の口から口へと伝わっていった。というのはしかし確かではない。口から口へでなくツイッターフェイスブックといったソーシャルメディアでつぶやかれ瞬く間に拡散したといったほうがより事態の推移を正確に伝えているだろう。ツイッターにおけるごく初期のつぶやきによればその声は――当初は「声」と表現されていた――東京近郊で耳にされたという。ある寝苦しい盛夏の明け方どこからともなく聞えてきたその声を耳にしたある集合住宅の住人は隣に住む二十代後半と思われる人妻の発した声かと思った。だがそれにしては声が明瞭に過ぎはしまいか。本来ならばもう少しくぐもった声であるはずだが明らかに開放的といってよい発生法とオペラのアリアにも比すべきゆたかな声量が訝しい。しかもそれは隣の部屋というよりむしろ窓の外から聞えてくるような気がする。しばらく耳をすませていた住人は――言い忘れたが住人は都内の私立大学に籍を置く二十代前半の男であるとされている――隣の部屋を慮りながら窓をそっと開けた。窓外には鬱蒼と繁る樹林が薄明のなかに遠望されどうやら声はそのあたりから発して木々によって増幅されて聞えてきたものらしい。不可思議な現象にしばらく耳をかたむけていたがやがて声は次第に途絶えて聞えなくなったという。これはむろんツイッターのつぶやきそのものではなくそれが幾たびもリツイートされそこに尾鰭が加わって出来上がった一種の物語である。ある者によれば発祥は東京都下の多摩地区だという。またある者によればそれは多摩地区ではなく埼玉であり別の者によれば茨城だとされている。それが伝聞の不確かさによるものなのかあるいはほぼ時を同じくして幾つかの場所でその声が確認されたものなのかいまとなっては断定することはできない。いずれにせよそれはインターネットによって一気に津々浦々に広がった。どこからともなくその声が聞えてきたというだけなら一過性の話題として速やかに忘れ去られたにちがいない。それが国内はおろか海外にまで波及するほどの広がりを見せるとは……いや、先走るのは慎もう。ツイッター上のつぶやきが増幅されて広がってゆくティッピングポイントはもう一つのつぶやきの出現に求められよう。最初のつぶやきをめぐる応答がひとしきり賑わいを見せやがて収束するかと思われたころ新たな証言――いまでは第二の発見者と呼ばれている――が出現した。当の人物は東京郊外に住む三十代の男性システムエンジニアとされているが(多摩地区に居住するのは彼であるとする説を唱える者もいる)彼もまた明け方どこからともなく聞えてくる声を耳にしてあるいはこれがSNSで話題となった例の声かと思いすぐにベランダの窓を開けたという。システムエンジニアの居住するマンションから至近距離にある公園の樹木からその声は聞えてきた。梢が枝葉をふるわせながらすすり泣いているようでしばらく耳を傾けていると梢のあいだから一羽の鳥が飛び立って朝ぼらけのなかを空のかなたへ消えてゆきそれとともに声も途絶えたと彼はツイートしている。その鳥と件の声との関連についてシステムエンジニアは断定を憚ったがこの第二の発見者の証言は事態を煽り立てるに充分の効果を上げた。彼はツイッターでつぶやくとともにある動画共有サイトに動画を投稿した。スマートフォンによって咄嗟に録画されたというその動画には妙なる声を発する樹木と空のかなたに羽搏いてゆく一羽の鳥がたしかに映し出されていたからである。サイトに動画が投稿された数時間後にはアクセス数はたちまち四桁に達しツイッターフェイスブックへの投稿がそれに拍車をかけた。映像から判断するに件の声はこの鳥の鳴き声にほかならない。どこかのうちに飼われていた九官鳥かインコが逃げ出したのにちがいない。そうしたつぶやきがインターネット上に溢れるなか事態はさらに大きく展開する。鳥たちの映像が堰を切ったように動画サイトに次々とアップロードされたのである。


  2
東京郊外といわず全国各地から投稿された鳥たちの映像が動画サイトに溢れ海外からの投稿もなかには数件雑じっていた。ここで急いで付け加えておかねばならないのは当初九官鳥もしくはインコかと推測されたのはその特徴的な鳴き声に原因があり人々の関心がこれほどまでに昂まることになったのもまたその鳴き声が最大の要因にほかならないということである。二十代後半の人妻の発した声かと思ったと第一発見者がツイッターでつぶやいたごとくそれは閨房における媾合の際の女性の喘ぎ声に酷似した鳴き声であった。鳴き声には幾つかのヴァリエーションが認められた。「あっはーん うふん いやん」と悩まし気に鳴く声。「いやんいやんいやん」と身悶えするように鳴く声。ひときわ高く「あっあっあっ」と断続的に感極まったように鳴く声。個体によって鳴き方が異なる場合もあれば同一個体が複数の鳴き方を奏でる場合もあった。押し殺した声で溜息のように「ああ うう はあ」と繰り返す鳥もいれば「いやいやいやっ」と咽び泣くような声が次第に「いい いい いい」と甘やかな声に変化しついに「あっあっあっ」と高まって果てる高度な変奏を披露する鳥もいた。最初の投稿から旬日を経ずして動画サイトのアクセス数は百万回に達した。各メディアもさすがにこの事態を無視もしくは傍観し続けるわけにもゆかず最初は新聞がインターネット上に現れた未確認飛行物体とそれが巻き起した事態について鳴き声にふれることなくささやかな報道を行なった。ついでテレビがニュース番組で取り上げてネット上の動画を引用しつつその特徴的な鳴き声に関心が集まっているとキャスターがコメントしたが肝腎の鳴き声にピー音がかぶせられていたために意味不明の報道となり多数の苦情が視聴者から寄せられることとなった。インターネットから発した鳥をめぐる狂騒は日に日に昂まってゆくかに見えたが押っ取り刀で取り上げた週刊誌の記事によってこの騒動はあっけない終焉を迎えた。鳥かどうかさえ識別のつかないぼやけた映像は論外としても識別可能な個体のすべては世界各地に生息する鳥たち――ヒバリ、ミソサザイムクドリ、ウタツグミ、アカゲラ、ムネアカヒワ、カラフトムシクイ、エトセトラエトセトラ――でありどだいこのような鳴き声をたてる鳥など世界中を見渡しても存在しない。おおかた鳥の映像とアダルトビデオの音声とをコラージュしたトリコラで世間を騒がせて喜ぶ愉快犯の仕業だろう。鳥類学者が厳かにそう断言したからである。こうして幻の鳥をめぐる騒動は一件落着したかに見えたが事態は思いがけない方向へと展開する。


