ごめんごめん。前回、村上佳菜子とか浅田真央とか安藤美姫とか、スケーターの方たちのお名前を出したので、ヤフーやグーグルで検索して迷い込んで来られた方が少なからずいらしたようである。失礼しました。今回も、あらかじめお詫びしておく。でもまあ、そのうちのお一人にでも虫明さんの小説に興味をもっていただければ「物怪の幸い」というべきかもしれない。
さて、『パスキンの女たち』だが、あれだけですませるわけにはゆかない。表題となっている傑作「パスキンの女たち」について一言もふれていないからである。「パスキンの女たち」と本書に収録されたもう一作、マネの絵のタイトルからとった「草の上の昼食」とは、画廊に勤める蓉子という女性をヒロインにした連作で、初出一覧をみると、前者が「オール讀物」昭和56年5月号、後者が「小説新潮」昭和55年1月号に発表されている。発表誌が変わっても連作したのは、このヒロインと設定が気に入っていたのだろう。まだほかにもあるのかもしれない。
「パスキンの女たち」は、エコール・ド・パリの画家パスキンの描く女たちと画廊勤務のひとりの女性とを重ね合わせて、そこに女の生理もしくは女の身体と密着した心理を描こうとした野心作で、虫明さんのエッセイではお馴染のテーマだが、小説で読むとまたちがった味わいがある。
こういう描写がある。蓉子が大学生の頃に同級生の男の子に誘われてデートをする。湖を見下ろす丘陵の斜面に二人で寝そべり、空を流れる雲を見上げていて、蓉子は突然この男と将来「これと言った理由もなく」平凡に結婚してしまうのではないかと思う。そして、
「体にじかに伝ってくる斜面と草の感触と、澄んで、明るい、はぜるような音をたてて降りそそいでくる陽光と、目をほそめると暗さが生じるほど無限にひろがった空とが、蓉子に漠然と性を意識させ、そう気づいた時、彼女は男の子にわからぬように全身をすくめて、そっと身震いしたものだった。と、胴と腰が同時にひきしまり、掌のなかで氷を握りしめているような痛みをともなった快感が全身をつらぬいた。彼女は、その瞬間、はっきりと性を欲望として感じて、靴をぬぎすてた素足の裏でそっと草の上を撫ではじめていた。」
蓉子は素足に草のするどい葉先を感じながら、この男の子とは別の男が「自分を荒々しくおおう姿」を想像する。蓉子は大学生とはいえ「なぜか少女といってもよいくらい幼かった」というから未だ異性との性体験はないのだろう。彼女がほとんど初めて抱いた性的欲望は隣りに寝ころんで空を見上げている「男の子」に対してではなくレディ・チャタレイ的夢想であった。処女の性的欲望とはそういうものである。
死後五十年を記念してパリのグラン・パレで開かれたパスキン展で、パスキンの描く女たちの絵を見ながら、蓉子はそんな初心だった頃を思い出している。いまの彼女はもはや自分の欲望にとまどうこともない。パスキンの絵が誘いかけてくる欲望に素直に身をゆだねるばかりである。「女を描いているだけなのに、パスキンの絵には、つねに、女の変身と、軽い旅立とを誘う欲望が、淡く描かれている」と蓉子は感じる。
パスキン晩年の「けむるような大気の中に、物憂げな表情でけだるいポーズをとる」裸婦像について、美術研究者の武田厚はこう書いている。
「乳白色の微妙な調子と、消え入るように戦慄する線描が特色で、あどけない少女たちの柔和な姿態が、雲母のような灯の中に表出されている。とくに、彼女たちの未成熟な精神や初々しい肉体と、驚く程恥じらいを見せない大胆なポーズとのアンバランスなくみ合わせが、奇妙にもある種のエロチシズムを感じさせているともいえる。」*1
「真珠母色の裸婦像」と美しく表現されたパスキンの女たちが醸すエロティシズムは、クリムトやシーレのような頽廃的なそれではない。「ルュシー・クロークの像」(これは裸婦ではないが)のように、内面から発するエロスに見るものが感応するといった態のものである。蓉子は「ルュシー・クロークの像」の前で佇み「セキシーで、チャーミング」とつぶやく。
「ルュシー・クロークという女が、花籠と酒瓶をおいたテーブルに両肘をつき、なにかの決断をせまられながら、ためらい、心をきめかねて、目を伏せている様子が、彼女の心中を去来しているさまざまな思いを連想させる作品であった。ルュシー・クロークは男と訣れたいのかもしれぬし、男との再会を必死で願っているのかもしれなかったが、その心の動揺と不安と失望と夢が、絶えんとして絶えないルュシーの恋心を、蓉子に伝えてやまなかった。蓉子は、その作品からいつか近い将来自分が心身ともに傾倒していく男の出現を思って、かすかに性の衝動を感じ、背筋を緊張させた。」
蓉子はパスキンの描く女が煽り立てる「セキシーな感情」にわれ知らず欲情する。そして「アマゾネスたち」と題された連作の前で動揺に見舞われる。これはアマゾネスというよりも、ヘルマプロディートスたちのオージー、セクシュアルな輪舞を描いた絵なのだが、おそらくこれは虫明さんの創作だろう。いや、そうではなく、欲情に火照った蓉子の見た幻影なのかもしれない。ラスト、蓉子は画家の男のアパルトマンのベッドの上で自らアマゾネスとなって男のからだをむさぼる。
「君は酔ってるんだ」
「パスキンの画を見たら女だったら、みんな酔うわ」
パスキンの絵に酔った女のレディ・チャタレイ的夢想とでもいうべき圧巻のラストに酩酊した。
パスキンは1930年、モンマルトルのクリシー通りのアトリエで自ら命を絶った。パスキンと交遊のあった作家のエレンブルグは回想録にこう記している。
「パスキンは、エセーニンのように、剃刀で血管を切ろうとしたのだった。そしてその血で、これまたエセーニンのように、紙にではなく壁に「さらば、リュシイ!」と書いた。それから、エセーニンのように、首をくくった。机の上には、几帳面に書かれた遺書があった。パスキンは自分の個展がひらかれる当日に自殺したのである。」*2
藤田嗣治の妻ユキ・デスノスは「パスキンは生涯でただ一人の女しか愛さなかった。その女はルユシー・クローグである。このような強烈な愛は特記するに値するほど稀なものである」と回想している*3。
下は「ルュシー・クロークの像」