われらをショットガンと父親の自殺から救いたまえ

 

 

 アマゾン・プライムビデオでHBO制作のTVドラマ『オリーヴ・キタリッジ』(2015)を見た。エリザベス・トラウトの連作短篇集13篇から4篇をピックアップした全4話のミニシリーズだが、原作の2話ないし3話からエピソードを取って1話にしたものもある。原作は2009年のピュリッツァー賞受賞作で『オリーヴ・キタリッジの生活』(小川高義訳/早川書房)のタイトルで邦訳が出ている。

 アメリカ・メイン州の田舎町の薬局に勤めるヘンリー・キタリッジと、中学校の数学教師オリーヴ、この中年夫婦と一人息子の日常生活が、ときに小さな波乱に見舞われながら坦々と描かれる。原作の「訳者あとがき」で、この本は初めから順に、そして最初の一篇だけで判断せずに二篇三篇と続けて読んでほしい、なぜなら「つまみ食いで読んでしまうとオリーヴの強烈な作用(かなり強い毒性もある)を味わいそこなう恐れがある」からだと小川氏は述べている。シャーウッド・アンダーソンの『ワインズバーグ・オハイオ』を引合いに出して、「いくつかの短篇が相互に関連しながら、全体として一冊の長篇のようでもある」というように、ドラマでも全4話(それぞれ約60分ほど)が一篇の長篇劇映画のようだ。ただし、ドラマ版ではオリーヴ・キタリッジの強烈な「強い毒性」は第一話から全開である。

 オリーヴを演じるのはフランシス・マクドーマンド。『スリー・ビルボード』の主人公ミルドレッドを髣髴とさせる演技でエミー賞の主演女優賞を受賞している。なにがそんなに気に入らないのとつい聞きたくなるほどいつも不機嫌で、口をひらけば毒をまき散らすオリーヴ。夫のヘンリーが絵に描いたような善人で、誰に対しても愛想がよく面倒見がいいのでオリーヴの偏屈さがよけいに目立ってしまう。ヘンリーを演じるのは『シェイプ・オブ・ウォーター』のリチャード・ジェンキンスで好演。監督はリサ・チョロデンコフランシス・マクドーマンドとは『しあわせの法則』(2002)以来の顔合せだ。

 原作の小説がいい。田舎町を舞台にした日常生活を描いているので地味といえば地味なのだが、うっかりすると読み過ごしてしまいそうな細部にこの小説の真髄がある。たとえば、ドラマでも第2話になっている「上げ潮」という短篇の最初の方にこういう一文がある。

 「パティ・ハウは二つの白いマグにコーヒーをそそいでカウンターに置き、「いらっしゃいませ」と静かに言うと、厨房から出たばかりのコーンマフィンを引き受けに戻った」

 パティ・ハウはどうやらダイナー(ファミレスのような食堂)のウェイトレスらしい。

 「「おみごと」と料理の係に言う。マフィンの表面がかりっと焼き上がって、あざやかな黄色は昇る太陽のようだ。出来たての匂いで胃のあたりがむかむかする、ということにはならない。この一年で二度そんなことがあったが、そうならないのが悲しかった。ふと気鬱めいたものに見舞われた。三ヵ月は間違ってもだめだよ、と医者に言われている」

 それ以上説明しないが、数頁あとでオリーヴ・キタリッジの台詞でこう語られる。

 「いい子なんだけど、流産の癖がついちゃって、なんだか寂しげだわねえ」

 説明を極力排した抑制した筆致が読者に行間を読むことを強いる。

 オリーヴは昔の教え子ケヴィンに偶然出遭う。ケヴィンは子どもの頃、父親と兄といっしょにこの町を出て、いま一人で戻ってきたところだ。オリーヴはケヴィンの車の助手席に乗り込む。ケヴィンは後部座席に毛布に包んだライフルを忍ばせている。ドラマでは助手席に乗り込んだオリーヴが後部座席のライフルをちらと見るカットがある。

 「あんたが知ってるかどうか知らないけど、あたしの父親もそうだったのよ」

とオリーヴがいう。心を病んでいたケヴィンの母親は銃で自殺したらしい。

 「そう、だった?」「自殺したの」「どういう自殺でした?」「あたしの父? 銃でね」

 ケヴィンは死ぬ前に子どもの頃過ごした家を一目見たいと思ってニューヨークから遥々やってきたのだ。

 「ひどい巡礼の旅だ……ふたたび来てしまっている……とジョン・ベリマンは書いた。この詩人をもっと早くから知っていたかった」。ケヴィンはベリマン(John Berryman, 1914-1972)の詩を思い浮べる。