  3
その年の夏は例年に増して猛暑の日が続いた。都心でも連日体温を上回る気温が観測され東京近郊では摂氏四〇度を超える高温が幾度も記録された。人は天変地異の起こる前触れではないかと噂し合いそれに呼応するかのごとく列島各地で大小の地震が頻発し南国では火山が噴火して市中を灰色に染めた。そして立て続けに襲った颱風による豪雨が一切合財を洗い流して列島に秋色が訪れたころ次第に色づき始めた武蔵野台地の樹林にあの声が戻ってきた。俗に三多摩と呼ばれる関東平野の西域には住宅地に隣接して鬱蒼と繁る雑木林が其処彼処に点在してかつての武蔵野の面影を残している。そうした雑木林の一つがある日の明け方もの思わし気な歔欷の声を洩らし夜がしらじらと明けるころにはその声はぴたっと鳴き止んだ。それからというもの声はたちまち近隣の樹林に伝播して武蔵野台地の木という木が一斉に悩ましげな声を発し始めた。もはや誰かの作為的な悪戯とも思われず鳴き声を発する樹木が存在するのでなければ鳥もしくは鳥に類する生物の発するさえずりの一種といわねばならないと鳥類学者が新聞でコメントを述べた。バードウォッチャーたちが双眼鏡や望遠鏡を駆使して観測したが鳥の姿は枝葉に紛れて一向に確認できなかった。インターネットの動画サイトに連日投稿されたすすり泣く樹林の映像には木を見て鳥を見ずとコメントが書き込まれた。やがて小学生たちのあいだに鳥の鳴き声の真似が流行し始めた。ランドセルを背負った児童たちが登下校の際に声をそろえて「あっはーん うっふーん」と唱和する声がいたるところで聞こえ見かねた大人たちの苦情が役所や市町村の教育委員会さらには新聞の投書欄や政党の市議団事務所に殺到した。なりゆきを静観していた某テレビ局のワイドショーがおそるおそる取り上げると視聴率が一挙に二倍に跳ね上がり各局もそれに追随して事態に拍車をかけた。深夜の討論番組では各界の識者たちが侃々諤々の議論を繰り広げた。児童に悪影響を及ぼす害鳥は即刻駆除してもらいたいと教育評論家が発言するとヒバリやウグイスの鳴き声はよくてこの鳥の鳴き声は悪いというのは人間中心主義的思考でありいまだかつて鳴き声によって害鳥とされた鳥は存在しないと動物保護団体のメンバーが反論して駆除には断固反対すると表明した。海外の学術団体やメディアも日本に突如出現した幻の鳥に大きな関心を示した。英国王立鳥類保護協会はこの鳥を数羽捕獲して生きたまま英国へ送るよう日本政府に申し入れ(可能なら雌雄ひと番いに加え鳴き声のヴァリエーション数に相当する個体数を希望すると付け加えた)ニューヨークのある雑誌はこのunidentified mysterious flying creature(未確認飛行生物)をThe obscene bird(猥褻鳥)と名づけGODZILLAを引合いに出して原発事故による突然変異の可能性を示唆した。幻の鳥を一目見ようと近隣諸国の観光客がツァーを組んでぞろぞろ押しかけたが姿を見ることはかなわず鳥を図案化したTシャツを爆買いして帰っていった。鳥たちは東京近郊から徐々に都心へ向かって行動範囲を広げてゆくかのように思われた。新宿御苑明治神宮外苑や日比谷公園の樹林で次々と鳴き声が確認された。インターネット上では鳥たちの次なるターゲットが取り沙汰され鳥たちは皇居をめざすと書き込む者が現われた。吹上御苑で鳥たちが一斉に乱交のごとく卑猥な鳴き声で高らかにさえずる光景を想像した者たちは恐れおののいた。彼らはかくなる事態は断固阻止せねばならぬと息巻いて丸の内のオフィスビル街を街宣車で行進し大音量のスピーカーで鳥の即時撲滅を訴えた。事態の沈静化を図ろうとした環境省が捕獲に乗り出すと発表したがいかなる手段で捕獲するかについては識者による委員会の設置を待って検討すると述べるにとどまった。千鳥ヶ淵から国会議事堂さらに桜田門の周辺はにわかに騒然とし始めた。街宣車に乗った迷彩服を着た男たちと鳥を護れと大書したプラカードを掲げた動物保護団体や一般市民さらには鳥は天から遣わされた愛の象徴であると唱える宗教団体のデモ隊らが入り乱れて国会前で小競り合いを繰り広げた。街宣車から降り立った男が壇上に立ちこのようなおぞましい生き物を不法侵入させぬよう皇居の周囲に高い壁を築けと叫んだ。日を追ってデモンストレーションに加わる人々の数は膨れ上がり国会周辺はいまや一触即発の危機を孕むかの様相を呈した。 


  4
あの日を境に鳥の鳴き声がぱったりと途絶えた理由についてはSNSで様々な憶測が乱れ飛んだ。あの日の明け方たしかに銃声を聞いたと誰かがツイートした。それに呼応して「猥褻鳥は私だ」というツイートが書き込まれリツイートは数万件にのぼった。撃たれた鳥が最後に「いくっ」と一声高く鳴いたというツイートが一瞬に拡散してネット上を駆け巡った。鳥を追悼する数万人の市民たちのデモ行進が皇居を取り巻いたが狂躁の日々が過ぎると日本国中をあれほど騒然とさせた出来事もやがて何事もなかったかのように忘れ去られ鳥の話題が人々の口の端にのぼることもいつやら絶えて久しくなった。…………私は書きかけのパソコンを閉じて立ち上がり背伸びをした。夜が明けようとしていた。どこからか「いやいやいやっ」と忍び泣くような声が聞えたような気がした。窓を開けるとうっすらと朝靄の立ち込めた薄明のなかに樹林が見えた。目をこらしてみたが鳥の姿を認めることはできなかった。
                                (11月29日脱稿)



蜻蛉釣り今日は何処まで行ったやら


O様
 台風の影響でしょうか、今日は朝から雨が降りしきっています。いつものように、向かいの樹林を眺めていたら、あ、鷺が! 

 雨の降る日に時折り姿を見せます。今朝は畑に着地して、なにやら思案気の風情。さて、どうしようかと考えているのでしょうか。しばらくすると、木蔭に向かってとことこと歩いてゆき、そのうちに姿が見えなくなりました。


 珈琲を淹れて朝刊をひろげると、「天声人語」にこういう文がありました。


 「俳優であり俳人でもあった渥美清さんに次の句がある。〈赤とんぼじっとしたまま明日どうする〉。詠んだのは63歳の秋。」


 天声人語子はつづけてこう書いています。
 「じっと動かないトンボに四角い顔を寄せ、何ごとかつぶやく名優の姿が目に浮かぶ」
 そうでしょうか。
 わたしの解釈は、すこし違います。夜も更けて、しんとした静寂のなか、彼は孤り、思いをめぐらせています。さて、明日はどうしようか。明日とは、明後日もしあさってもふくむ不定の未来であるのかもしれません。
 そんなとき、ふと生垣にとまった赤とんぼが脳裏に浮びます。羽根をやすめているのか、それともこれからどうしようかと考えているのか。
 「ざまあねえ、おれもまるで赤とんぼだね」
 ふっと自嘲の笑みが彼の口元に浮びます。


 「天声人語」は、渥美さんの句を枕に、長崎県絶滅危惧種に指定された赤とんぼ、深山茜(ミヤマアカネ)の話題に移ります。佐世保市の環境団体の会長によれば、休耕田が増えて苗にまく農薬が変ったのが急減の原因とのこと。繁殖に適した環境は「水がちょろちょろと流れ出る棚田」ということで、農家から棚田を借りて稲を育てた。それでも四年前に比べると、生息数は半数以下に減っている。棚田をやめると、絶滅に近づく。「責任は重大です」と会長は語る。
 そして、この文章はこう結ばれます。


 「間近で見るとミヤマアカネはなかなか精悍である。お尻を太陽に向けてまっすぐ突き上げる姿など五輪の体操選手のようだ。実りの9月、棚田を歩きながらトンボと田んぼの行く末を案じた」
 

