悔い改めよ、ハーレクィン!――山城むつみ『連続する問題』を読む(その2)




 今回は前回につづいて「改行の可・不可」の提起する問題についてもうすこし書くつもりだったが、そのまえにどうしても書いておきたいことがあり、「緊急順不同」(中野重治)で急ぎしるしておく。これも『連続する問題』に触発された思考の一つである。
 最近、新聞紙面をにぎわせている橋下徹大阪市長の一連の発言についてである。5月27日(月)に行われた日本外国特派員協会での記者会見での発言が、現時点における最新情報である(引用は5月28日付「朝日新聞」朝刊に基づく)。
 ひとつは、慰安婦をめぐる発言について。
 橋下氏は「銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で、命をかけて走っていくときに、どこかで休息をさせてあげようと思ったら慰安婦制度は必要なのは誰だって分かる」(5月13日)と語ったことにかんして、「『戦時においては』『世界各国の軍が』女性を必要としていたのではないかと発言したところ、『私自身が』必要と考える、『私が』容認していると誤報された」(27日)と述べた。
 さて、戦時下において「慰安婦制度は必要なのは誰だって分かる」ことだろうか。他国のことはひとまず措こう。「銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で、命をかけて走っていく」とは、東南アジア諸国へ侵攻した日本軍兵士を想定しているのだろう。あるいは、終戦間際の沖縄における日本軍兵士をそこに含めていいかもしれない。銃弾のとだえた束の間の休息に兵士がもっとも必要とするのが性行為である、というのは「誰だって分かる」ことなのだろうか。ここでの文脈は、「私」ひとりでなく「誰」もがそう考えるはずだ、である(ほんとうに誰もがそう考えるのか)。にもかかわらず橋下氏は「『私自身が』必要と考える、『私が』容認していると誤報された」と述べる。では橋下氏は、「あなた自身」は、「慰安婦制度」は必要と考えないのか、容認しないのか。「誰だって分かる」けれども、「私」はその「誰」のなかには含まれないのか。
 焼夷弾が「雨嵐のごとく飛び交う」空襲下で、「命をかけて走っていく」日本国内の男たちも、爆撃の途絶えた束の間の休息に性行為をもっとも必要としたのだろうか。あるいは、同様の状況下の女たちはどうだったのか。配偶者を軍隊にとられた、また戦争で亡くした女たちのために「慰安夫」の制度が必要であるのは誰だって分かる、とあなたは考えないのだろうか。
 もうひとつは、米軍への「風俗業活用を」発言について。
 橋下氏は「『日本で法律上認められている風俗営業』という表現が翻訳されて、日本の法律で認められていない売春・買春を勧めたとの誤報につながった。さらに合法であれば道徳的に問題がないというようにも誤解された。この表現は撤回するとともにおわび申し上げる」と述べた。
 またしても誤報・誤解であったと橋下氏は述べる。「合法であれば道徳的に問題がない」と考えているというのが誤解だとするなら、橋下氏は、あなたは、合法であったとしても道徳的に問題がある、と考えているのだね。ならば、「道徳的に問題がある」ことをなぜわざわざ沖縄まで出かけていって進言したのかね。
 「沖縄の米兵だって強姦するぐらいならフーゾクへ行って抜いてくればいいんだ」といった与太は酒場での仲間内にするがいい。場所柄もわきまえぬ「公的発言」でいままで何人の大臣のクビが飛んだか知らぬわけではあるまい。いうまでもなくこれは「誤報・誤解」ではない。法律上認められている売買春制度(風俗業)を大いに活用せよ、というのが発言の真意である。
 橋下氏はこの発言を撤回した。米軍司令官が「おお、ハシモト。それはグッドアイデアだ。アイシンクソウ」といって感激するだろうと思っていたら、あにはからんや逆に激怒されて窮地に立たされることになった。そこでとりあえずここは引っ込めるのが得策と思ったのだろうか。あるいは、かれは自分の善意から発した発言の不適切であることを、またこの発言が米軍司令官のみならずアメリカの国民をも侮辱するものであることを、深く反省して撤回したのだろうか。
 橋下氏も市長にふさわしい良識の持ち主であるから心より反省して前言を撤回したのにちがいない。たとえかれの真摯な反省を真に受けるものが誰ひとりいなくとも、橋下氏自身は自らの反省をかたく信じて疑わないだろう。


 さて、山城むつみは『連続する問題』の「9 善をなさんと欲する我に悪あり」で、パウロの回心にふれてこう書いている。


 《善をなさんと欲する我に悪ありとの法を、われ見出せり(ローマ人への手紙)。パウロは一般に妥当するそういう法を発見したと言っているのではない。人は知らない、だが自分には確かにそういうことがあったのだ、と言っているのだ。》


 ユダヤ教徒であったパウロキリスト教徒の惨殺を黙認したことがあった。キリスト教徒を脅迫し、殺害を企てたこともあった。パウロは自身「ただ善をなさんと欲して、律法と良心に照らして行うべきことを行ったのだ」と信じていた。だがかれは「光と声に襲われる経験」によって「我に悪あり」と見出したのだという。
 回心する前の、厳格なユダヤ教徒であったパウロは、惨殺を黙認することも脅迫・殺害を企てることも悪であると認識できない程度の倫理観の持ち主であったのだろうか。山城むつみは「よきサマリア人の譬え」を引用してこういう*1