 「われらをショットガンおよび父親の自殺から救いたまえ」

 ベリマンの父親も銃で自殺し、ベリマン自身も投身自殺した。ベリマンを導入して作品を重層的に構築するテクニックが効果的だ。

 ドラマでは、ベリマンの詩はバーの壁にピンで留められたナプキンに書かれた文字として登場する。

 Save us from shotguns & fathers’ suicides.(Dream Song 235)

 オリーヴと同僚の教師で、オリーヴと秘かな恋仲だったジム・オケーシーが書いたものだ。ナプキンに書く場面は第1話に出てくるが、なにを書いたかは明かされなかった。ジムはそのあと自動車事故で亡くなるのだが、あるいは自殺だったのかもしれない。ジム役のピーター・マランがいい味を出している。

 回想シーンで、ジムは少年時代のケヴィンにこの町を出て行けと諭す。母親に縛られることはない、と。「クレイジーな女には気をつけろ。心を切り裂かれ恐ろしい目に遭う」と。そしてジョン・ベリマンの詩集をケヴィンに差し出す。ケヴィンは町を出て行くが、ジムの忠告にはしたがわず、病んだ心を抱えて故郷へ帰ってきたのだった。

 故郷へ帰ってきたケヴィンはオリーヴと出遭い、崖から海に落ちた女性パティ・ハウを救う。何度も流産したというダイナーのウェイトレスだ。「崖から飛び降りたのか」とケヴィンはパティに尋ねる。「まさか。足を滑らせたのよ」「でも悲しそうだった」「花を摘んでたのよ、元気を出すために」「花なんかでいいの?」「ええ、そんなものよ」。ケヴィンはその答えに胸を衝かれて涙を流す。悲しみに打ちひしがれていても、ほんのささいな喜びに癒されることで生きて行くことができる。それはケヴィンには思いもよらない啓示のようなものだった。

 ケヴィンとパティの対話の場面は原作にはない。脚本家のジェーン・アンダーソン(『天才作家の妻 40年目の真実』)が加えたものだろう。もうひとつ、印象に残った原作にはない場面がある。第1話で、オリーヴが居残り生徒の勉強を見ている教室にジム・オケーシーがやってきてオリーヴを廊下に呼び出す。ジムはナイフでリンゴの皮をむきながら詩をつぶやく。ロバート・フロストのThe Road Not Taken(選ばなかった道)だ。字幕ではなく『対訳フロスト詩集』(川本皓嗣編、岩波文庫)から引用しよう。

 「黄色に染まった森のなかで、道が二手に分かれていた。

  旅人ひとりの身でありながら、両方の道を進むわけには

  いかないので、私は長く立ち止まって、

  目の届く限り見つめていた――片方の道が向こうで

  折れ曲がり、下生えの下に消えていくのを。」

 オリーヴは含み笑いをしながら「試験に出す?」と訊く。「いや」というジムの返事に「嫌な人」と返す。ジムはなぜオリーヴを呼び出してフロストの詩を聞かせたのか。オリーヴはそれをどう受け取ったのか。「嫌な人」とはどういう意味なのか。それはわからない。だが、この場面のオリーヴはふだんと違い、少女のようにあどけなく表情にもこわばりがない。それで充分だという気がする。そしてしばらく後に、ジムの運転する車が立ち木に激突する。ジムの死を知ったオリーヴは深夜、夫や息子の目もはばからず号泣する。

 

 エリザベス・トラウトがイーディス・ウォートンの本に寄せた序文が「訳者あとがき」で紹介されている。ウォートンの作品も田舎の寒々しい風景のなかで生きている人々を描いたもので、序文には「『オリーヴ・キタリッジの生活』の勘所というべきものが、ずばり書かれている」と小川氏は書いている。

 「こんな昔ながらの田舎の話が、いつまでも滅びない。それは「町や人物をありありと描き出している」からでもあるが、また「人間の魂の孤独をしっかりと見据えて、どこに暮らしていようとも心の中の生活には激動があることを、あらためて感じさせるからなのだ。」」と。

