ちょっと待ってくれ、僕は小津のことを話してるんだ

 

 

 白洲正子についてはよく知らない。随筆集を何冊か文庫本で読んだだけだ。いずれ腰を据えてじっくり読んでみたいと思っていたが、いずれなどと悠長なことを言っていられる時間の余裕はなくなってしまった。小林秀雄青山二郎らとの交遊についての随筆はそれなりにおもしろく読んだけれども、白洲正子の「真髄」にはまだ触れていないという思いだけがいまも残っている。

 白洲正子が亡くなったのは1998年12月26日。昨年は没後20周年にあたり、12月20日と21日の二夜にわたって「白洲正子が愛した日本」という番組がNHKBSプレミアムで放送された。2006年に放送されたものの再放送で、元気なころの車谷長吉や、中畑貴志、水原紫苑ら、白洲正子と交遊のあったゲストたちが白洲正子について語り合ったのだが、なかでも興をおぼえたのは「型」をめぐる対話だった。

 近江の葛川明王院で太鼓回しという伝統行事が営まれるが、白洲正子はこの行事に「型」を見ていた、と車谷はいう。「型」すなわち伝統であると。中畑貴志はそれを受けて、表現というものには流行りすたりがあるけれど、「型」として残っていれば時代時代にそこにあらたな息吹が吹き込まれるのだという。感情や空気感のようなものは消えてゆくが「型」は残る。「型」がすべてを語る、と中畑貴志はいう。車谷は「型は文体である」といい、白洲正子は鍛え上げた自分の文体をもっていたという。だが、わたしはそうではないと思う。「型」は文学でいえば作家個々の文体ではなく、短歌や俳句などの「定型」に相当するのだろう。万葉の時代から連綿とつづく「定型」は、中畑貴志のいう時代時代にあらたに息吹が吹き込まれる伝統のうつわそのものである。

 水原紫苑は、「型」といえば能で、「梅若実聞書」にあったと思うが、と前置きして次のように語った。たとえば、能で「月を見る型」というのは、演者が月を見る気持ちになってはだめで、頭をすこし上方に向けるだけでいい。月を見る気持ちになると、それはもう「型」ではなくなるのだ、と。水原紫苑は自らも能を舞う人である。

 白洲正子が梅若流二代目・梅若実について能を習い始めたのは四歳のとき。十四歳で女人禁制の能楽堂の舞台に女性としてはじめて立ち、「土蜘蛛」を舞ったという。『梅若実聞書』は1951年、白洲正子四十一歳のときに刊行されたもので、『お能・老木の花』(講談社文芸文庫)で読むことができる。同書に収録された『梅若実聞書』をざっと読んでみたが、水原紫苑のいう「月を見る型」の話は出てこなかった。この話は『梅若実聞書』ではなく、じつは同書の『お能』のなかに出てくるものだ。『お能』は、白洲正子が三十歳のころ、二週間で書き上げたもので、三年後の1943年、志賀直哉柳宗悦らの勧めで刊行されたという*1白洲正子が語る「月を見る型」について、その概要をしるしてみよう。

 

 白洲正子が「花筐」という能の稽古をしていたときのこと。舞のなかに「月を見る型」をする個所があり、自分も上手な能役者のように演じてみたいと正子は思った。真夜中、あたりに冷え冷えとした秋の夜気がただよい、月は中天にかかり皎々と照っている。草の一つひとつにまで月の影が宿っている。そういう景色を心にうかべ、面をハス上にもってゆく「上を見る型」をやってみた。心のなかに「幽玄とか、余情が上下左右を問わず、まわりにただようこと」を思い浮べながら。すると、師に「なっていない」と叱責された。わけを訊ねると「これではどうか?という気持がありありと見える」と師はいう。正子はさらに問いかけた。

 「先生がこの型をなさる時はいかにも美しい月があらわれるようにみえます。あれは、ああいい月だ、と思って上を見あげるのですか? すくなくとも月を見ようという気持はおもちになりませんか? 私は今いっしょうけんめいその気持をもったつもりなのですが」

 師はこう応えた。「上を見る型をするだけです。ほかのことは何も思いません」。正子はその応えに背負投げをくわされたような思いがした。

 それから二、三ヶ月後のこと。別の能の稽古をしていた正子に、「あなたはまだなにか考えながらお能をしていますね」と師はいった。「まだなにかにこだわっているようにみえる」。それさえなければもっと上手にできるのに、という師のことばに正子は憤慨した。何も考えるなといわれたので、努めて考えまいとしているのに。師は破顔一笑していった。「あなたが『考えまいとおもうこと』がたたっているのですよ」

 白洲正子は、能役者にはこれだけのことがいえる人がいる、それは知識で得たものではなく体験によるもので、それは能の伝統の力だという。能では、演者は演じる役の気持ちになってはならない。その気持ち、「心の動き」は見る者が感じるもので、演者自身がそれらしく振舞おうとする意識がはたらくと、見物につたわらない。そのものになりきるには徹底的に自分を無にするよりほかの手段はない、という。