 深山茜の画像をネットで検索してみました。ぴんと伸ばしたお尻(?)を天にむかって突き上げた姿は、たしかに体操選手を思わせなくもありません。それもさることながら、筆者が体操選手を引合いに出したのは、それ以上に「トンボと田んぼ」の語呂合せの「着地」を自讃したかったからかもしれません。
 数日前、わが家のベランダにもとんぼが一匹飛んできました。ああ、もう秋か、と月並みな感想を抱いたものです。
 夕暮れ時の田舎の畦道では、いまも子供の頃のように赤とんぼが群れをなして飛んでいるのでしょうか。

異邦の薫り――くぼたのぞみ『鏡のなかのボードレール』を読む



 もう随分まえのことになるけれども、クッツェーの『恥辱』という小説についてここでふれたことがある*1。いい小説だと思い、いくつかの場面についてはいまも印象につよく残っている。だが、最近読んだある本によって、わたしは自分の無知を思い知らされることになった。無知については言うも更なりだけれど、いい小説だと思ったわりには全然この小説を読めてないじゃないか、といささか暗然とするところがあった。
 わたしはこの小説の主人公についてこう書いている。「二度の離婚歴があり、現在はシングル。ナンパしたり娼婦を買ったりの日々を送っている」。そして、「彼、ラウリーはちょっとした気紛れで女子学生のひとりと関係を持つ」と。女子学生メラニーとの交際が発覚して主人公は大学を辞めることになるのだから、このエピソードはプロット上の大きな意味をもつ。しかし、それに優るとも劣らぬほど重要な意味が冒頭の「娼婦を買ったりの日々」にあることを、くぼたのぞみ『鏡のなかのボードレール』(共和国、2016年6月刊)*2、とりわけ第9章の「J・M・クッツェーのたくらみ、他者という眼差し」という文章によって教えられた。
 

 小説の冒頭、主人公は娼館へおもむき、馴染みの女性ソラヤと性交する。その第二パラグラフの最後にこう書かれている。「ソラヤの顧客になってゆうに一年。彼女には満足しきっている。砂漠のような一週間が、木曜は豪奢で悦楽に満ちたオアシスとなったのだから」(くぼたのぞみ訳)。この「豪奢で悦楽に満ちた」に「ルュクス・エ・ヴォリュプテ」とルビが振られているが、原文は「luxe et volupté」、フランス語のイタリック体になっている(小説は英語で書かれている)。わたしの読んだ鴻巣友季子訳『恥辱』は、「贅と歓びの」でルビも強調もない。
 くぼたは最初に原著を読んだときは「勢いにまかせて」読んだために、そのフランス語の三語をとくに意識しなかった、だが、オクスフォード大学のピーター・マクドナルドがクッツェーについて学生に講義をする動画を見ていて「はたと気づいた」という。このマクドナルドの講義というのも、きわめて興味深いものだ。小説の冒頭の一文「五十二歳という年齢、離婚歴のある男にしては、セックスの問題はかなり上手く解決してきたつもりだ」について、マクドナルドはセックスを「解決しなければならない問題」(solved the problem of sex)とすることに焦点を当て、「このようなデカルト的合理主義に疑問を投じ、主人公の「解決法」が作中で崩壊し、どのような災厄を招いていくかを指摘していく」という。刺戟的な読解だ。こういう講義を受けられる学生がうらやましい。
 さて、クッツェーがイタリック体で示した「luxe et volupté」、くぼたによれば、これはボードレールの『悪の華』の有名な詩「旅への誘い」に出てくる「luxe, calme et volupté」の引用(「クッツェーがよく使う、原テクストを少し違えた「誤引用」」)だという。「豪奢で、静謐で、悦楽に満ちて」。クッツェーはなぜここでボードレールを引用したのだろうか。しかも、読者にそれと知らせるようなほのめかしとして。


 ソラヤの所属するエスコート・クラブは、ケープタウンの中心から少し離れたグリーン・ポイントにある。ここは「アパルトヘイト時代は背徳法に反するカラーラインを跨ぐ売買春が行なわれていたことで悪名高い。人種別に居住区を定めた集団地域法に反して多人種が混じって住んできた地域でもある」(くぼた)という。主人公が街中で二人の子どもを連れたソラヤと出遭ったのを機に、彼女は彼の前から姿を消す。彼がエスコート・クラブに電話をすると、ソラヤは辞めた、なんなら別の女性を紹介しよう、と電話に出た男はいう。「エキゾチックなタイプは選り取りみどりです。マレーシア、タイ、中国、お好みをどうぞ」(鴻巣訳)。ソラヤもまた「陽に焼けた痕跡のない」「蜂蜜色をした褐色の肢体」をもつ「ムスリム」の女性だった*3。 
 「褐色の肢体」をもつ女性との「豪奢で、静謐で、悦楽に満ち」た時間――。
 ボードレールの『悪の華』には特別に「ジャンヌ・デュヴァル詩篇」と呼ばれる数篇の詩がある。初版で十六篇、第二版で十八篇。ボードレールのミューズともいうべき、カリブ海出身の黒人と白人の混血女性ジャンヌ・デュヴァルにインスパイアされた詩篇である。くぼたのぞみはこう書いている。


 「ボードレールの「旅への誘い」に出てくる三つのフランス語「luxe et volupté(豪奢で悦楽に満ちた)」をわざわざイタリックで示しながら、クッツェーは一九世紀半ばのヨーロッパ系白人男性の異国情緒と絡めた女性への憧れや性的欲望をこの『恥辱』のなかに描き込んだ。二〇世紀も終盤のケープタウンで人種主義のシステムが崩壊した社会に生きる、これまで特権的地位にあったことをさほど疑問にも思わなかった五十二歳の白人男性の悦楽のあり方として刻み込んだのだ。」


 たしかに、くぼたのぞみの言うように「日本語読者の多くは(略)南アフリカの複雑な人種構成や歴史事情を思い描くこともないだろう」し、「背景がわからなくても、作者の深い意図まで読み取らなくても、小説は面白く読める」にちがいない。「グリーン・ポイント」という地名にも、わたしをふくめて大方はなんの感興も催さないだろう。だが、クッツェーが(周到に)冒頭に置いた主人公とソラヤとのエピソードをうっかり読み飛ばしてしまうと、この小説を表面だけで理解したつもりになりかねない。面白く読んだけれども、じつは本当には読めていなかったのじゃないかと思ったのは、このくぼたのぞみの指摘によってである。
 くぼたは「ホッテントット・ヴィーナス」の名で知られるサラ・バートマン――ケープタウンからイギリスへ見せ物として連れ出された有色人女性――の最初の「所有者」デイヴィッド・フーリー David Fourie の名と『恥辱』の主人公デイヴィッド・ルーリー David Lurieとの関連を指摘し、「作家は当初、頭文字だけ変えてLourie としたが、アフリカーンス語ではルーリーと読んでも、英語圏ではスコットランドアイルランド系になりラウリーと発音されるかもしれない、と一文字削ったのではないかと推察される」と書いている。邦訳では「ラウリー」となっている。
 そしてさらに、ハベバ・バデルーンの『眼差すムスリム――奴隷制からポストアパルトヘイトへ』(2014、未訳*4)の第四章「ケープ植民地における性をめぐる地理学――『恥辱』」における、冒頭部分に関する犀利な分析を紹介する。バデルーンは自身ムスリムクッツェーの教え子でもある。ほんの一部分の紹介を読んでも、この本がポストコロニアルスタディーズの最良の成果であることはよくわかる。すでに充分長くなったので、関心のある方は直接同書もしくは『鏡のなかのボードレール』をお読みいただきたい。