 付け加えるなら、シャーウッド・アンダーソンの『ワインズバーグ・オハイオ』の序章「グロテスクなものについての書」もまた『オリーヴ・キタリッジの生活』の勘所にふれているといえるだろう。

 「人間が真理の一つを自分のものにし、それを自分の真理と呼び、その真理に従って自分の生涯を生きようとしはじめたとたんに、その人間はグロテスクな姿になり、彼の抱いた真理は虚偽に変る」(橋本福夫訳、新潮文庫

 もしもオリーヴ・キタリッジがグロテスクなまでに常軌を逸した偏屈な人間に見えたとしたら、それは彼女が自らの真理に殉じようとしたためにちがいない。彼女と周囲の人々のいずれが真にグロテスクな人間なのかは問うところでない。

 フロストの「選ばなかった道」の最終連は以下のとおり。

 「いつの日か、今からずっとずっと先になってから、

  私はため息をつきながら、この話をすることだろう。

  森の中で道が二手に分かれていて、私は――

  私は人通りが少ない方の道を選んだ、そして、

  それがあとあと大きな違いを生んだのだと。」 

 フレデリック・エルムス(『ブルーベルベット』)の撮影は荒涼とした風景をみごとにとらえて美しい。

 

 

オリーヴ・キタリッジの生活 (ハヤカワepi文庫)

オリーヴ・キタリッジの生活 (ハヤカワepi文庫)

 

 

 

戦争のくれた字引き――黒川創『鶴見俊輔伝』を読む

 

 黒川創鶴見俊輔伝』を読んで、つよく印象づけられたことについて記しておきたい。本来なら鶴見自身の著作に直接あたりなおして書くべきだが、いまその用意がない。暫定的な心覚えとして書いておきたい。

 鶴見俊輔は戦後10年ほど経ったころ、「戦争のくれた字引き」という文章を発表する(「文藝」1956年8月号)。それは戦時中にジャカルタで起こった捕虜殺害にふれた文章で、鶴見自身は「小説」と称していたという。鶴見は「戦時下に自分が経験してきた事実と、それをめぐる思索」を「敵の国」「滝壺近く」というふたつの手記に記したが、晩年に自ら廃棄するまで手元に置いて発表しなかった。この手記をもとにして書かれたのが「戦争のくれた字引き」だという。

 鶴見は通訳担当の海軍軍属だった。ジャカルタで捕虜のひとりが伝染病に罹る。捕虜は敵国ではなく中立国のインド人だったが、捕虜にあたえる薬などないと鶴見の隣室にいた同僚に捕虜殺害の命令が下る。同僚は、捕虜に毒薬を飲ませたが死なないので、生きたまま穴に埋めその上から銃で射殺した、とげんなりした様子で鶴見に話した。もしその命令が自分に下っていたら、それを拒否することができただろうか。その自問が鶴見に「戦争のくれた字引き」を書かせる。

「戦争は私に新しい字引きをあたえた。それは、旧約にたいする新約として、私のもつ概念の多くを新しく定義した」と鶴見は書いている。それはたんに戦争体験が鶴見の考え方を更新したというにとどまらない。戦争がくれた字引きは、鶴見が物事を考えるにあたってつねに参照する道具となったということである。

 のちに「思想の科学」を創刊した鶴見は、「日本の地下水」という連載のサークル雑誌評のなかで、京都のパン製造販売会社・進々堂の社内報「隊商」(1961年5月号)を取り上げる。「隊商」は本書『鶴見俊輔伝』の著者黒川創の父である北沢恒彦が編集を務めていた。鶴見は、進々堂の専務・続木満那の「私の二等兵物語」という連載記事を取り上げて詳細に紹介している。

 続木は入営後10日目に送られた中国の戦地で「銃剣術や射撃の練習のために生きている中国人捕虜を目隠しもせず木にくくりつけて、突き殺したり撃ち殺したりすること」を命じられる。彼は前夜、もしそういう命令が下ればどうしようかと寝床のなかで考えた。拒絶するとひどい目にあわされる。仮病を使おうか逃亡しようかと考えたすえ「殺人現場に出る、しかし殺さない」と結論する。翌朝、雑木林に40人の捕虜が一列に並ばされ、その3メートルほど前にいた剣つき銃を構えた40人の初年兵に、小隊長の「突け」の号令がかかった。最初はだれも従わなかったが、小隊長が再度「突け」と怒鳴ると、5、6人が飛び出して行った。真っ白に雪のふりつもった野原に鮮血が飛び散った。小隊長が「続木、いかんか」と怒鳴った。彼はじっと立ち尽くしていた。小隊長は激怒して彼の腰を力任せに蹴り上げた。そして続木の手からもぎ取った銃剣の銃床で突き飛ばした。

