蜻蛉釣り今日は何処まで行ったやら


O様
 台風の影響でしょうか、今日は朝から雨が降りしきっています。いつものように、向かいの樹林を眺めていたら、あ、鷺が! 

 雨の降る日に時折り姿を見せます。今朝は畑に着地して、なにやら思案気の風情。さて、どうしようかと考えているのでしょうか。しばらくすると、木蔭に向かってとことこと歩いてゆき、そのうちに姿が見えなくなりました。


 珈琲を淹れて朝刊をひろげると、「天声人語」にこういう文がありました。


 「俳優であり俳人でもあった渥美清さんに次の句がある。〈赤とんぼじっとしたまま明日どうする〉。詠んだのは63歳の秋。」


 天声人語子はつづけてこう書いています。
 「じっと動かないトンボに四角い顔を寄せ、何ごとかつぶやく名優の姿が目に浮かぶ」
 そうでしょうか。
 わたしの解釈は、すこし違います。夜も更けて、しんとした静寂のなか、彼は孤り、思いをめぐらせています。さて、明日はどうしようか。明日とは、明後日もしあさってもふくむ不定の未来であるのかもしれません。
 そんなとき、ふと生垣にとまった赤とんぼが脳裏に浮びます。羽根をやすめているのか、それともこれからどうしようかと考えているのか。
 「ざまあねえ、おれもまるで赤とんぼだね」
 ふっと自嘲の笑みが彼の口元に浮びます。


 「天声人語」は、渥美さんの句を枕に、長崎県絶滅危惧種に指定された赤とんぼ、深山茜(ミヤマアカネ)の話題に移ります。佐世保市の環境団体の会長によれば、休耕田が増えて苗にまく農薬が変ったのが急減の原因とのこと。繁殖に適した環境は「水がちょろちょろと流れ出る棚田」ということで、農家から棚田を借りて稲を育てた。それでも四年前に比べると、生息数は半数以下に減っている。棚田をやめると、絶滅に近づく。「責任は重大です」と会長は語る。
 そして、この文章はこう結ばれます。


 「間近で見るとミヤマアカネはなかなか精悍である。お尻を太陽に向けてまっすぐ突き上げる姿など五輪の体操選手のようだ。実りの9月、棚田を歩きながらトンボと田んぼの行く末を案じた」
 

 深山茜の画像をネットで検索してみました。ぴんと伸ばしたお尻(?)を天にむかって突き上げた姿は、たしかに体操選手を思わせなくもありません。それもさることながら、筆者が体操選手を引合いに出したのは、それ以上に「トンボと田んぼ」の語呂合せの「着地」を自讃したかったからかもしれません。
 数日前、わが家のベランダにもとんぼが一匹飛んできました。ああ、もう秋か、と月並みな感想を抱いたものです。
 夕暮れ時の田舎の畦道では、いまも子供の頃のように赤とんぼが群れをなして飛んでいるのでしょうか。

異邦の薫り――くぼたのぞみ『鏡のなかのボードレール』を読む



 もう随分まえのことになるけれども、クッツェーの『恥辱』という小説についてここでふれたことがある*1。いい小説だと思い、いくつかの場面についてはいまも印象につよく残っている。だが、最近読んだある本によって、わたしは自分の無知を思い知らされることになった。無知については言うも更なりだけれど、いい小説だと思ったわりには全然この小説を読めてないじゃないか、といささか暗然とするところがあった。
 わたしはこの小説の主人公についてこう書いている。「二度の離婚歴があり、現在はシングル。ナンパしたり娼婦を買ったりの日々を送っている」。そして、「彼、ラウリーはちょっとした気紛れで女子学生のひとりと関係を持つ」と。女子学生メラニーとの交際が発覚して主人公は大学を辞めることになるのだから、このエピソードはプロット上の大きな意味をもつ。しかし、それに優るとも劣らぬほど重要な意味が冒頭の「娼婦を買ったりの日々」にあることを、くぼたのぞみ『鏡のなかのボードレール』(共和国、2016年6月刊)*2、とりわけ第9章の「J・M・クッツェーのたくらみ、他者という眼差し」という文章によって教えられた。
 

 小説の冒頭、主人公は娼館へおもむき、馴染みの女性ソラヤと性交する。その第二パラグラフの最後にこう書かれている。「ソラヤの顧客になってゆうに一年。彼女には満足しきっている。砂漠のような一週間が、木曜は豪奢で悦楽に満ちたオアシスとなったのだから」(くぼたのぞみ訳)。この「豪奢で悦楽に満ちた」に「ルュクス・エ・ヴォリュプテ」とルビが振られているが、原文は「luxe et volupté」、フランス語のイタリック体になっている(小説は英語で書かれている)。わたしの読んだ鴻巣友季子訳『恥辱』は、「贅と歓びの」でルビも強調もない。
 くぼたは最初に原著を読んだときは「勢いにまかせて」読んだために、そのフランス語の三語をとくに意識しなかった、だが、オクスフォード大学のピーター・マクドナルドがクッツェーについて学生に講義をする動画を見ていて「はたと気づいた」という。このマクドナルドの講義というのも、きわめて興味深いものだ。小説の冒頭の一文「五十二歳という年齢、離婚歴のある男にしては、セックスの問題はかなり上手く解決してきたつもりだ」について、マクドナルドはセックスを「解決しなければならない問題」(solved the problem of sex)とすることに焦点を当て、「このようなデカルト的合理主義に疑問を投じ、主人公の「解決法」が作中で崩壊し、どのような災厄を招いていくかを指摘していく」という。刺戟的な読解だ。こういう講義を受けられる学生がうらやましい。
 さて、クッツェーがイタリック体で示した「luxe et volupté」、くぼたによれば、これはボードレールの『悪の華』の有名な詩「旅への誘い」に出てくる「luxe, calme et volupté」の引用(「クッツェーがよく使う、原テクストを少し違えた「誤引用」」)だという。「豪奢で、静謐で、悦楽に満ちて」。クッツェーはなぜここでボードレールを引用したのだろうか。しかも、読者にそれと知らせるようなほのめかしとして。