 くぼたのぞみは書いている。「ソラヤとは誰かを考えることは、クッツェーがこの作品の冒頭にあえてソラヤを置いたことの意味を考えることでもあるだろう」と。わたしはこの『鏡のなかのボードレール』で己の迂闊さを知らされ、あわてて『恥辱』の冒頭を再読した。なるほど、初読のさいは気にせずに読み飛ばしていたのだが、そういう目で見るといくつか気になる箇所も目につく。一例をあげれば、主人公がソラヤとの交わりを自問する、自由関節話法で書かれているところ。
「セックス面は、烈しくあっても情熱的ではない。わが身の象徴としてトーテム像を選ぶとしたら、蛇だろう。ソラヤとの交わりは、思うに、蛇の交尾さながらにちがいない。事は長々しく、一心不乱だが、絶頂の瞬間にも、どこか観念的でむしろ乾いている。/ソラヤのトーテムもまた蛇だろうか?」(鴻巣訳)
 これは当然『悪の華』の一篇「踊る蛇」(第二版28)を念頭に置いているのだろう。


 「私の目の楽しみは、物憂げな恋人よ、/そんなにも美しいきみの体が、/ゆらゆらとそよぐ布地のように、/肌をきらめかすさま!/(略)/身はなげやりに美しく、拍子をとって/きみの歩むさまをみれば/棒の穂先にくねくねと/踊る蛇にもたとえようか。」(阿部良雄訳)


 韋編三たび絶つ。繰り返し読まねば本は読んだことにならないとあらためて銘肝した。


鏡のなかのボードレール (境界の文学)

鏡のなかのボードレール (境界の文学)

*1:id:qfwfq:20120414

*2:宗利淳一の装本がみごと!

*3:女子学生メラニーもまた有色人女性である。「この作品では白人男性の欲望が、もっぱら有色の女性に向かっていくことが明示されているのだ」(くぼた)。

*4:Gabeba Baderoon: Regarding Muslims―from slavery to post-apartheid, Wits University Press, 2014 「南アフリカの歴史のなかでもっとも見えにくい存在であったムスリムについて論じる好著」(くぼた)とのこと。翻訳が待たれる。

ゲイブリエルとグレタを乗せた馬車がオコンネル橋を渡る



 昨日16日、ブルームズデイにちなんでジョン・ヒューストンの『ザ・デッド』を観た。以前BSで放映されたものの録画で、二度目か三度目かの再見になる。見直して新たに気づいたことなどについて二、三書いてみよう。
 ストーリーは簡素だ。二人の老嬢姉妹ケイトとジューリアそれに姪のメアリーの三人が例年催す舞踏会に招かれた縁戚の者や知人たちのダンス、ディナー、会話。そして宴の果てた後の一組の夫婦の、妻の回想をめぐるささやかな諍い。ヒューストンはジョイスの小説を、幾つかの科白をふくめてほぼ忠実に映画化しているといっていい。
 原作にヒューストン(シナリオは息子のトニーが担当し、オスカーにノミネートされた)が付け加えた場面は幾つかある。その一つ、酔っぱらいのフレディがいつものように遅れてやってきて、先に来ていた母親に問いただされる。「委員会の会合があって」とかなんとかしどろもどろに言い訳するフレディに、母は「会合? どこでかね。マリガンのパブでかい?」と皮肉を言う。観客をにやっとさせる『ユリシーズ』へのアリュージョンである。
 大きな改変は、メアリーのピアノ演奏が終わった後に、グレイスが詩を長々と朗読する場面が挿入されることで、これは原作にないエピソードである。朗読するのは、Lady Augusta GregoryのDonal Og。「レディ・グレゴリーがアイルランド語から翻訳したBroken Vowという詩である」とグレイスは朗読の後に注釈をつける。元はアイルランドに伝わるバラードで、グレゴリー女史はアイルランドに伝わる民話、伝説、バラードを英語に翻訳してアイルランド文芸復興に寄与した人。W.B.イエーツととともにアビー・シアターを設立し、多くの芝居を執筆した*1
 グレイスの朗誦が終わると、居並ぶ老若男女は、初めて聴いたこの詩への称賛を口々に唱える。「バラードにするといいね」という人までいる始末。ヒューストンはなぜこの場面を付け加えたのだろうか。おそらく当時のダブリンの独立運動アイルランド人のアイデンティティ、といった背景への言及だろうが、当時の歴史的状況に疎いので確かではない(民族主義者のアイヴァーズ嬢にゲイブリエルがからまれる場面が小説にも映画にも登場する*2)。
 そしてもう一つ。ジューリアがベッリーニの歌曲「婚礼のために装いて」を朗唱する場面で、カメラは階段をゆるやかに上り、二階の室内に入ってテーブルの上の蝋燭立て、小さな民族人形、写真立ての肖像写真などの事物を次々に映し出す。そして一枚のタペストリーに縫い取られた文字――Alexander Popeの詩句に焦点を合わす。二人の老嬢のいずれかの持物だろう。あるいはそれは親の代から伝わってきたものであるのかもしれない(ポープの引用の意図はさまざまに解釈できるだろう)。


 Teach me to feel another’s woe,
 to hide the fault i see,
 that mercy i to others show,
 that mercy show to me.


 ゲイブリエルとグレタを乗せた馬車がオコンネル橋を渡る。深い闇の中にいくつものガス灯の明かりが靄に滲み、川面に照り映えている。静謐で譬えようもなく美しい場面。そしてグレシャムホテルに着いた二人は部屋に落ち着くが、グレタはなにかに憑かれたように物思いに耽っている。


 ――グレッタ、ねえ、なにを考えてるんだい?
  返事もなく、腕に身をまかせるでもない。もう一度、やんわり言った。
 ――言ってごらんよ、グレッタ。どうかしたんだろ。違うかい?
  彼女はすぐには答えなかった。それからわっと泣き出して言った。
 ――ああ、あの歌のこと考えてるの、オーグリムの乙女のこと。
  彼女は身をふりほどいてベッドへ駆け寄り、ベッドの柵上へ腕を十字に投げ出して顔をうずめた。
         (柳瀬尚紀訳「死せるものたち」、新潮文庫『ダブリナーズ』所収)


 「オーグリムの乙女」は舞踏会の最後にダーシーの歌った歌である。グレタは階段の上に立ち尽し、部屋の中から聞こえる歌声に耳を傾けていた。それは、若き日のある青年との永遠の訣れを思い出させる歌だった。
 ジョイスはグレタが「わっと泣き出し」たと書いているが、ヒューストンはそうは描かない。グレタは哀しみに耐えている。肺病で死んだ青年マイケルとの思い出を語るうちに感情が激してくる。そしてベッドにからだを投げ出して嗚咽するのである。感情の機微についてはジョイスよりもヒューストンに一日の長がある。The Deadを書いたとき、ジョイスは25歳だった。80歳を過ぎたヒューストンが若きジョイスに「ほら、このほうがいいだろ?」とウィンクしているようである。
 ちなみに、しんしんと降る雪の場面を観ていて、わたしはある小説の雪の情景を幾度も思い出していた。その小説、アン・ビーティのIn the White Nightにも、ある雪の降る夜、パーティがお開きになったあとの一組の夫婦の小さな諍いが描かれていた。ずいぶん昔読んだ小説なので確かではないけれど。ビーティもあの小説を書くときにThe Deadが頭にあったのだろうか。