 小隊長の命令に従わなかった男がもうひとりいた。大雲義幸という禅僧の兵隊で、ふたりはその夜、軍靴を口にくわえ、鼻をくんくん鳴らしながら四つん這いになって雪の中を這いまわるよう命じられた。「犬にも劣る」ということだったが「大雲も私も『犬にも劣るのはお前たちのほうだ』と心の中で思っていましたから、予想外に軽い処罰を喜んだ位でした。これを機会に二匹の犬は無二の親友になりました」と続木満那は書いている。

 鶴見はその後なんどもこの続木満那の文章に言及することになる。わたしはこの箇所を読んで、大西巨人の『神聖喜劇』を思い出した。第5巻「模擬死刑の午後」、戦地でどっち向けて鉄砲を撃つつもりかと軍曹に問われた冬木の「鉄砲は、前とかうしろとか横とか向けてよりほか撃たれんとじゃありまっせん。上向けて。天向けて、そりゃ、撃たれます」ということばを。

 もう一箇所、晩年の鶴見が、ともに癌経験者でもある作家柳原和子と、京都法然院の秋の庭を眺めながら行なった対談番組(ETV「いのちの対話(1)――病から生まれるもの」2001年1月8日放送)から。

 鶴見は、庭に舞い落ちる木の葉を指さして、こう語ったという。

「今の自分は、あの葉の一枚のなかにいて、世界が目の前をよぎる一瞬を眺めている。そのように感じる」と。

 

鶴見俊輔伝

鶴見俊輔伝

 

 

もう少し小津について話してみよう

 

 2018年12月12日、小津の生誕115年、没後55年のメモリアルデイに1冊の本が刊行された。田中康義『豆腐屋はオカラもつくる 映画監督小津安二郎のこと』。

 田中康義氏は1930年生れ、松竹で『早春』『東京暮色』『彼岸花』と3本の小津作品の助監督を務め、『ケメ子の唄』(68)で監督に昇進、数本の監督作品を撮ったのち、プロデューサーに転じた。プロデュース作品としては、曽根中生博多っ子純情』(78)、大森一樹のデビュー作『オレンジロード急行』(78)などがわたしには懐かしい。また、松竹と東京国立近代美術館フィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)とが協同で行なった小津作品のデジタル修復に田中康義氏は音響監修として参加されている。
 版元は金沢の龜鳴屋。茶のクロス装、表紙は、映画のスタンダードサイズと同じ縦横比率の空押しの上に銀幕の題箋、文字の赤・白・黒の三色は映画『彼岸花』のタイトルバックを模したもの。 

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(左)表紙 (右)『彼岸花』タイトルバック

 奥付に貼られた著者名を記した記番紙も、『東京暮色』の小津自筆シナリオの表紙*1を模すなど、いつもながら藝の細かい龜鳴屋の装本である。

 ちなみに『彼岸花』(58)は小津作品では初めてのカラー映画で*2、当時よく使用されていた国産のフジやサクラ、アメリカのイーストマン・コダックなどではなく、ドイツのアグファ・カラーを用いた。アグファ・カラーは赤の発色がいいことで知られ、小津自身も赤を目立たせたくてアグファを選んだと語っている。茶の間のあちこちに出没する有名な真っ赤なヤカンをはじめ、画面には赤い彼岸花、赤い座布団、白い花瓶など、「クレジット・タイトルで行われた色彩の遊戯」*3がこれみよがしに繰り広げられる。もっとも、アグファ・カラーで撮影されたが、国産のサクラ・カラーでポジフィルムにプリントしたために、せっかくの赤が妙に赤茶けて駄目になってしまった、と撮影監督の厚田雄春は語っている*4

 

 本書は、さすがにかつての助監督の著者だけあって、小津作品の撮影現場に即したエピソードなどなかなか興味深い。ここでは、助監督を務めた『彼岸花』のエピソードを一つ紹介しよう。汗牛充棟といっていい小津関連の書物でも、おそらく一度も言及されたことのない貴重な証言であると思う。