 ソラヤの所属するエスコート・クラブは、ケープタウンの中心から少し離れたグリーン・ポイントにある。ここは「アパルトヘイト時代は背徳法に反するカラーラインを跨ぐ売買春が行なわれていたことで悪名高い。人種別に居住区を定めた集団地域法に反して多人種が混じって住んできた地域でもある」(くぼた)という。主人公が街中で二人の子どもを連れたソラヤと出遭ったのを機に、彼女は彼の前から姿を消す。彼がエスコート・クラブに電話をすると、ソラヤは辞めた、なんなら別の女性を紹介しよう、と電話に出た男はいう。「エキゾチックなタイプは選り取りみどりです。マレーシア、タイ、中国、お好みをどうぞ」(鴻巣訳)。ソラヤもまた「陽に焼けた痕跡のない」「蜂蜜色をした褐色の肢体」をもつ「ムスリム」の女性だった*3。 
 「褐色の肢体」をもつ女性との「豪奢で、静謐で、悦楽に満ち」た時間――。
 ボードレールの『悪の華』には特別に「ジャンヌ・デュヴァル詩篇」と呼ばれる数篇の詩がある。初版で十六篇、第二版で十八篇。ボードレールのミューズともいうべき、カリブ海出身の黒人と白人の混血女性ジャンヌ・デュヴァルにインスパイアされた詩篇である。くぼたのぞみはこう書いている。


 「ボードレールの「旅への誘い」に出てくる三つのフランス語「luxe et volupté(豪奢で悦楽に満ちた)」をわざわざイタリックで示しながら、クッツェーは一九世紀半ばのヨーロッパ系白人男性の異国情緒と絡めた女性への憧れや性的欲望をこの『恥辱』のなかに描き込んだ。二〇世紀も終盤のケープタウンで人種主義のシステムが崩壊した社会に生きる、これまで特権的地位にあったことをさほど疑問にも思わなかった五十二歳の白人男性の悦楽のあり方として刻み込んだのだ。」


 たしかに、くぼたのぞみの言うように「日本語読者の多くは(略)南アフリカの複雑な人種構成や歴史事情を思い描くこともないだろう」し、「背景がわからなくても、作者の深い意図まで読み取らなくても、小説は面白く読める」にちがいない。「グリーン・ポイント」という地名にも、わたしをふくめて大方はなんの感興も催さないだろう。だが、クッツェーが(周到に)冒頭に置いた主人公とソラヤとのエピソードをうっかり読み飛ばしてしまうと、この小説を表面だけで理解したつもりになりかねない。面白く読んだけれども、じつは本当には読めていなかったのじゃないかと思ったのは、このくぼたのぞみの指摘によってである。
 くぼたは「ホッテントット・ヴィーナス」の名で知られるサラ・バートマン――ケープタウンからイギリスへ見せ物として連れ出された有色人女性――の最初の「所有者」デイヴィッド・フーリー David Fourie の名と『恥辱』の主人公デイヴィッド・ルーリー David Lurieとの関連を指摘し、「作家は当初、頭文字だけ変えてLourie としたが、アフリカーンス語ではルーリーと読んでも、英語圏ではスコットランドアイルランド系になりラウリーと発音されるかもしれない、と一文字削ったのではないかと推察される」と書いている。邦訳では「ラウリー」となっている。
 そしてさらに、ハベバ・バデルーンの『眼差すムスリム――奴隷制からポストアパルトヘイトへ』(2014、未訳*4)の第四章「ケープ植民地における性をめぐる地理学――『恥辱』」における、冒頭部分に関する犀利な分析を紹介する。バデルーンは自身ムスリムクッツェーの教え子でもある。ほんの一部分の紹介を読んでも、この本がポストコロニアルスタディーズの最良の成果であることはよくわかる。すでに充分長くなったので、関心のある方は直接同書もしくは『鏡のなかのボードレール』をお読みいただきたい。


 くぼたのぞみは書いている。「ソラヤとは誰かを考えることは、クッツェーがこの作品の冒頭にあえてソラヤを置いたことの意味を考えることでもあるだろう」と。わたしはこの『鏡のなかのボードレール』で己の迂闊さを知らされ、あわてて『恥辱』の冒頭を再読した。なるほど、初読のさいは気にせずに読み飛ばしていたのだが、そういう目で見るといくつか気になる箇所も目につく。一例をあげれば、主人公がソラヤとの交わりを自問する、自由関節話法で書かれているところ。
「セックス面は、烈しくあっても情熱的ではない。わが身の象徴としてトーテム像を選ぶとしたら、蛇だろう。ソラヤとの交わりは、思うに、蛇の交尾さながらにちがいない。事は長々しく、一心不乱だが、絶頂の瞬間にも、どこか観念的でむしろ乾いている。/ソラヤのトーテムもまた蛇だろうか?」(鴻巣訳)
 これは当然『悪の華』の一篇「踊る蛇」(第二版28)を念頭に置いているのだろう。


 「私の目の楽しみは、物憂げな恋人よ、/そんなにも美しいきみの体が、/ゆらゆらとそよぐ布地のように、/肌をきらめかすさま!/(略)/身はなげやりに美しく、拍子をとって/きみの歩むさまをみれば/棒の穂先にくねくねと/踊る蛇にもたとえようか。」(阿部良雄訳)


 韋編三たび絶つ。繰り返し読まねば本は読んだことにならないとあらためて銘肝した。


鏡のなかのボードレール (境界の文学)

鏡のなかのボードレール (境界の文学)

*1:id:qfwfq:20120414

*2:宗利淳一の装本がみごと!

*3:女子学生メラニーもまた有色人女性である。「この作品では白人男性の欲望が、もっぱら有色の女性に向かっていくことが明示されているのだ」(くぼた)。

*4:Gabeba Baderoon: Regarding Muslims―from slavery to post-apartheid, Wits University Press, 2014 「南アフリカの歴史のなかでもっとも見えにくい存在であったムスリムについて論じる好著」(くぼた)とのこと。翻訳が待たれる。