 能には「型ツケ」というものがある。謡の一つひとつに詳細に「型」を書き入れたものだ。演者はこの「型ツケ」のとおりに能を舞う。たとえば次のようなものである。

 「サシ、右足一足、左足カケ、三ノ松ヲ見、扇オロシ、面ニテ正下ヲ見、正ヘ二足フミ込ミ、胸ザシヒラキ、左拍子ヒトツ、三足目カケ、角ヘユキ、角トリ、左廻リ、大小前ニテ正ヘ向、左袖見、二足ツメ、正ヘサシ、右ヘマハリ、……」

 最初は人の動作に似せてそれを写し取っていたものが、室町から現代にいたる何百年もの時をかけて鍛え上げられていくうちに出来上がったのが能の「型」である。「二足前へ出、三足めをかけ角へ行き、とまれ!」という「型」の「三足めの足をかけようと五足めをかけようとたいした違いはなさそうですが、「三足めをかけること」に、じつは何百年の月日がかかっているのです」と白洲正子はいう。能という一つの絵画を描くための、「型」はその部分であり模様なのだという。そうであるためにはすこしの狂いもない正確な模様でなければならない。

 「お能のたましいは美しい「幽玄」のなかにも「花」のなかにもあるものではなく、こんな殺風景な「技法」のなかに見出せます」

 

 なるほど、という思いと同時に「そういうものか」という思いもいだいた。白洲正子のこの能にかんする言説の当否を判断する材料はわたしにない。だが、きわめておもしろい解説だと思った。これを読んで思い浮べたのは小津安二郎の演技指導である。よく知られているように、小津は役者の動作に細かい注文をつけた。それはほとんど能の「型」のような、「二足前へ出、三足めをかけ角へ行き、とまれ!」といったような指示だった。それは役者がそのとおり正確にできるまで、何度も何度もテストが繰り返されたという。

 たとえば『東京物語』で、倒れて床についている東山千栄子香川京子がうちわで扇いでやる場面。うちわを下ろして時計を見て「じゃあ、行ってきます」という一連の動作を、うちわを三回動かしたら手を下ろして時計を見て、というように小津は指導したと香川京子は語る*2。これに類する話は、ほかの俳優たちも異口同音に語っているけれども*3香川京子は、笠智衆の『俳優になろうか』という著書に「小津監督は画面の構成がきちっと決まっていて、そこに俳優をはめ込むという演出のなさり方だったんじゃないか」と書いてあるのを読んで、ああそうかと納得したと語っている。つまり、画面の構成もしくは映画の全体を一幅の絵画だとすれば、その部分であり模様であるはずの役者の動作はすこしの狂いもない正確なものでなければならない、というふうに能の「型」のアナロジーでとらえることもできるだろう。すなわち、役者は演じる役の気持ちになってはならない! これは途方もないことのように思えるけれども、監督の澤井信一郎香川京子の発言に関連してこう述べている*4

 「詰まるところは余計なことをしなくても、シナリオがきちんとできていれば、感情などという不確かなものに基づいた演技をしなくても、小津さんのリズム、小津さんのテンポ、小津さんの指定する強弱、それをやれば、描こうとする感情は観客のなかにきちんと醸し出されるものだと、小津さんは言っているのだと思います」

 『東京物語』のラスト、東山千栄子が亡くなったときに、夫である笠智衆は「きれいな夜明けだった。今日も暑うなるで」と淡々とした調子でいう。澤井信一郎はこの笠智衆の演技を、あたかも映画のトップシーン(妻の東山千栄子が健在であったころ)と同じであるかのような芝居でありながら「深い悲しみを内包している笠さんの気持ちが伝わってくる」という。「小津さんの映画が私たちのなかに醸し出す感動というのは、なるべく芝居をさせない、なるべく起伏を持たせない、少なく演じて多くを伝えるというところから来ている」と澤井信一郎はいう。

 小津安二郎のこうした演技指導が、能の「型」に由来するものなのかどうかは詳らかにしない。だが、先に掲げた、「演者は演じる役の気持ちになってはならない。その気持ち、「心の動き」は見る者が感じるもので、演者自身がそれらしく振舞おうとする意識がはたらくと、見物につたわらない。そのものになりきるには徹底的に自分を無にするよりほかの手段はない」という白洲正子のことばは、小津の演出法を言い当てているような気がしないでもない。

 自分を「無」にすること。

 そういえば、北鎌倉の円覚寺にある小津安二郎の墓には「無」の一字が刻まれている。2018年12月12日は、小津の生誕115年、没後55年にあたる。

 

 

お能・老木の花 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

お能・老木の花 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

 

 

 

 

*1:お能・老木の花』(講談社文芸文庫、1993)所収の森孝一作成年譜による。

*2:『国際シンポジウム 小津安二郎朝日新聞社、2004

*3:岩下志麻は小津の遺作となった『秋刀魚の味』の失恋する場面で、指に巻き尺をまく動作を百回以上繰り返したがOKが出ず、撮影は翌日に持ち越されたという。岩下志麻はのちに「きっと悲しい顔をつくろうとしていたんでしょうね」と語った。小津は「人間というのは悲しい時に悲しい顔をするもんじゃないよ」と語っている。

*4:『国際シンポジウム 小津安二郎朝日新聞社、2004