 それは聖路加病院の階段の踊り場のセット撮影で、完成された映画ではカットされて存在しない場面であるという。二人の看護師が「画面の左向きにカメラに横を見せて立って」いる。一人が空を見上げて「ああ、いいお天気」というと、もう一人が窓の外を見て「ね、お昼、東興園に行かない? おいしいのよ、シュウマイライス」という。最初のテストが終ると、小津が微笑を浮べて二人に近づいて「俺はこのカット、ピーカン(晴天)のつもりで撮ってるんだ。確かめるなよ」といった。ダメ出しに来た小津を見て二人の女優は一瞬緊張したが、その意図をすぐに理解して「わかりました、すみません」と笑顔で答えたという。

 「そして小津さんは戻り際に「おい厚田家、大丈夫か、ピーカン。二人が心配して表をのぞいて見てるぞ」とカメラマンに声をかけ、スタッフは大笑いです」

 「厚田家(あつたけ)」とは厚田雄春のことで、小津は親しみを込めてそう呼んでいた(厚田雄春自身は「あつたけ」を「厚田兄ぇ」と表記している*5)。「大丈夫か、ピーカン」というのは、むろんジョークで、「二人の背景の踊り場の壁は斜めに差し込んだ陽光で白く輝いて」おり、「二人がわざわざ窓外の空を見上げて確認しなければ「いい天気」とは言えないという画面ではなく、またその二人のセリフを聞いて初めて観客に天気がいいことが伝わるわけでも」ない。だから小津は女優の仕草に「確かめるなよ」と注意を促したのである。

 「ああ、いいお天気」という台詞にも「特別な意味」があるわけではなく、「夜勤明けで朝の忙しく緊張した時間から解放された二人が、フト一息ついてその気分で思わず出た」といったもので、窓外を見るという「一見自然な芝居」も、だから小津にとっては「一番嫌う〈説明の芝居〉」になるのだという。もっとも、監督によっては「何の芝居もせずに、「いいお天気」と言うと、「おい、確かめもせずにどうしてそのセリフが言えるんだ」などと叱られたり」することもある、と田中康義氏は注釈している。

 この場面は、映画ではカットされており、公刊されている完成台本*6にも〈シーンナンバー27 築地 聖ロカ病院の遠景〉に「いいお天気である」とト書きが一行あるのみで、実際の映画でも風景ショットが二つ重ねられている。じつはその前のシーン26、平山家の茶の間の場面で、平山(佐分利信)と幸子(山本富士子)の対面しての会話があり、話が一段落ついて幸子が「(ふと庭の方に目を移して)やあ、ええお天気」といい、庭を背にしていた平山がからだをひねって庭の方を向いて「ああ」と応じ、カメラがふたたび切り返して遠くを見るような幸子をとらえたところで場面が切り替わるのである。そこで、看護師二人がまた「いいお天気」というといかにもくどくて、撮影はしたものの編集でオミットしたのだろう。

 小津の映画では空はいつも晴れ上がっていて、『浮草』や『宗方姉妹』など数作をのぞいて画面に雨が降ることはない。小津安二郎が亡くなった1963年12月12日、東京の空は雲一つない抜けるような晴天だったという*7

*1:人目にあまり触れることがないが、インターネットの「デジタル小津安二郎」の資料リストで見ることができる。 

http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Publish_db/1999ozu/japanese/11.html

*2:主要キャストの山本富士子のために、会社(松竹)の注文でカラーに踏み切ったともいわれる。和服なども、特別に染色された(『小津安二郎を読む』フィルムアート社、1982)

*3:デヴィッド・ボードウェル、杉山昭夫訳『小津安二郎 映画の詩学青土社、1992

*4:厚田雄春蓮實重彦小津安二郎物語』筑摩書房、1989

*5:同上

*6:井上和男編『小津安二郎全集』下巻所収、新書館、2003

*7:小津安二郎物語』

ちょっと待ってくれ、僕は小津のことを話してるんだ

 

 

 白洲正子についてはよく知らない。随筆集を何冊か文庫本で読んだだけだ。いずれ腰を据えてじっくり読んでみたいと思っていたが、いずれなどと悠長なことを言っていられる時間の余裕はなくなってしまった。小林秀雄青山二郎らとの交遊についての随筆はそれなりにおもしろく読んだけれども、白洲正子の「真髄」にはまだ触れていないという思いだけがいまも残っている。