ゲイブリエルとグレタを乗せた馬車がオコンネル橋を渡る



 昨日16日、ブルームズデイにちなんでジョン・ヒューストンの『ザ・デッド』を観た。以前BSで放映されたものの録画で、二度目か三度目かの再見になる。見直して新たに気づいたことなどについて二、三書いてみよう。
 ストーリーは簡素だ。二人の老嬢姉妹ケイトとジューリアそれに姪のメアリーの三人が例年催す舞踏会に招かれた縁戚の者や知人たちのダンス、ディナー、会話。そして宴の果てた後の一組の夫婦の、妻の回想をめぐるささやかな諍い。ヒューストンはジョイスの小説を、幾つかの科白をふくめてほぼ忠実に映画化しているといっていい。
 原作にヒューストン(シナリオは息子のトニーが担当し、オスカーにノミネートされた)が付け加えた場面は幾つかある。その一つ、酔っぱらいのフレディがいつものように遅れてやってきて、先に来ていた母親に問いただされる。「委員会の会合があって」とかなんとかしどろもどろに言い訳するフレディに、母は「会合? どこでかね。マリガンのパブでかい?」と皮肉を言う。観客をにやっとさせる『ユリシーズ』へのアリュージョンである。
 大きな改変は、メアリーのピアノ演奏が終わった後に、グレイスが詩を長々と朗読する場面が挿入されることで、これは原作にないエピソードである。朗読するのは、Lady Augusta GregoryのDonal Og。「レディ・グレゴリーがアイルランド語から翻訳したBroken Vowという詩である」とグレイスは朗読の後に注釈をつける。元はアイルランドに伝わるバラードで、グレゴリー女史はアイルランドに伝わる民話、伝説、バラードを英語に翻訳してアイルランド文芸復興に寄与した人。W.B.イエーツととともにアビー・シアターを設立し、多くの芝居を執筆した*1
 グレイスの朗誦が終わると、居並ぶ老若男女は、初めて聴いたこの詩への称賛を口々に唱える。「バラードにするといいね」という人までいる始末。ヒューストンはなぜこの場面を付け加えたのだろうか。おそらく当時のダブリンの独立運動アイルランド人のアイデンティティ、といった背景への言及だろうが、当時の歴史的状況に疎いので確かではない(民族主義者のアイヴァーズ嬢にゲイブリエルがからまれる場面が小説にも映画にも登場する*2)。
 そしてもう一つ。ジューリアがベッリーニの歌曲「婚礼のために装いて」を朗唱する場面で、カメラは階段をゆるやかに上り、二階の室内に入ってテーブルの上の蝋燭立て、小さな民族人形、写真立ての肖像写真などの事物を次々に映し出す。そして一枚のタペストリーに縫い取られた文字――Alexander Popeの詩句に焦点を合わす。二人の老嬢のいずれかの持物だろう。あるいはそれは親の代から伝わってきたものであるのかもしれない(ポープの引用の意図はさまざまに解釈できるだろう)。


 Teach me to feel another’s woe,
 to hide the fault i see,
 that mercy i to others show,
 that mercy show to me.


 ゲイブリエルとグレタを乗せた馬車がオコンネル橋を渡る。深い闇の中にいくつものガス灯の明かりが靄に滲み、川面に照り映えている。静謐で譬えようもなく美しい場面。そしてグレシャムホテルに着いた二人は部屋に落ち着くが、グレタはなにかに憑かれたように物思いに耽っている。


 ――グレッタ、ねえ、なにを考えてるんだい?
  返事もなく、腕に身をまかせるでもない。もう一度、やんわり言った。
 ――言ってごらんよ、グレッタ。どうかしたんだろ。違うかい?
  彼女はすぐには答えなかった。それからわっと泣き出して言った。
 ――ああ、あの歌のこと考えてるの、オーグリムの乙女のこと。
  彼女は身をふりほどいてベッドへ駆け寄り、ベッドの柵上へ腕を十字に投げ出して顔をうずめた。
         (柳瀬尚紀訳「死せるものたち」、新潮文庫『ダブリナーズ』所収)


 「オーグリムの乙女」は舞踏会の最後にダーシーの歌った歌である。グレタは階段の上に立ち尽し、部屋の中から聞こえる歌声に耳を傾けていた。それは、若き日のある青年との永遠の訣れを思い出させる歌だった。
 ジョイスはグレタが「わっと泣き出し」たと書いているが、ヒューストンはそうは描かない。グレタは哀しみに耐えている。肺病で死んだ青年マイケルとの思い出を語るうちに感情が激してくる。そしてベッドにからだを投げ出して嗚咽するのである。感情の機微についてはジョイスよりもヒューストンに一日の長がある。The Deadを書いたとき、ジョイスは25歳だった。80歳を過ぎたヒューストンが若きジョイスに「ほら、このほうがいいだろ?」とウィンクしているようである。
 ちなみに、しんしんと降る雪の場面を観ていて、わたしはある小説の雪の情景を幾度も思い出していた。その小説、アン・ビーティのIn the White Nightにも、ある雪の降る夜、パーティがお開きになったあとの一組の夫婦の小さな諍いが描かれていた。ずいぶん昔読んだ小説なので確かではないけれど。ビーティもあの小説を書くときにThe Deadが頭にあったのだろうか。


追記(6.18)
In the White Night を探し出して再読した。「小さな諍い」ではなかった。愛する者を失った哀しみがいまなお生々しく現前するというところに共通するものがあった。その哀しみを浄化するかのように雪が降りしきるという情景においても。


ダブリナーズ (新潮文庫)

ダブリナーズ (新潮文庫)

*1:https://www.theguardian.com/books/booksblog/2010/apr/19/poem-of-the-week-lady-augusta-gregory

*2:結城英雄は訳書『ダブリンの市民』(岩波文庫)の解題で、ヒューストンは「ポスト・コロニアルの視点で映画化したが、ミス・アイヴァーズを中心に据え、見事である」と記している。

緑色をした気の触れた夏のできごと――村上春樹訳『結婚式のメンバー』



 以前書いた「MONKEY」の村上春樹柴田元幸対談「帰れ、あの翻訳」*1で予告されていた「村上春樹柴田元幸 新訳・復刊セレクション」が「村上柴田翻訳堂」として刊行され始めた。第1回の配本がカーソン・マッカラーズ『結婚式のメンバー』(村上訳)とウィリアム・サローヤン『僕の名はアラム』(柴田訳)。今月2回目の配本は、フィリップ・ロス『素晴らしいアメリカ野球』とトマス・ハーディ『呪われた腕 ハーディ傑作選』の2冊。前者は集英社文庫、後者は新潮文庫(『ハーディ短編集』)を復刊したもの。
 『僕の名はアラム』は、短篇のそれぞれにドン・フリーマンの挿絵がついていて、原著を踏襲したものだろう、素朴で味わいのある雰囲気を醸している。ここでは『結婚式のメンバー』についてすこし書いてみよう。
 読み始めてちょっとした違和感をおぼえたのだけど、そのわけはすぐに思い当った。ああそうか、チャンドラーだな…。清水俊二訳でチャンドラーに親しんだものにとって、村上春樹訳のチャンドラーは著しい違和感をもたらしただろう。だれもが、「ええっ、これがマーロウ?」と思ったはずだ。これも以前ここに書いたけれども*2、村上訳は、原文に忠実であること、表現の細部を疎かにしないこと、に特長がある。そうすることによってかつてのマーロウのイメージは一新されたが、それがより本来の姿に近いマーロウなのである。
 『結婚式のメンバー』の翻訳も同じく、村上春樹は原文に忠実に、ディテールを正確に訳すことに専心している。The Member of the Wedding には先行する二種の邦訳がある。渥美昭夫訳『結婚式のメンバー』(中央公論社、1972)と加島祥造訳『夏の黄昏』(福武文庫、1990)である*3。わたしの「ちょっとした違和感」の所以は加島祥造訳にある。冒頭を写してみよう*4