追記(6.18)
In the White Night を探し出して再読した。「小さな諍い」ではなかった。愛する者を失った哀しみがいまなお生々しく現前するというところに共通するものがあった。その哀しみを浄化するかのように雪が降りしきるという情景においても。


ダブリナーズ (新潮文庫)

ダブリナーズ (新潮文庫)

*1:https://www.theguardian.com/books/booksblog/2010/apr/19/poem-of-the-week-lady-augusta-gregory

*2:結城英雄は訳書『ダブリンの市民』(岩波文庫)の解題で、ヒューストンは「ポスト・コロニアルの視点で映画化したが、ミス・アイヴァーズを中心に据え、見事である」と記している。

緑色をした気の触れた夏のできごと――村上春樹訳『結婚式のメンバー』



 以前書いた「MONKEY」の村上春樹柴田元幸対談「帰れ、あの翻訳」*1で予告されていた「村上春樹柴田元幸 新訳・復刊セレクション」が「村上柴田翻訳堂」として刊行され始めた。第1回の配本がカーソン・マッカラーズ『結婚式のメンバー』(村上訳)とウィリアム・サローヤン『僕の名はアラム』(柴田訳)。今月2回目の配本は、フィリップ・ロス『素晴らしいアメリカ野球』とトマス・ハーディ『呪われた腕 ハーディ傑作選』の2冊。前者は集英社文庫、後者は新潮文庫(『ハーディ短編集』)を復刊したもの。
 『僕の名はアラム』は、短篇のそれぞれにドン・フリーマンの挿絵がついていて、原著を踏襲したものだろう、素朴で味わいのある雰囲気を醸している。ここでは『結婚式のメンバー』についてすこし書いてみよう。
 読み始めてちょっとした違和感をおぼえたのだけど、そのわけはすぐに思い当った。ああそうか、チャンドラーだな…。清水俊二訳でチャンドラーに親しんだものにとって、村上春樹訳のチャンドラーは著しい違和感をもたらしただろう。だれもが、「ええっ、これがマーロウ?」と思ったはずだ。これも以前ここに書いたけれども*2、村上訳は、原文に忠実であること、表現の細部を疎かにしないこと、に特長がある。そうすることによってかつてのマーロウのイメージは一新されたが、それがより本来の姿に近いマーロウなのである。
 『結婚式のメンバー』の翻訳も同じく、村上春樹は原文に忠実に、ディテールを正確に訳すことに専心している。The Member of the Wedding には先行する二種の邦訳がある。渥美昭夫訳『結婚式のメンバー』(中央公論社、1972)と加島祥造訳『夏の黄昏』(福武文庫、1990)である*3。わたしの「ちょっとした違和感」の所以は加島祥造訳にある。冒頭を写してみよう*4


 「フランキーが十二歳の夏は、不思議な奇妙な季節だった。今年も彼女は一人きりだった。どこのクラブのメンバーでもなかった。毎日ひとりで、戸口のあたりでぶらぶらしていた。フランキーは不安だった。六月の緑の色はあざやかだったのに、真夏になるとにわかに黒ずんでくる。強い日射しの下で、何もかもが濃く縮んでしまったのだ。それでも初めのうちは町じゅうを歩きまわった。どこかに何か用があるような気がした。
 朝と夜、町は灰色でひんやりしている。しかし日中は太陽の光がおそろしく強く、道路は溶けてガラスのように光った。しまいに両足が熱くてたまらなくなり、気分がわるくなった。いっそ家にいた方がましだった。ところで家にいるのは、ベレニス・セイディ・ブラウンとジョン・ヘンリ・ウェストだけだ。(以下略)」 (加島祥造訳『夏の黄昏』)


 短いセンテンスをたたみかけて、きびきびとしたリズムのある訳文だ。手練れの翻訳家の手になるものとわかる。村上春樹訳だとこうなる。


 「緑色をした気の触れた夏のできごとで、フランキーはそのとき十二歳だった。その夏、彼女はもう長いあいだ、どこのメンバーでもなかった。どんなクラブにも属していなかったし、彼女をメンバーと認めるものはこの世界にひとつとしてなかった。フランキーは身の置き場がみつからないまま、怯えを抱きつつあちらの戸口からこちらの戸口へとさまよっていた。六月には木々は明るい緑に輝いていたが、やがて葉は暗みを帯び、街は激しい陽光の下で黒ずんでしぼんでいった。最初のうちフランキーは戸外を歩き回り、あれやこれや頭に思いつくことをやっていた。街の歩道は早朝と夜には灰色だったが、昼間の太陽がそこに釉薬(うわぐすり)をかけ、焼けついたセメントはまるでガラスみたいに眩しく照り輝いた。歩道はついにはフランキーの足が耐えられないほど熱くなり、おまけに彼女はトラブルを抱え込んでいた。なにしろたくさんの秘密のトラブルに巻き込まれていたので、これは家でおとなしくしていた方がいいかもしれないと考えるようになった。そしてその家にいたのは、ベレニス・セイディー・ブラウンとジョン・ヘンリー・ウェストだけだった。(以下略)」 (村上春樹訳『結婚式のメンバー』)


 一見しておわかりのように、村上訳は加島訳にくらべて三割がた長い(文庫本の頁数もそれに応じて三割がた多くなっている)。一つのセンテンスも長く、したがって、ややもったりした感じを受ける。要するに文章に「キレ」がない。これは、チャンドラーの村上訳と清水訳とを比べた時の感じとまったく同じである。だが、訳文のセンテンスが長いということは、原文の一語一語を省略せずに訳出している、ということでもある。原文を見てみよう。


It happened that green and crazy summer when Frankie was twelve years old. This was the summer when for a long time she had not been a member. She belonged to no club and was a member of nothing in the world. Frankie had become an unjoined person and hung around in doorways, and she was afraid. In June the trees were bright dizzy green, but later the leaves darkened, and the town turned black and shrunken under the glare of the sun. At first Frankie walked around doing one thing and another. The sidewalks of the town were grey in the morning and at night, but the noon sun put a glaze on them, so that the cement burned and glittered like glass. The sidewalks finally became too hot for Frankie’s feet, and also she got herself in trouble. She was in so much secret trouble that she thought it was better to stay at home – and at home there was only Berenice Sadie Brown and John Henry West.