 白洲正子が亡くなったのは1998年12月26日。昨年は没後20周年にあたり、12月20日と21日の二夜にわたって「白洲正子が愛した日本」という番組がNHKBSプレミアムで放送された。2006年に放送されたものの再放送で、元気なころの車谷長吉や、中畑貴志、水原紫苑ら、白洲正子と交遊のあったゲストたちが白洲正子について語り合ったのだが、なかでも興をおぼえたのは「型」をめぐる対話だった。

 近江の葛川明王院で太鼓回しという伝統行事が営まれるが、白洲正子はこの行事に「型」を見ていた、と車谷はいう。「型」すなわち伝統であると。中畑貴志はそれを受けて、表現というものには流行りすたりがあるけれど、「型」として残っていれば時代時代にそこにあらたな息吹が吹き込まれるのだという。感情や空気感のようなものは消えてゆくが「型」は残る。「型」がすべてを語る、と中畑貴志はいう。車谷は「型は文体である」といい、白洲正子は鍛え上げた自分の文体をもっていたという。だが、わたしはそうではないと思う。「型」は文学でいえば作家個々の文体ではなく、短歌や俳句などの「定型」に相当するのだろう。万葉の時代から連綿とつづく「定型」は、中畑貴志のいう時代時代にあらたに息吹が吹き込まれる伝統のうつわそのものである。

 水原紫苑は、「型」といえば能で、「梅若実聞書」にあったと思うが、と前置きして次のように語った。たとえば、能で「月を見る型」というのは、演者が月を見る気持ちになってはだめで、頭をすこし上方に向けるだけでいい。月を見る気持ちになると、それはもう「型」ではなくなるのだ、と。水原紫苑は自らも能を舞う人である。

 白洲正子が梅若流二代目・梅若実について能を習い始めたのは四歳のとき。十四歳で女人禁制の能楽堂の舞台に女性としてはじめて立ち、「土蜘蛛」を舞ったという。『梅若実聞書』は1951年、白洲正子四十一歳のときに刊行されたもので、『お能・老木の花』(講談社文芸文庫)で読むことができる。同書に収録された『梅若実聞書』をざっと読んでみたが、水原紫苑のいう「月を見る型」の話は出てこなかった。この話は『梅若実聞書』ではなく、じつは同書の『お能』のなかに出てくるものだ。『お能』は、白洲正子が三十歳のころ、二週間で書き上げたもので、三年後の1943年、志賀直哉柳宗悦らの勧めで刊行されたという*1白洲正子が語る「月を見る型」について、その概要をしるしてみよう。

 

 白洲正子が「花筐」という能の稽古をしていたときのこと。舞のなかに「月を見る型」をする個所があり、自分も上手な能役者のように演じてみたいと正子は思った。真夜中、あたりに冷え冷えとした秋の夜気がただよい、月は中天にかかり皎々と照っている。草の一つひとつにまで月の影が宿っている。そういう景色を心にうかべ、面をハス上にもってゆく「上を見る型」をやってみた。心のなかに「幽玄とか、余情が上下左右を問わず、まわりにただようこと」を思い浮べながら。すると、師に「なっていない」と叱責された。わけを訊ねると「これではどうか?という気持がありありと見える」と師はいう。正子はさらに問いかけた。

 「先生がこの型をなさる時はいかにも美しい月があらわれるようにみえます。あれは、ああいい月だ、と思って上を見あげるのですか? すくなくとも月を見ようという気持はおもちになりませんか? 私は今いっしょうけんめいその気持をもったつもりなのですが」

 師はこう応えた。「上を見る型をするだけです。ほかのことは何も思いません」。正子はその応えに背負投げをくわされたような思いがした。

 それから二、三ヶ月後のこと。別の能の稽古をしていた正子に、「あなたはまだなにか考えながらお能をしていますね」と師はいった。「まだなにかにこだわっているようにみえる」。それさえなければもっと上手にできるのに、という師のことばに正子は憤慨した。何も考えるなといわれたので、努めて考えまいとしているのに。師は破顔一笑していった。「あなたが『考えまいとおもうこと』がたたっているのですよ」

 白洲正子は、能役者にはこれだけのことがいえる人がいる、それは知識で得たものではなく体験によるもので、それは能の伝統の力だという。能では、演者は演じる役の気持ちになってはならない。その気持ち、「心の動き」は見る者が感じるもので、演者自身がそれらしく振舞おうとする意識がはたらくと、見物につたわらない。そのものになりきるには徹底的に自分を無にするよりほかの手段はない、という。