 「フランキーが十二歳の夏は、不思議な奇妙な季節だった。今年も彼女は一人きりだった。どこのクラブのメンバーでもなかった。毎日ひとりで、戸口のあたりでぶらぶらしていた。フランキーは不安だった。六月の緑の色はあざやかだったのに、真夏になるとにわかに黒ずんでくる。強い日射しの下で、何もかもが濃く縮んでしまったのだ。それでも初めのうちは町じゅうを歩きまわった。どこかに何か用があるような気がした。
 朝と夜、町は灰色でひんやりしている。しかし日中は太陽の光がおそろしく強く、道路は溶けてガラスのように光った。しまいに両足が熱くてたまらなくなり、気分がわるくなった。いっそ家にいた方がましだった。ところで家にいるのは、ベレニス・セイディ・ブラウンとジョン・ヘンリ・ウェストだけだ。(以下略)」 (加島祥造訳『夏の黄昏』)


 短いセンテンスをたたみかけて、きびきびとしたリズムのある訳文だ。手練れの翻訳家の手になるものとわかる。村上春樹訳だとこうなる。


 「緑色をした気の触れた夏のできごとで、フランキーはそのとき十二歳だった。その夏、彼女はもう長いあいだ、どこのメンバーでもなかった。どんなクラブにも属していなかったし、彼女をメンバーと認めるものはこの世界にひとつとしてなかった。フランキーは身の置き場がみつからないまま、怯えを抱きつつあちらの戸口からこちらの戸口へとさまよっていた。六月には木々は明るい緑に輝いていたが、やがて葉は暗みを帯び、街は激しい陽光の下で黒ずんでしぼんでいった。最初のうちフランキーは戸外を歩き回り、あれやこれや頭に思いつくことをやっていた。街の歩道は早朝と夜には灰色だったが、昼間の太陽がそこに釉薬(うわぐすり)をかけ、焼けついたセメントはまるでガラスみたいに眩しく照り輝いた。歩道はついにはフランキーの足が耐えられないほど熱くなり、おまけに彼女はトラブルを抱え込んでいた。なにしろたくさんの秘密のトラブルに巻き込まれていたので、これは家でおとなしくしていた方がいいかもしれないと考えるようになった。そしてその家にいたのは、ベレニス・セイディー・ブラウンとジョン・ヘンリー・ウェストだけだった。(以下略)」 (村上春樹訳『結婚式のメンバー』)


 一見しておわかりのように、村上訳は加島訳にくらべて三割がた長い(文庫本の頁数もそれに応じて三割がた多くなっている)。一つのセンテンスも長く、したがって、ややもったりした感じを受ける。要するに文章に「キレ」がない。これは、チャンドラーの村上訳と清水訳とを比べた時の感じとまったく同じである。だが、訳文のセンテンスが長いということは、原文の一語一語を省略せずに訳出している、ということでもある。原文を見てみよう。


It happened that green and crazy summer when Frankie was twelve years old. This was the summer when for a long time she had not been a member. She belonged to no club and was a member of nothing in the world. Frankie had become an unjoined person and hung around in doorways, and she was afraid. In June the trees were bright dizzy green, but later the leaves darkened, and the town turned black and shrunken under the glare of the sun. At first Frankie walked around doing one thing and another. The sidewalks of the town were grey in the morning and at night, but the noon sun put a glaze on them, so that the cement burned and glittered like glass. The sidewalks finally became too hot for Frankie’s feet, and also she got herself in trouble. She was in so much secret trouble that she thought it was better to stay at home – and at home there was only Berenice Sadie Brown and John Henry West.


 それはグリーンでクレイジーな夏に起こった、という書き出しで始まる。すこしあとで、6月には木々が目もくらむような鮮やかな緑に輝き、とあるのでgreenは葉っぱの色だとわかる。だから加島訳は冒頭のgreenを省略し、その代りに「不思議な奇妙な季節」と、訳者の(この小説から読み取った)「主観」で染め上げる。あるいは、greenのあとにsummerが続けば、それは木々の緑を意味することが明らかなので省略したのかもしれない。村上訳は律儀に文字通り「緑色をした気の触れた夏」と訳している。
 それに続く加島訳は「今年も彼女は一人きりだった。どこのクラブのメンバーでもなかった」と、原文の順序を入れ替えている。村上訳は原文通り。フランキーの「不安」(加島訳)「怯え」(村上訳)は、彼女がunjoined personであることに起因している。自分の居場所がなく、誰からも承認されていないという寄る辺なさが、アドレッセンスにある少女を捕えているafraidの正体なのである。ここは原文通りの順序がいいだろう(「ここは」というのはヘンだけど)。次の加島訳「どこかに何か用があるような気がした」はまったくの「意訳」。あれをやったりこれをやったりするけれど、心ここにあらず。本当にやるべきことはほかにあるはずだけれど、それが何かはわからない。そんな感じですね。だれにも覚えがあるにちがいない。
 「太陽がそこに釉薬をかけ、焼けついたセメントはまるでガラスみたいに眩しく照り輝いた」は、いい比喩。村上春樹調といってもいいかもしれない(逆ですけど。村上春樹は、浴びるほど読んだ外国の小説からこうした比喩を学んだのである)。加島訳は、比喩は無視して「太陽の光がおそろしく強く」と至極あっさりした調子。その次も「気分がわるくなった」とあっさり処理しているけれども、これでは日射病か熱中症にでもなったみたいだ。気分がわるいのは焼けついた歩道のせいばかりではない。それにもましてトラブルを、「たくさんの秘密のトラブル」を抱えていたからである。ここは(ていうか、ここも)原文をはしょらないほうがいい。


 と、こうやって小説の冒頭を原文とふたつの訳文を対照しながら見てくると、加島訳のきびきびとしたリズム、キレのよさは、原文を多少なりとも損なうことで得られたものだということがわかる。清水俊二訳チャンドラーと同じである。ただし加島訳は、村上春樹が清水訳をさしていった「細かいことにそれほど拘泥しない、大人(たいじん)の風格のある翻訳」というよりも、「確信犯」という感じがする。原文に忠実であることより、読者にとって読みやすい翻訳が「いい翻訳」であるという信念のようなものを感じさせる。どちらがいいかは「好みの問題」なのかもしれないけれど、わたしは原文に忠実に(はしょることなく)訳したものが好きです。