 《律法において隣人愛が占める意義も、隣人の何たるかも正しく理解していた祭司、レビ人、そしてパリサイ人が、にもかかわらず現実においては瀕死の人間の隣人となることを回避するのはなぜなのか。彼らが律法を本当には分っていなかったからではない。パウロにはこの奇妙な屈折が痛感できたはずだ。彼もまた厳格なるユダヤ教徒として隣人愛の重要性は知っていたが、ステファノ(惨殺されるキリスト教徒)の隣人となろうとはしなかったのである。サマリア人の如く善をなさんと欲したまさにその我を悪が刺した恐ろしさを彼が知らなかったはずはない。隣人愛の訓えを正しく深く理解していれば、隣人を愛し得るとどうして考えるのか。隣人となり得るかどうかは、その人の認識や愛情の問題ではない。律法を熟知し、何が正しいことかを知悉していた彼には、だからこそ見えないものがあった。律法そのものによって隠れてしまう罪があった。正しさそのものによって死角となる不正があったのである。》


 パウロが「我に悪あり」という認知にいたったのは、どういう経路をたどってなのか。「自己の外部から他者の言葉がそこに浸透して来ることなしには到達しえない」、パウロはそう言っていると山城はいう。
 ここでイラクへの自衛隊派遣に関連して(執筆は2004年である)、山城は三十二年前に中野重治が書いた批評を参照し、なにが「致命的なまでに連続してしまっ」ているかについて論じるのだが、長くなるのでここではその問題に立ち入らない。
 そして話を転じてこう述べる。たとえば、東アジアを侵略し植民地化したのはアジア解放のためであって、かれらは「善をなさんと欲していた」と人はいう。にもかかわらず、彼の地ではさまざまな暴虐が行われた。


 《戦後、我々はそれらがこの上ない悪であったと認識し反省し、この過ちを繰り返さぬよう自身を責め苛んで来た。しかし、真に恐れるべきは、そうすることで我々が「我に悪あり」という認知に到ったわけではないということである。だからこそ、それを認知していないにもかかわらず恥じ入るふりをし続ける〈我〉に偽善と自虐を嗅ぎ付けて反発するもうひとつの〈我〉が分裂し一対のものとして存在し続けて来たのである。》


 加藤典洋が『敗戦後論』でいう「ジキルとハイド」の分裂である。「慰安婦の方に対しては優しい言葉をしっかりかけなければいけない」という一方で「慰安婦制度は必要なのは誰だって分かる」と述べる橋下氏も、偽善とそれに反発する我とに分裂しているのだろう。
 山城はさらにドストエフスキーの『罪と罰』を引例して、竿頭一歩を進める。「ラスコーリニコフは犯罪を認めて自首した後もなお、自分の犯行に何らの罪も見出し得なかったが、作者はこの奇妙な流刑囚についてこう書いている。もし運命が悔恨を贈ってくれたなら彼はそれを喜んだだろう、と」


 《ラスコーリニコフは犯罪を明晰に認識しているが、にもかかわらず(7字傍点)「我に悪あり」と認知することができずにいる。しかも、その認知を激しく渇望しているが、それを与えられずにいる。彼の苦しみはこの奇妙な中間状態にある。だが、パウロによれば、それこそが罪を知らないということであり、そしてまさにそれを知らないというそのことこそが罪なのだ。悔い改め(メタノイア)とは、過去に向かって過ちを悔悛する反省のことではなく逆に、何ものかに襲われてそこから百八十度、認識と心情の総体(ノイア)を転回させられるこの上なく不気味で危険な躓きである。》


 山城のいうように、その「躓き」は「彼らの内側に他者が外から浸透して来て初めて生じ」るのである。


 《東アジアの人々を植民地支配下に置くためではなく、むしろ彼らを列強の植民地支配から解放するために「派遣」された高邁なる旧日本軍の前に何が横たわっていたか。実は、戦争に敗れた後も我々はそれをまだ知っていない。我々はその前を通り過ぎたが、致命的なのは、その際、何にも躓かなかったということである。》


 山城が「そこで躓かなかったまさにそのことで今に到るまで連続してしまっている問題がある」と書いたのは2004年2月、イラクへの自衛隊派遣にかんしてである。「連続する問題」はその後十年を経たいまもなお問題であり続けている。
 「慰安婦」は強制的に連行されたのか否か、それには日本軍(国家)が関与していたのか否か。強制性を肯定するにせよ否定するにせよ、自衛隊イラク派遣についての政府自民党日本共産党との対立のごとく、「対立はその内側での相補的なディベートでしかない」のは明らかである。そこで置き去りにされるのは当の「慰安婦」自身にほかならない。
 元「慰安婦」だった韓国人女性ふたりとその支援団体は、24日に予定されていた橋下氏との面談の中止を申し入れたという。橋下氏が一連の発言を撤回しないことに「胸を引き裂かれる思い」だと語ったという。面談の中止は当然だが、面談によって彼女たちの「胸を引き裂かれる思い」がこのナニワの道化(ハーレクィン)の内面に「躓き」となって浸透し、かれを「悔い改め」させる機会が奪われたとすれば残念といわねばならない。
 この面談中止についておなじく「残念」だと表明した人物がいる。「橋下氏に強制連行の中身を鋭く追及されるのをおそれたか?化けの皮がはがれるところだったのに残念」とツイッターで放言した日本維新の会中山成彬衆議院議員である。この下劣な男の名をわたしたちは決して忘れないでいよう。 (この項つづく)

連続する問題

連続する問題

*1:ルカによる福音書」10章25節〜37節。イエスの語るたとえ話の解釈はさまざまにある。