 それはグリーンでクレイジーな夏に起こった、という書き出しで始まる。すこしあとで、6月には木々が目もくらむような鮮やかな緑に輝き、とあるのでgreenは葉っぱの色だとわかる。だから加島訳は冒頭のgreenを省略し、その代りに「不思議な奇妙な季節」と、訳者の(この小説から読み取った)「主観」で染め上げる。あるいは、greenのあとにsummerが続けば、それは木々の緑を意味することが明らかなので省略したのかもしれない。村上訳は律儀に文字通り「緑色をした気の触れた夏」と訳している。
 それに続く加島訳は「今年も彼女は一人きりだった。どこのクラブのメンバーでもなかった」と、原文の順序を入れ替えている。村上訳は原文通り。フランキーの「不安」(加島訳)「怯え」(村上訳)は、彼女がunjoined personであることに起因している。自分の居場所がなく、誰からも承認されていないという寄る辺なさが、アドレッセンスにある少女を捕えているafraidの正体なのである。ここは原文通りの順序がいいだろう(「ここは」というのはヘンだけど)。次の加島訳「どこかに何か用があるような気がした」はまったくの「意訳」。あれをやったりこれをやったりするけれど、心ここにあらず。本当にやるべきことはほかにあるはずだけれど、それが何かはわからない。そんな感じですね。だれにも覚えがあるにちがいない。
 「太陽がそこに釉薬をかけ、焼けついたセメントはまるでガラスみたいに眩しく照り輝いた」は、いい比喩。村上春樹調といってもいいかもしれない(逆ですけど。村上春樹は、浴びるほど読んだ外国の小説からこうした比喩を学んだのである)。加島訳は、比喩は無視して「太陽の光がおそろしく強く」と至極あっさりした調子。その次も「気分がわるくなった」とあっさり処理しているけれども、これでは日射病か熱中症にでもなったみたいだ。気分がわるいのは焼けついた歩道のせいばかりではない。それにもましてトラブルを、「たくさんの秘密のトラブル」を抱えていたからである。ここは(ていうか、ここも)原文をはしょらないほうがいい。


 と、こうやって小説の冒頭を原文とふたつの訳文を対照しながら見てくると、加島訳のきびきびとしたリズム、キレのよさは、原文を多少なりとも損なうことで得られたものだということがわかる。清水俊二訳チャンドラーと同じである。ただし加島訳は、村上春樹が清水訳をさしていった「細かいことにそれほど拘泥しない、大人(たいじん)の風格のある翻訳」というよりも、「確信犯」という感じがする。原文に忠実であることより、読者にとって読みやすい翻訳が「いい翻訳」であるという信念のようなものを感じさせる。どちらがいいかは「好みの問題」なのかもしれないけれど、わたしは原文に忠実に(はしょることなく)訳したものが好きです。


 さて、マッカラーズの『心は孤独な狩人』の映画版(邦題『愛すれど心さびしく』)をBSで見ることができた*5。原作の深みには及ばないが、主役の一人である少女ミック役のソンドラ・ロックが素敵だ。初出演のこの映画でオスカーにノミネートされたらしい。映画が撮影された時は20歳ぐらいのはずだが、ちょっと見には男の子のような「亜麻色の髪をしたひょろ長い十二歳ばかりの少女」をよく演じている。ミックはフランキーであり、少女時代のカーソンでもある。

 『結婚式のメンバー』の文庫カバーには、映画でフランキーを演じたジュリー・ハリスとベレニス役のエセル・ウォーターズの間にはさまれたマッカラーズの写真が使われている。ペンギンブックス版のカバーはこんなのです。『心は孤独な狩人』のソンドラ・ロックにちょっと似ている。いずれもcoming-of-age storyであり、バルテュスの少女のイメージもどこか揺曳しているようだ。


上は『心は孤独な狩人』のソンドラ・ロック
下はバルテュスの Thérèse dreaming, 1938

結婚式のメンバー (新潮文庫)

結婚式のメンバー (新潮文庫)

*1:id:qfwfq:20151115 ついこないだのことだと思ったら、もう半年前になるんだね。歳月は蹄の音を残して走り去る…

*2:id:qfwfq:20070414

*3:わたしの知るかぎり、この二種。渥美訳以前にも、あるいは邦訳があったのかもしれない。加島祥造は福武文庫のあとがきで、「これは以前に『結婚式の仲間』と訳された」と書いている。渥美訳『結婚式のメンバー』は、書棚を探したけれど、どこかに埋もれたのか、引越しの際に処分したのか、見つからない。

*4:「MONKEY」対談の注で、柴田さんは「マッカラーズの書き出しはいつも印象的である」と書いている。

*5:フルムービーをYouTubeで見られるんですね。知らなかった。『結婚式のメンバー』も。どちらも字幕はついてませんけど。

時計の針はゆっくり流れる砂のよう…



 O様

 昨日は終日氷雨が降りしきっていましたが、今日は一転して朝から快晴。窓の向かいの樹林が暖かな陽射しをあびてきらきらと輝いています。風に吹かれて小梢がゆらゆらとダンスを踊り、葉鳴りがひそひそと何かをささやきかわしているかのようです。ナボコフが「暗号と象徴」で書いたように、それは葉っぱたちの発信する秘密の暗号のようにも思えます。ナボコフも日がなうっとりと樹木のダンスを眺めていてあのお話を思いついたのかもしれません。 
 氷雨のなか、村上春樹のいう「雪かき仕事」の打合せで久しぶりに神保町へ出かけてきました。うちの近所にも書店はあるにはあるのですが、コミック・雑誌・実用書がほとんどで用をなしません。神保町で東京堂書店をのぞいて久方ぶりに渇を癒しました。三階の文学書のコーナーへ行くと、ペーター・フーヘルの分厚い評伝が平台に積まれていました。おお、こんな本が出ている! 数年前にフーヘルの詩集がやはり300頁ほどの上製本で出たときも驚きましたが、それも東京堂の同じコーナーの同じ平台で見つけたのでした。
 『ペーター・フーヘル詩集』は小寺昭次郎の訳*1で『詩集』『街道 街道』の二冊の詩集が収録されています。小寺昭次郎はエンツェンスベルガーの『現代の詩と政治』*2の訳者で、以前、そのなかの「自由の石」というエッセイに引用されているネリー・ザックスの「新しい家を建てるあなたたちに」という詩をメールに引用したことがありましたね。まるで3・11の後に書かれたような詩。もう一度、ここに掲げてみます。


 あなたが家を新しく建てるなら――
 あなたのキッチン、ベッド、机、椅子を――
 消えていったあのひとたちを悼む涙を
 石に
 柱に、懸けてはならない、
 あのひとたちはもうあなたとともに住むことはないのだから――
 そうでないとあなたの眠りのなかに涙が落ちる、
 あなたがぜひとらねばならぬ短い眠りのなかに。


 ベッドにシーツを延べるとき、ため息をついてはならない、
 そうでないとあなたの夢は
 死者たちの汗とまじってしまう。


 ああ、家も家具もひどく敏感なのだ、
 風琴のように、
 あなたの苦しみを育てる畑のように。
 だからあなたに、塵埃にひとしいものを嗅ぎつける。


 建てなさい、時計の針はゆっくり流れる砂のよう。
 だがわずかな時の間も、泣きつづけてはならない、
 光をさえぎる
 塵埃とともに。


 こうして書き写していても、哀しみと諦念を押し隠して自らを励ます福島の人たちの顔が浮んでくるようです。アドルノは、アウシュビッツ以後、詩を書くことは不可能であるといったけれども*3、この命題を否定できる数少ない一人がザックスである、とエンツェンスベルガーは書いています(「自由の石」)。
 ザックスのこの詩は『死の住みかで』という詩集の一篇です。死が「その家の主」となってしまった強制収容所を主題としたこの詩集には、ヨブ記の一節がエピグラフに掲げられています。――わがこの皮、この身の朽ち果てんのち、我肉を離れて神を見ん、と。
 そういえば、ネリー・ザックスの詩集*4もフーヘルの詩集と同様、上製単行本で出ていて、いずれもそれほど多くの読者を期待できない本がこうして商業出版物として刊行されるということに(そしてそれをきちんと並べておく書店があるということに)一筋の光明のようなものをおぼえたことでした。