 さて、マッカラーズの『心は孤独な狩人』の映画版(邦題『愛すれど心さびしく』)をBSで見ることができた*5。原作の深みには及ばないが、主役の一人である少女ミック役のソンドラ・ロックが素敵だ。初出演のこの映画でオスカーにノミネートされたらしい。映画が撮影された時は20歳ぐらいのはずだが、ちょっと見には男の子のような「亜麻色の髪をしたひょろ長い十二歳ばかりの少女」をよく演じている。ミックはフランキーであり、少女時代のカーソンでもある。

 『結婚式のメンバー』の文庫カバーには、映画でフランキーを演じたジュリー・ハリスとベレニス役のエセル・ウォーターズの間にはさまれたマッカラーズの写真が使われている。ペンギンブックス版のカバーはこんなのです。『心は孤独な狩人』のソンドラ・ロックにちょっと似ている。いずれもcoming-of-age storyであり、バルテュスの少女のイメージもどこか揺曳しているようだ。


上は『心は孤独な狩人』のソンドラ・ロック
下はバルテュスの Thérèse dreaming, 1938

結婚式のメンバー (新潮文庫)

結婚式のメンバー (新潮文庫)

*1:id:qfwfq:20151115 ついこないだのことだと思ったら、もう半年前になるんだね。歳月は蹄の音を残して走り去る…

*2:id:qfwfq:20070414

*3:わたしの知るかぎり、この二種。渥美訳以前にも、あるいは邦訳があったのかもしれない。加島祥造は福武文庫のあとがきで、「これは以前に『結婚式の仲間』と訳された」と書いている。渥美訳『結婚式のメンバー』は、書棚を探したけれど、どこかに埋もれたのか、引越しの際に処分したのか、見つからない。

*4:「MONKEY」対談の注で、柴田さんは「マッカラーズの書き出しはいつも印象的である」と書いている。

*5:フルムービーをYouTubeで見られるんですね。知らなかった。『結婚式のメンバー』も。どちらも字幕はついてませんけど。

時計の針はゆっくり流れる砂のよう…



 O様

 昨日は終日氷雨が降りしきっていましたが、今日は一転して朝から快晴。窓の向かいの樹林が暖かな陽射しをあびてきらきらと輝いています。風に吹かれて小梢がゆらゆらとダンスを踊り、葉鳴りがひそひそと何かをささやきかわしているかのようです。ナボコフが「暗号と象徴」で書いたように、それは葉っぱたちの発信する秘密の暗号のようにも思えます。ナボコフも日がなうっとりと樹木のダンスを眺めていてあのお話を思いついたのかもしれません。 
 氷雨のなか、村上春樹のいう「雪かき仕事」の打合せで久しぶりに神保町へ出かけてきました。うちの近所にも書店はあるにはあるのですが、コミック・雑誌・実用書がほとんどで用をなしません。神保町で東京堂書店をのぞいて久方ぶりに渇を癒しました。三階の文学書のコーナーへ行くと、ペーター・フーヘルの分厚い評伝が平台に積まれていました。おお、こんな本が出ている! 数年前にフーヘルの詩集がやはり300頁ほどの上製本で出たときも驚きましたが、それも東京堂の同じコーナーの同じ平台で見つけたのでした。
 『ペーター・フーヘル詩集』は小寺昭次郎の訳*1で『詩集』『街道 街道』の二冊の詩集が収録されています。小寺昭次郎はエンツェンスベルガーの『現代の詩と政治』*2の訳者で、以前、そのなかの「自由の石」というエッセイに引用されているネリー・ザックスの「新しい家を建てるあなたたちに」という詩をメールに引用したことがありましたね。まるで3・11の後に書かれたような詩。もう一度、ここに掲げてみます。


 あなたが家を新しく建てるなら――
 あなたのキッチン、ベッド、机、椅子を――
 消えていったあのひとたちを悼む涙を
 石に
 柱に、懸けてはならない、
 あのひとたちはもうあなたとともに住むことはないのだから――
 そうでないとあなたの眠りのなかに涙が落ちる、
 あなたがぜひとらねばならぬ短い眠りのなかに。


 ベッドにシーツを延べるとき、ため息をついてはならない、
 そうでないとあなたの夢は
 死者たちの汗とまじってしまう。


 ああ、家も家具もひどく敏感なのだ、
 風琴のように、
 あなたの苦しみを育てる畑のように。
 だからあなたに、塵埃にひとしいものを嗅ぎつける。


 建てなさい、時計の針はゆっくり流れる砂のよう。
 だがわずかな時の間も、泣きつづけてはならない、
 光をさえぎる
 塵埃とともに。


 こうして書き写していても、哀しみと諦念を押し隠して自らを励ます福島の人たちの顔が浮んでくるようです。アドルノは、アウシュビッツ以後、詩を書くことは不可能であるといったけれども*3、この命題を否定できる数少ない一人がザックスである、とエンツェンスベルガーは書いています(「自由の石」)。
 ザックスのこの詩は『死の住みかで』という詩集の一篇です。死が「その家の主」となってしまった強制収容所を主題としたこの詩集には、ヨブ記の一節がエピグラフに掲げられています。――わがこの皮、この身の朽ち果てんのち、我肉を離れて神を見ん、と。
 そういえば、ネリー・ザックスの詩集*4もフーヘルの詩集と同様、上製単行本で出ていて、いずれもそれほど多くの読者を期待できない本がこうして商業出版物として刊行されるということに(そしてそれをきちんと並べておく書店があるということに)一筋の光明のようなものをおぼえたことでした。


