歴史のアイロニー――岡倉天心覚書(その2)



 「なにがしという人間についての覚え書は、当のなにがしが取るに足らぬ人間であっても一般的な意義を持つ。ただしこの場合は、覚え書をつくる方の人間が取るに足る材でなければならない。正反対にではないが、なにがしという人間がしかるべき人物である場合は、覚え書をつくる方が、力、徳、ともに不足していてもそれがやや一般的な意義を持つ。」


 前回書いた岡倉天心にかんする覚え書は言うまでもなく後者であるけれども、「やや一般的な意義を持つ」かどうかは疑わしい。そこにはなんら独自の考えも新しい知見も含まれていないからであって、仮に聊かなりとも意義を持つとすればそれは一般的な意義ではなくきわめて私的な意義にちがいない。上に掲げたのは中野重治の「メモランドム」という小文の冒頭で、竹内好評論集第三巻『日本とアジア』(筑摩書房)の月報に書かれたものである。
 中野は「ただし私は、竹内好はしかるべき人物だけれども、私という人間は取るに足らぬ人間だとあえていおうというのではない」とつづけ、著作を通して竹内を知り、その竹内の著作は「私をどこかで変化させた」と書いている。その「変化」は中野にとって小さからぬ意義をもつものであったらしく、それを「元へ戻らぬ性質のもの」「出会いというべきものだった」と述懐している。中野の「変化」の具体的なありようはこの小文から窺い知ることはできないが、竹内の『魯迅』を昭和十九年に読み、武田泰淳の『司馬遷』を昭和十八年に読んでいずれからも影響を受けたと記しているから、なにか魯迅にまつわる事柄であったのかもしれない。ちなみに竹内好によれば、魯迅を日本に紹介した文学者でまず指を屈するのは佐藤春夫中野重治である、ということになる。
 この中野の小文は中野にとっての私的な覚え書であるような文章である。だがその私的な覚え書が読者であるわたしにとって大いに意義のある、つまりは少なからぬ感興を催す文章であるというところに中野のエッセイの「一般的な意義」があるようにわたしには思えるのである。(中野重治の文章について書こうとすると、なんだか中野っぽい文章になってしまうのはなぜなんだろう。)


 先週末、法事で生家へ帰省した。持っていった本を往きの電車で読み終えてしまったので復りの車内で読む本を物色し、この竹内好の本を見つけた。竹内の書く「岡倉天心」や「日本のアジア主義」を再読しようと思ったのである。奥付には1966年初版、1973年第7刷と記載されている。学生時代に買った本にちがいないが精読した形跡はない。それにしてもこの手の本が着実に増刷されたのは驚くべきことである。そういう時代だったといえばそれまでだが、読書環境にかんしては年々確実に悪化していよう。
 竹内の「岡倉天心」は、「朝日ジャーナル」の「日本の思想家 この百年」というシリーズ企画のために執筆されたもので(1962年)、「天心の本領を日本美術院の創設(失敗をふくむ。)においたこと、また「アジアは一つ」が理念であって現実認識ではない点を立証したことが新見解のつもりである」との自註(巻末解題)がある。天心は東京美術学校の開校(1889年)に尽力し第二代の校長に就くのだが、やがて排斥されて橋本雅邦や横山大観らとともに日本美術院を創設する(1898年)。天心の東京美術学校排斥騒動には「陰謀説や醜聞が乱れ飛んだが、根本の事情は(略)文明開化と国粋の争いが、体制の安定によって終止符を打たれたというのが本筋である」と竹内は書く。どういうことか。
 東京美術学校は開校当初、天心とフェノロサの方針により、洋画科を置かなかった。当時、文明開化の波に乗って洋画が日本画を圧倒しつつあったが、天心にとって新しい国民藝術の創造はなによりも伝統の上に築かれるものでなければならなかった。ヘーゲリアンであるフェノロサの影響下にあった天心にとって文明とは精神の「内的実現」にほかならない。そうした文明観の持ち主に、実利主義たる文明開化の思想は到底受け入れられるものではなかった。東京美術学校の開校より七年前に、天心は洋画界の重鎮である小山正太郎と論争している。「書は美術ならず」、「書は高価を以て海外に輸出する能はず」と論じた小山に対し、これを読んで「慄然として言ふに堪へざるものあり」と天心は反論した。「嗚呼西洋開化は利慾の開化なり。利慾の開化は道徳の心を損じ、風雅の情を破り、人身をして唯一箇の射利器械たらしむ。貧者は益々貧しく、富人は益々富み、一般の幸福を増加する能はざるなり」と。「美術を論ずるに金銭の得失をもってせば、大いにその方向を誤り、品位を卑くし、美術の美術たるゆゑんを失はしむるものあり」と。
 一方、東京美術学校の前年に開校した東京音楽学校は、初代校長の伊沢修二の方針で洋楽を基礎とした。「邦楽を五線譜に書きかえて、普遍的韻律に近づけること」を近代化の要諦とした伊沢は、帝国教育会(1896年)の創立者として教育界の重鎮でもあった。すなわち、「天心の美術学校は、小山正太郎らの洋画派から絶えず非難攻撃の的になっていたが、この洋画派の背後には洋楽一本ヤリの音楽学校があり、さらにその背景に、地歩を固めつつあった文部省および一般官僚勢力があった、というのが当時の歴史状況だった」(竹内好)。したがって天心の東京美術学校排斥は明治政府の体制整備にともなう必然の成り行きであったということになる。
 明治政府は富国強兵、脱亜入欧の政策を推進する。これらは文明開化と一体のものとしてあった。その後の日本のゆくたてを見るならば、文明開化を忌諱した天心の「アジアは一つ」がやがて侵略戦争のスローガンとされるのは歴史のアイロニーというしかない。竹内好はこの小論をこう結ぶ。


 「東京美術学校(いまの芸術大学美術学部)の前庭に、六角の堂があって、そこに実物倍大くらいの、みずから考案した王朝風の衣冠をつけた天心の像が安置されている。堂は五面があいて、背面だけに鏡板がはってある。その板に浮彫りの文字があって、謎の解かれる日を待っている――Asia is One.」


 われわれは未だ「近代」という問題圏に囚われたままである。――なかなか伝説どころの話ではないのだランボオ