 ペーター・フーヘルの評伝は、土屋洋二『ペーター・フーヘル 現代詩への軌跡』*5という400頁ほどの本。まだあちこち拾い読みしただけですが、フーヘルの詩の翻訳と原詩とを随所に引用しながら、かれの生涯と生きた時代を描こうとするもので、あまり詳しくない戦後ドイツの文学事情を理解するうえで大いに役立ちそうです。
 フーヘルは1903年、ベルリン近郊に生れ、1930年、週刊文芸紙「文学世界」で詩人としてのデビューを果たします。フーヘルの投稿した詩を読んだ編集長兼オーナーのヴィリー・ハースが「天から巨匠が降ってきたかと思った」といったほどですから、鮮烈なデビューといっていいでしょう。
 フーヘルは出征し、45年4月、壊走するドイツの部隊を逃れてソ連軍の捕虜となり、収容所で文化活動に従事します。ドイツの敗戦で、英米仏ソによって分割占領・共同統治されたベルリンへ戻りますが、フーヘルはソ連占領区のベルリン・ラジオ放送局ではたらくことになります。占領地区におけるソ連文化政策(とくに西側に対する文化宣伝)にとってフーヘルは絶好の人材であったわけです。
 ここで思いだすのは、以前、リヒターの『廃墟のドイツ1947』にふれて書いた「47年グループ」のことです*6。リヒターはアメリカ軍の捕虜となり、収容所で発行されていたドイツ人捕虜向けの新聞「デア・ルーフ」に寄稿したりしますが、ドイツへ帰国後、アメリカ占領下のミュンヘンで同名の雑誌「デア・ルーフ」をアンデルシュとともに発行し、やがてそれが47年グループの創設につながってゆく。つまり、フーヘルはソ連軍の捕虜となり、リヒターやアンデルシュはアメリカ軍の捕虜となったことが、その後のかれらの人生と文学に決定的な影響をおよぼすわけですね。
 フーヘルは1948年、『詩集』という名の第一詩集を上梓します(32年に出版を準備していた『少年の池』という詩集は刊行されず、そこに収録されるはずだった73篇のうち、18篇が『詩集』に採録されました)。49年に文芸誌「意味と形式」が創刊され、フーヘルは編集長を務めます。ブレヒトを「雑誌の顔」として正面に押し出し、エルンスト・ブロッホルカーチ、クラウスらを常連執筆陣に迎えて「ドイツとヨーロッパの文学と芸術の伝統をマルクス主義の立場から解釈し直す仕事によって雑誌に骨太な骨格を形成した」(土屋洋二)のです。
 西ドイツの作家、とりわけ若い世代の作家たちを起用することはフーヘルの望むところでしたが、思うようにことは運びません。ここには(ここにも)「文学と政治」の問題が横たわっていました。すなわち党指導部=文化官僚は文学(芸術)を政治に従属すべきものと考えていたのです。「社会主義リアリズム」というやつですね。
 47年グループとフーヘルとの接触は一度、54年の会合にリヒターからの招待状が届いたときだけです。その会合で参加者からフーヘルに東ドイツの体制について質問が出され、フーヘルは「硬直した東側の画一的見解に固執した」と西側メディアは報じたそうです。「国家から財政支援をうける芸術アカデミーの機関誌」(同前)の編集長が、他国で「秘密警察の暗躍する東ドイツの体制」を批判できるわけがありません。フーヘルの盟友エルンスト・ブロッホ(20歳ほど年長ですが)は、「党指導部によって反革命分子の烙印を捺され」、ライプツィヒ大学の教授を解任されて61年、西ドイツへ移住します。フーヘルもまたその翌年に「意味と形式」の編集長を解任されて、秘密警察の監視下に軟禁状態を余儀なくされました。フーヘルも71年に東ドイツを出国し、10年後に西ドイツのシュタウフェンで亡くなります。


 フーヘルの評伝を見つけたということをお伝えするつもりが、思いがけなく長くなってしまいました。最後に、フーヘルがブロッホの70歳の誕生日に献げた詩を一篇、掲げておきます。これは「意味と形式」に掲載されたものですが、ブロッホの主著『希望の原理』もまた「意味と形式」に断続的に連載されたものでした。
 土屋洋二『ペーター・フーヘル 現代詩への軌跡』には、訳詩と原詩、そして詩の詳細な解読があり、それはこの献詩を理解するのに有益ではありますが、ここでは小寺昭次郎の訳で引用します。『ペーター・フーヘル詩集』は小寺の遺稿(の一部)で、かれにいますこしの時間が残されていたらフーヘルの全詩集を自らの手でまとめることができたかもしれません。1950年代から小寺昭次郎と文化運動をともにしてきた古志峻は、巻末の解説でこう書いています。「小寺昭次郎は、高原宏平らとともに、「ドイツ・グループ」で、フーヘルをはじめて読んでいらい、フーヘルへの関心は終生かわらなかった。そしてそれは、戦後、DDRドイツ民主共和国)において、内外の風圧に耐えぬき、「ひととひととの間に距離をなくすものではなく生かす友情」(ブレヒト)のために闘ったフーヘルの精神の根源への共鳴でもあったといえよう」と。


     献詩――エルンスト・ブロッホのために


 秋と、霧の中で次第に明るさを増す太陽、
 そして夜空には火の形象(すがた)。
 それは崩れ、流れる。きみはそれを保持せねばならぬ。
 切り通しの道ではいっそう素早く野獣が入れ替わる。
 遙かな年からの木霊のように
 遠くの森を越えて一発の銃声が轟く。
 再び目に見えぬ者らがさまよい、
 川は木の葉や雲を追い立てる。


 猟人(かりうど)はいまや獲物を引いて帰ってゆく、
 松の枝のようにこわばった角を。
 沈思する者は別の形跡を探る。
 木から金色の煙が立ち昇る
 その切り通しの道をかれは静かに通り過ぎる。
 時は刻々と過ぎ、秋風によって研ぎすまされた
 思想は鳥たちのように旅立ち、
 そして多くの言葉がパンとなり塩となる。
 宇宙の大きな気流の中で、
 冬の星座がゆっくりと上空へ昇るとき、
 かれは予感する、夜がなお黙していることを。
                (小寺昭次郎訳)