 ペーター・フーヘルの評伝は、土屋洋二『ペーター・フーヘル 現代詩への軌跡』*5という400頁ほどの本。まだあちこち拾い読みしただけですが、フーヘルの詩の翻訳と原詩とを随所に引用しながら、かれの生涯と生きた時代を描こうとするもので、あまり詳しくない戦後ドイツの文学事情を理解するうえで大いに役立ちそうです。
 フーヘルは1903年、ベルリン近郊に生れ、1930年、週刊文芸紙「文学世界」で詩人としてのデビューを果たします。フーヘルの投稿した詩を読んだ編集長兼オーナーのヴィリー・ハースが「天から巨匠が降ってきたかと思った」といったほどですから、鮮烈なデビューといっていいでしょう。
 フーヘルは出征し、45年4月、壊走するドイツの部隊を逃れてソ連軍の捕虜となり、収容所で文化活動に従事します。ドイツの敗戦で、英米仏ソによって分割占領・共同統治されたベルリンへ戻りますが、フーヘルはソ連占領区のベルリン・ラジオ放送局ではたらくことになります。占領地区におけるソ連文化政策(とくに西側に対する文化宣伝)にとってフーヘルは絶好の人材であったわけです。
 ここで思いだすのは、以前、リヒターの『廃墟のドイツ1947』にふれて書いた「47年グループ」のことです*6。リヒターはアメリカ軍の捕虜となり、収容所で発行されていたドイツ人捕虜向けの新聞「デア・ルーフ」に寄稿したりしますが、ドイツへ帰国後、アメリカ占領下のミュンヘンで同名の雑誌「デア・ルーフ」をアンデルシュとともに発行し、やがてそれが47年グループの創設につながってゆく。つまり、フーヘルはソ連軍の捕虜となり、リヒターやアンデルシュはアメリカ軍の捕虜となったことが、その後のかれらの人生と文学に決定的な影響をおよぼすわけですね。
 フーヘルは1948年、『詩集』という名の第一詩集を上梓します(32年に出版を準備していた『少年の池』という詩集は刊行されず、そこに収録されるはずだった73篇のうち、18篇が『詩集』に採録されました)。49年に文芸誌「意味と形式」が創刊され、フーヘルは編集長を務めます。ブレヒトを「雑誌の顔」として正面に押し出し、エルンスト・ブロッホルカーチ、クラウスらを常連執筆陣に迎えて「ドイツとヨーロッパの文学と芸術の伝統をマルクス主義の立場から解釈し直す仕事によって雑誌に骨太な骨格を形成した」(土屋洋二)のです。
 西ドイツの作家、とりわけ若い世代の作家たちを起用することはフーヘルの望むところでしたが、思うようにことは運びません。ここには(ここにも)「文学と政治」の問題が横たわっていました。すなわち党指導部=文化官僚は文学(芸術)を政治に従属すべきものと考えていたのです。「社会主義リアリズム」というやつですね。
 47年グループとフーヘルとの接触は一度、54年の会合にリヒターからの招待状が届いたときだけです。その会合で参加者からフーヘルに東ドイツの体制について質問が出され、フーヘルは「硬直した東側の画一的見解に固執した」と西側メディアは報じたそうです。「国家から財政支援をうける芸術アカデミーの機関誌」(同前)の編集長が、他国で「秘密警察の暗躍する東ドイツの体制」を批判できるわけがありません。フーヘルの盟友エルンスト・ブロッホ(20歳ほど年長ですが)は、「党指導部によって反革命分子の烙印を捺され」、ライプツィヒ大学の教授を解任されて61年、西ドイツへ移住します。フーヘルもまたその翌年に「意味と形式」の編集長を解任されて、秘密警察の監視下に軟禁状態を余儀なくされました。フーヘルも71年に東ドイツを出国し、10年後に西ドイツのシュタウフェンで亡くなります。


 フーヘルの評伝を見つけたということをお伝えするつもりが、思いがけなく長くなってしまいました。最後に、フーヘルがブロッホの70歳の誕生日に献げた詩を一篇、掲げておきます。これは「意味と形式」に掲載されたものですが、ブロッホの主著『希望の原理』もまた「意味と形式」に断続的に連載されたものでした。
 土屋洋二『ペーター・フーヘル 現代詩への軌跡』には、訳詩と原詩、そして詩の詳細な解読があり、それはこの献詩を理解するのに有益ではありますが、ここでは小寺昭次郎の訳で引用します。『ペーター・フーヘル詩集』は小寺の遺稿(の一部)で、かれにいますこしの時間が残されていたらフーヘルの全詩集を自らの手でまとめることができたかもしれません。1950年代から小寺昭次郎と文化運動をともにしてきた古志峻は、巻末の解説でこう書いています。「小寺昭次郎は、高原宏平らとともに、「ドイツ・グループ」で、フーヘルをはじめて読んでいらい、フーヘルへの関心は終生かわらなかった。そしてそれは、戦後、DDRドイツ民主共和国)において、内外の風圧に耐えぬき、「ひととひととの間に距離をなくすものではなく生かす友情」(ブレヒト)のために闘ったフーヘルの精神の根源への共鳴でもあったといえよう」と。


     献詩――エルンスト・ブロッホのために


 秋と、霧の中で次第に明るさを増す太陽、
 そして夜空には火の形象(すがた)。
 それは崩れ、流れる。きみはそれを保持せねばならぬ。
 切り通しの道ではいっそう素早く野獣が入れ替わる。
 遙かな年からの木霊のように
 遠くの森を越えて一発の銃声が轟く。
 再び目に見えぬ者らがさまよい、
 川は木の葉や雲を追い立てる。


 猟人(かりうど)はいまや獲物を引いて帰ってゆく、
 松の枝のようにこわばった角を。
 沈思する者は別の形跡を探る。
 木から金色の煙が立ち昇る
 その切り通しの道をかれは静かに通り過ぎる。
 時は刻々と過ぎ、秋風によって研ぎすまされた
 思想は鳥たちのように旅立ち、
 そして多くの言葉がパンとなり塩となる。
 宇宙の大きな気流の中で、
 冬の星座がゆっくりと上空へ昇るとき、
 かれは予感する、夜がなお黙していることを。
                (小寺昭次郎訳)


ペーター・フーヘル: 現代詩への軌跡

ペーター・フーヘル: 現代詩への軌跡

ペーター・フーヘル詩集

ペーター・フーヘル詩集

*1:『ペーター・フーヘル詩集』小寺昭次郎訳、績文堂、2011年

*2:エンツェンスベルガー『現代の詩と政治』小寺昭次郎訳、晶文社、1968年

*3:アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」とも。

*4:ネリー・ザックス詩集』綱島寿秀編・訳、未知谷、2008年

*5:土屋洋二『ペーター・フーヘル 現代詩への軌跡』、春風社、2016年

*6:id:qfwfq:20151012

あ、猫です――『翻訳問答2』を読む



 片岡義男鴻巣友季子『翻訳問答』については以前ここで書いたけれども*1、その続篇『翻訳問答2』が出た。今回は趣向をあらためて、鴻巣さんと5人の小説家の対談という形式になっている。奥泉光円城塔角田光代水村美苗星野智幸がそれぞれ、吾輩は猫である竹取物語、雪女、嵐が丘アラビアンナイトの英訳、英語原文を和訳して、それについて語り合う(星野智幸は『アラビアンナイト』英訳のスペイン語訳からの和訳)。
 『猫』の冒頭の奥泉さんの訳文が「あ、猫です」。わお!これには意表をつかれた。「I am a cat.を見て、ふつう「吾輩」とは訳さないですよ」と奥泉さん。仰るとおり。前回、『翻訳問答』について書いた際に、柴田元幸さんの『猫』訳と、それに附されたこんなコメントを紹介した。「原文を知らずに訳していても、この猫の個性が見えてくるうちに、「吾輩は猫である」という訳文にいずれたどり着いたかもしれない、とも思う」。それは小説全文を読んでこの小説のvoiceを聞き取ればの話で、たかだか冒頭1頁ほどの英訳から「吾輩」は出てきようがない。
 わたしが意表をつかれたのは、吾輩はどこへ行っちゃったの、ということ以上に「あ」の一語にある。幕が上がり暗転した舞台にスポットライトが当たると男がひとりそこに立っていて、客席に向かって、いま初めてお客さんに気づいたかのようにいう。
 「あ、猫です」
 そんな感じ。その軽さの由来を奥泉さんはこう述べている。「I」がとても小さく見える、と。「「吾輩」という表現は当時の政治的な文書によく見られるもの」で「政治主体を表す一人称「吾輩」が猫であることの落差で、このテクストはでき上がっている」と。仰せのとおりである。しかるに、英訳は以下のごとし。

 I am a cat; but as yet I have no name. Where I was born is entirely unknown to me. (translated by Kan-ichi Ando)

 「吾輩は猫である。名前はまだ無い。/どこで生れたか頓と見当がつかぬ」は、近代小説の書出しとしては最も有名なものの一つである。だれもが脳のヒダヒダにこびりついているといってもいい。奥泉さんにこの「I」がとても小さく見えたのは、きっと漱石の原文と(脳内で)比べたからにちがいない。つまり、『猫』が大仰な一人称とそれをあやつる猫との落差ででき上がっているのと同じように、ここには漱石の戯文と平明な英文との落差がある。だから「吾輩」に比べて「I」がとても小さく見えたのだろう。この英文から「吾輩」は導き出されない。だが、原文の意図を斟酌した英訳も可能ではあるまいか。「かえるくん、東京を救う」を英訳したジェイ・ルービンさんなら、あるいはマイケル・エメリックさんならもう少しちがった英訳になっただろう。Kan-ichi Andoさんには失礼な言い方だけれど*2。ちなみに、前回『翻訳問答』で紹介した『猫』の講談社英語文庫版の英訳( translated by Aiko Ito and Graeme Wilson)では冒頭の一文はI AM A CAT.と大文字になっている。鴻巣さんは村上訳『キャッチャー』風文体の「キャット・イン・ザ・ライ」と牝猫風文体の「わたし、猫なんです」の二種。


 さて、まだ『猫』の冒頭、鴻巣・奥泉対談では最初の3頁ぐらいにしかすぎないが、この調子で紹介していると日が暮れる*3。急いで、わたしがこの本でもっとも感動したみごとな訳文を挙げておこう。角田光代さんの「雪女」の訳。まずはその箇所の英文を(もちろんラフカディオ・ハーンの原文である)。

 The white woman bent down over him, lower and lower, until her face almost touched him; and he saw that she was very beautiful, ――though her eyes made him afraid.

 鴻巣さんはシナリオ風とノーマルの二種、以下はノーマル・バージョン。
 「白づくめの女はだんだんと屈みこんできて、とうとう顔と顔が触れそうになった。そうして見ると、女はたいそう美しい――とはいえ、なにやら眼(まなこ)が恐ろしい」
 次に、角田光代さんの訳。
 「白装束の女はゆっくりと、美濃吉を押しつぶすように、顔が触れるくらいまで屈み、そして美濃吉は、その瞳に震えながらも、女がとてもうつくしいことに気づいた」

 さて、この箇所の角田訳を「綺麗ですね」という鴻巣さんにたいし、角田さんは「自分で書いておいてなんですが、感じ悪い文章です」と応えている。


 角田 ここは句読点でブツブツ文章を切りたくなくて、ひと続きの文章にしました。でも改めて読んでみると、書き手が「どうじゃ!」と自慢している気がして嫌な感じがしますね。こうして読者として読むと、これを書いた人に「いい仕事したと思い上がってるんじゃないの。文章を入れ替えてうまくやったと思ってるでしょ!」と言いたくなります(笑)。
 鴻巣 ドヤ顔が思い浮かぶと(笑)。
 角田 ただ、「女は美しいと気づいた。でも、その目が怖かった」とはしたくありませんでした。


 原文は、女の美しさを言い、そのあと目におののいたと続けている。「角田さんは美しさを後にしてそっちに焦点をもっていってますね」という鴻巣さんの指摘に、「訳しているときは深く考えませんでしたが、改めて考えてみると私はやっぱり顔が綺麗なことを書きたかったんだと思います。私にとっては、瞳が恐ろしかったことを強調した訳文があることじたいが新鮮でした」と角田さんは応えている。翻訳者は原則的に原文の語順を変えない場合が多いが、ここは小説家の直感がみごとな訳文を生んだというべきか。角田さんがこれを自慢気だというのは、ある種の小説的ケレンによる美文だからだろう。だが小説にはときに外連も必要である。度を越すと嫌味で下品になるが、ここぞというときにもちいると絶大な効果をあげる。
 文体におけるそうした外連のひとつに文末の体言止めがある。先の対談で、奥泉さんは「名詞で文章を終えるのは、日本語としてはリスキーなんです。なんというのかなあ、安っぽい印象になる危険性をはらんでいる。ただ、僕はわりと体言止めは好きなんです」と仰っている。大西巨人も「現代口語体における名詞(体言)止め」*4という文章で、「「現代口語体」における名詞止めの採用ないし多用がしばしば文の体(すがた)をいやしくする」(「雅文〔文語体〕」においてはなかなかそうではない)と書いている。そして鏡花や一葉の例を列挙するのだが、ここでは一例のみ挙げておこう。


 「トタンに衝(つ)と寄る、背後(うしろ)へ飛んで、下富坂の暗(やみ)の底へ、淵に隠れるように下りた。行方(ゆきがた)知れず、上野の鐘。」 (泉鏡花「親子そば三人客」)