ペーター・フーヘル: 現代詩への軌跡

ペーター・フーヘル: 現代詩への軌跡

ペーター・フーヘル詩集

ペーター・フーヘル詩集

*1:『ペーター・フーヘル詩集』小寺昭次郎訳、績文堂、2011年

*2:エンツェンスベルガー『現代の詩と政治』小寺昭次郎訳、晶文社、1968年

*3:アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」とも。

*4:ネリー・ザックス詩集』綱島寿秀編・訳、未知谷、2008年

*5:土屋洋二『ペーター・フーヘル 現代詩への軌跡』、春風社、2016年

*6:id:qfwfq:20151012

あ、猫です――『翻訳問答2』を読む



 片岡義男鴻巣友季子『翻訳問答』については以前ここで書いたけれども*1、その続篇『翻訳問答2』が出た。今回は趣向をあらためて、鴻巣さんと5人の小説家の対談という形式になっている。奥泉光円城塔角田光代水村美苗星野智幸がそれぞれ、吾輩は猫である竹取物語、雪女、嵐が丘アラビアンナイトの英訳、英語原文を和訳して、それについて語り合う(星野智幸は『アラビアンナイト』英訳のスペイン語訳からの和訳)。
 『猫』の冒頭の奥泉さんの訳文が「あ、猫です」。わお!これには意表をつかれた。「I am a cat.を見て、ふつう「吾輩」とは訳さないですよ」と奥泉さん。仰るとおり。前回、『翻訳問答』について書いた際に、柴田元幸さんの『猫』訳と、それに附されたこんなコメントを紹介した。「原文を知らずに訳していても、この猫の個性が見えてくるうちに、「吾輩は猫である」という訳文にいずれたどり着いたかもしれない、とも思う」。それは小説全文を読んでこの小説のvoiceを聞き取ればの話で、たかだか冒頭1頁ほどの英訳から「吾輩」は出てきようがない。
 わたしが意表をつかれたのは、吾輩はどこへ行っちゃったの、ということ以上に「あ」の一語にある。幕が上がり暗転した舞台にスポットライトが当たると男がひとりそこに立っていて、客席に向かって、いま初めてお客さんに気づいたかのようにいう。
 「あ、猫です」
 そんな感じ。その軽さの由来を奥泉さんはこう述べている。「I」がとても小さく見える、と。「「吾輩」という表現は当時の政治的な文書によく見られるもの」で「政治主体を表す一人称「吾輩」が猫であることの落差で、このテクストはでき上がっている」と。仰せのとおりである。しかるに、英訳は以下のごとし。

 I am a cat; but as yet I have no name. Where I was born is entirely unknown to me. (translated by Kan-ichi Ando)

 「吾輩は猫である。名前はまだ無い。/どこで生れたか頓と見当がつかぬ」は、近代小説の書出しとしては最も有名なものの一つである。だれもが脳のヒダヒダにこびりついているといってもいい。奥泉さんにこの「I」がとても小さく見えたのは、きっと漱石の原文と(脳内で)比べたからにちがいない。つまり、『猫』が大仰な一人称とそれをあやつる猫との落差ででき上がっているのと同じように、ここには漱石の戯文と平明な英文との落差がある。だから「吾輩」に比べて「I」がとても小さく見えたのだろう。この英文から「吾輩」は導き出されない。だが、原文の意図を斟酌した英訳も可能ではあるまいか。「かえるくん、東京を救う」を英訳したジェイ・ルービンさんなら、あるいはマイケル・エメリックさんならもう少しちがった英訳になっただろう。Kan-ichi Andoさんには失礼な言い方だけれど*2。ちなみに、前回『翻訳問答』で紹介した『猫』の講談社英語文庫版の英訳( translated by Aiko Ito and Graeme Wilson)では冒頭の一文はI AM A CAT.と大文字になっている。鴻巣さんは村上訳『キャッチャー』風文体の「キャット・イン・ザ・ライ」と牝猫風文体の「わたし、猫なんです」の二種。


 さて、まだ『猫』の冒頭、鴻巣・奥泉対談では最初の3頁ぐらいにしかすぎないが、この調子で紹介していると日が暮れる*3。急いで、わたしがこの本でもっとも感動したみごとな訳文を挙げておこう。角田光代さんの「雪女」の訳。まずはその箇所の英文を(もちろんラフカディオ・ハーンの原文である)。

 The white woman bent down over him, lower and lower, until her face almost touched him; and he saw that she was very beautiful, ――though her eyes made him afraid.

 鴻巣さんはシナリオ風とノーマルの二種、以下はノーマル・バージョン。
 「白づくめの女はだんだんと屈みこんできて、とうとう顔と顔が触れそうになった。そうして見ると、女はたいそう美しい――とはいえ、なにやら眼(まなこ)が恐ろしい」
 次に、角田光代さんの訳。
 「白装束の女はゆっくりと、美濃吉を押しつぶすように、顔が触れるくらいまで屈み、そして美濃吉は、その瞳に震えながらも、女がとてもうつくしいことに気づいた」

 さて、この箇所の角田訳を「綺麗ですね」という鴻巣さんにたいし、角田さんは「自分で書いておいてなんですが、感じ悪い文章です」と応えている。


 角田 ここは句読点でブツブツ文章を切りたくなくて、ひと続きの文章にしました。でも改めて読んでみると、書き手が「どうじゃ!」と自慢している気がして嫌な感じがしますね。こうして読者として読むと、これを書いた人に「いい仕事したと思い上がってるんじゃないの。文章を入れ替えてうまくやったと思ってるでしょ!」と言いたくなります(笑)。
 鴻巣 ドヤ顔が思い浮かぶと(笑)。
 角田 ただ、「女は美しいと気づいた。でも、その目が怖かった」とはしたくありませんでした。


 原文は、女の美しさを言い、そのあと目におののいたと続けている。「角田さんは美しさを後にしてそっちに焦点をもっていってますね」という鴻巣さんの指摘に、「訳しているときは深く考えませんでしたが、改めて考えてみると私はやっぱり顔が綺麗なことを書きたかったんだと思います。私にとっては、瞳が恐ろしかったことを強調した訳文があることじたいが新鮮でした」と角田さんは応えている。翻訳者は原則的に原文の語順を変えない場合が多いが、ここは小説家の直感がみごとな訳文を生んだというべきか。角田さんがこれを自慢気だというのは、ある種の小説的ケレンによる美文だからだろう。だが小説にはときに外連も必要である。度を越すと嫌味で下品になるが、ここぞというときにもちいると絶大な効果をあげる。
 文体におけるそうした外連のひとつに文末の体言止めがある。先の対談で、奥泉さんは「名詞で文章を終えるのは、日本語としてはリスキーなんです。なんというのかなあ、安っぽい印象になる危険性をはらんでいる。ただ、僕はわりと体言止めは好きなんです」と仰っている。大西巨人も「現代口語体における名詞(体言)止め」*4という文章で、「「現代口語体」における名詞止めの採用ないし多用がしばしば文の体(すがた)をいやしくする」(「雅文〔文語体〕」においてはなかなかそうではない)と書いている。そして鏡花や一葉の例を列挙するのだが、ここでは一例のみ挙げておこう。


 「トタンに衝(つ)と寄る、背後(うしろ)へ飛んで、下富坂の暗(やみ)の底へ、淵に隠れるように下りた。行方(ゆきがた)知れず、上野の鐘。」 (泉鏡花「親子そば三人客」)


 「その名詞止めによる締め括りは、水際立ってみごとである」と大西巨人は評している。角田さんの如上の訳文も、水際立ってみごとである。


翻訳問答2 創作のヒミツ

翻訳問答2 創作のヒミツ

*1:id:qfwfq:20140720, id:qfwfq:20140727

*2:奥泉さんは「英訳文を読んで、よく訳されているなと感心しました」と仰っているけれど。

*3:「日が暮れてから道は始まる」と仰ったのは足立巻一である。

*4:大西巨人編『日本掌編小説秀作選 下』花・暦篇、光文社文庫、1987。但し、この元版であるカッパ・ノベルス版にはこの文章は収録されていない。