 「その名詞止めによる締め括りは、水際立ってみごとである」と大西巨人は評している。角田さんの如上の訳文も、水際立ってみごとである。


翻訳問答2 創作のヒミツ

翻訳問答2 創作のヒミツ

*1:id:qfwfq:20140720, id:qfwfq:20140727

*2:奥泉さんは「英訳文を読んで、よく訳されているなと感心しました」と仰っているけれど。

*3:「日が暮れてから道は始まる」と仰ったのは足立巻一である。

*4:大西巨人編『日本掌編小説秀作選 下』花・暦篇、光文社文庫、1987。但し、この元版であるカッパ・ノベルス版にはこの文章は収録されていない。

炎上する花よ、鳥獣剝製所よ――矢部登『田端抄』



 矢部登さんの『田端抄』が開板された。龜鳴屋本第二十二冊目*1。矢部さんが出されていた冊子「田端抄」については三年ほど前にここで触れたことがあるが*2、「田端抄」全七冊から三十篇、それに新たに四篇を加えて構成したと覚書にある。巻末に木幡英典氏撮影による田端界隈の写真帖が附されている。奥付に貼附された検印替りの村山槐多の水彩画「小杉氏庭園にて」とともに心憎い編集である。ちなみに未醒小杉放菴旧居は、矢部さんのお住まいから「歩いて八十歩たらず」にある由。
 「谷中安規の動坂」という章に、このところ安規の「動坂」をながめている、とある。谷中安規の「動坂」はこんな木版画である。


 「坂道は画面中央にゆるやかな曲線をえがいている。/坂の上の右側には白くぬかれたショーウインドーがあり、そのなかに鳥の剝製があざやかに浮かぶ。左側には住宅の屋根が点在する。夜空には満月が白くおおきくえがかれていて、そのなかに寺の塔が小さく浮かびあがる。(略)満月と寺の塔、鳥の剝製のシルエットが印象にのこる。夢まぼろしと現実の動坂とが溶けあい、妖気がただよう。」


 このショーウィンドウの中の鳥の剝製から、矢部さんは本郷弥生坂の鳥獣剝製所に思いを馳せる。わたしは、仕事で東大本郷キャンパスに幾度も通った。通常は本郷三丁目駅から本郷通りを歩いて赤門か正門へと向かうのだが、ときに根津駅から言問通りに沿って坂をのぼり、二つ目の信号の角を曲がり弥生坂をすこし下って弥生門から行くこともあった(帰りはいつも本郷通り沿いの古本屋を覗きながら本郷三丁目駅へ向かった)。その言問通りの信号の角に鳥獣剝製所があり、通るたびに不思議な佇まいにいつも気が惹かれた。おそらくその前を一度でも通ったことのある人なら誰もが忘れられないにちがいない。


 「その日は、鳥獣剝製所の白い看板とショーウインドーのまえにたちどまり、あらためて見入った。八十年前、谷中安規の幻視した《動坂》が眼のまえにあることに驚愕したのだった。不況からぬけだせぬ平成の時代に、谷中安規は甦り、街なかをほっつきあるく。そのすがたが、ふと、よぎる。弥生坂の鳥獣剝製所あたりで、まぼろしの安規さんと袖すりあわせていたかもしれぬ。」


 鳥獣剝製所といえば思い出すのが富永太郎の「鳥獣剝製所」で、「一報告書」と副題の附いた幻想小説風の味わいのある富永最長篇の散文詩である。
 「過ぎ去つた動物らの霊」「過ぎ去つた私の霊」に牽かれて、「さまざまの両生類と、爬蟲類と、鳥類と、哺乳類」の剝製の犇めきあう古ぼけた理科室のような暗鬱な建物に「私」は足を踏み入れる。剝製たちはみな「私」の荒涼とした心象の外在化であるかのようだ。富永太郎はこの詩を発表した年の霜月、二十四歳で夭折する。翌月、太郎の弟、次郎と中学で同級生となり、のちに富永太郎評価に多大の貢献をした大岡昇平はこの詩を「剝製は時間による忘却の結果であり、私が建物に歩み入ることにより、動物の霊は再生する。散文詩全体は追想の快楽と苦痛を表わそうとしているようである」と評している*3
 「……流水よ、おんみの悲哀は祝福されてあれ! 倦怠に悩む夕陽の中を散りゆくもみぢ葉よ、おんみの熱を病む諦念は祝福されてあれ!(略)炎上する花よ、灼鉄の草よ、毛皮よ、鱗よ、羽毛よ、音よ、祭日よ、物々の焦げる臭ひよ。/さはれ去年(こぞ)の雪いづくにありや、」
 ヴィヨンのルフランのあとの最終聯。
 「私は手を挙げて眼の前で揺り動かした。そして、生きることゝ、黄色寝椅子(ディヴァン)の上に休息することが一致してゐるどこか別の邦へ行つて住まうと決心した。」
 とんでもねえボードレリアンだと後年物議をかもした、と北村太郎は書いている*4。――この世のほかなら何処へでも、か。
 富永太郎の鳥獣剝製所は、大岡昇平によれば「富永の家のあった代々木富ケ谷一四五六番地からほど近い、今日の東大教養学部の構内、当時の農学部、俗に「駒場東大」の一部にあったものを写したらしい」とのこと。駒場と本郷、いずれにしても東大に縁が深い。ちなみに久世光彦の『蝶とヒットラー*5によれば、弥生坂の鳥獣剝製所の剝製の値段は「栗鼠が一万五千円、狸は五万円、狐六万円、鹿の頭部は十三万円、そして鹿全体が五十万円」だそうである。二十五年ほど前の文章だから、さて、いまではいくらぐらいになっているだろうか。この鳥獣剝製所、ただしくは尼崎剝製標本社という。


 話を谷中安規にもどせば、石神井書林内堀弘さんが雑誌「ひととき」に隔月連載されている「古書もの語り」、今月(2月号)は内田百間の『王様の背中』を取り上げている。「谷中安規先生が、美しい版画を、こんなに沢山彫つて下さいました。お蔭で立派な本が出来ました」と百鬼園先生が序(はしがき)でいうとおり、安規の版画がふんだんに収載されたお伽噺集である。文庫版で見てもその楽しさの一端は伝わってくる。
 昭和九年、楽浪書院発行のこの本には二百部作られた特装本がある、と内堀さんは書いている。谷中安規の展覧会でこの特装本を見て溜息が出た、という。「会場では、この本に収められた二十数点の木版画を一点ごとに額装し、壁一面を使って展示していた。そのどれもが不思議と懐かしい」。それからこの本を探しはじめ、ようやく出逢った入札会ではりきって落札した。古書店の先輩に「おっ、ずいぶん頑張るね」とからかわれたそうだ。
 日本の古本屋サイトで検索すると、石神井書林出品の『王様の背中』帙入特装本のお値段は、七十五万六千円となっている。

*1:http://www.spacelan.ne.jp/~kamenaku/

*2:id:qfwfq:20130420

*3:富永太郎中原中也』レグルス文庫、1975

*4:富永太郎詩集』思潮社現代詩文庫・解説、1975

*5:日本文芸社、1993/ハルキ文庫、1997