 能には「型ツケ」というものがある。謡の一つひとつに詳細に「型」を書き入れたものだ。演者はこの「型ツケ」のとおりに能を舞う。たとえば次のようなものである。

 「サシ、右足一足、左足カケ、三ノ松ヲ見、扇オロシ、面ニテ正下ヲ見、正ヘ二足フミ込ミ、胸ザシヒラキ、左拍子ヒトツ、三足目カケ、角ヘユキ、角トリ、左廻リ、大小前ニテ正ヘ向、左袖見、二足ツメ、正ヘサシ、右ヘマハリ、……」

 最初は人の動作に似せてそれを写し取っていたものが、室町から現代にいたる何百年もの時をかけて鍛え上げられていくうちに出来上がったのが能の「型」である。「二足前へ出、三足めをかけ角へ行き、とまれ!」という「型」の「三足めの足をかけようと五足めをかけようとたいした違いはなさそうですが、「三足めをかけること」に、じつは何百年の月日がかかっているのです」と白洲正子はいう。能という一つの絵画を描くための、「型」はその部分であり模様なのだという。そうであるためにはすこしの狂いもない正確な模様でなければならない。

 「お能のたましいは美しい「幽玄」のなかにも「花」のなかにもあるものではなく、こんな殺風景な「技法」のなかに見出せます」

 

 なるほど、という思いと同時に「そういうものか」という思いもいだいた。白洲正子のこの能にかんする言説の当否を判断する材料はわたしにない。だが、きわめておもしろい解説だと思った。これを読んで思い浮べたのは小津安二郎の演技指導である。よく知られているように、小津は役者の動作に細かい注文をつけた。それはほとんど能の「型」のような、「二足前へ出、三足めをかけ角へ行き、とまれ!」といったような指示だった。それは役者がそのとおり正確にできるまで、何度も何度もテストが繰り返されたという。

 たとえば『東京物語』で、倒れて床についている東山千栄子香川京子がうちわで扇いでやる場面。うちわを下ろして時計を見て「じゃあ、行ってきます」という一連の動作を、うちわを三回動かしたら手を下ろして時計を見て、というように小津は指導したと香川京子は語る*2。これに類する話は、ほかの俳優たちも異口同音に語っているけれども*3香川京子は、笠智衆の『俳優になろうか』という著書に「小津監督は画面の構成がきちっと決まっていて、そこに俳優をはめ込むという演出のなさり方だったんじゃないか」と書いてあるのを読んで、ああそうかと納得したと語っている。つまり、画面の構成もしくは映画の全体を一幅の絵画だとすれば、その部分であり模様であるはずの役者の動作はすこしの狂いもない正確なものでなければならない、というふうに能の「型」のアナロジーでとらえることもできるだろう。すなわち、役者は演じる役の気持ちになってはならない! これは途方もないことのように思えるけれども、監督の澤井信一郎香川京子の発言に関連してこう述べている*4

 「詰まるところは余計なことをしなくても、シナリオがきちんとできていれば、感情などという不確かなものに基づいた演技をしなくても、小津さんのリズム、小津さんのテンポ、小津さんの指定する強弱、それをやれば、描こうとする感情は観客のなかにきちんと醸し出されるものだと、小津さんは言っているのだと思います」

 『東京物語』のラスト、東山千栄子が亡くなったときに、夫である笠智衆は「きれいな夜明けだった。今日も暑うなるで」と淡々とした調子でいう。澤井信一郎はこの笠智衆の演技を、あたかも映画のトップシーン(妻の東山千栄子が健在であったころ)と同じであるかのような芝居でありながら「深い悲しみを内包している笠さんの気持ちが伝わってくる」という。「小津さんの映画が私たちのなかに醸し出す感動というのは、なるべく芝居をさせない、なるべく起伏を持たせない、少なく演じて多くを伝えるというところから来ている」と澤井信一郎はいう。

 小津安二郎のこうした演技指導が、能の「型」に由来するものなのかどうかは詳らかにしない。だが、先に掲げた、「演者は演じる役の気持ちになってはならない。その気持ち、「心の動き」は見る者が感じるもので、演者自身がそれらしく振舞おうとする意識がはたらくと、見物につたわらない。そのものになりきるには徹底的に自分を無にするよりほかの手段はない」という白洲正子のことばは、小津の演出法を言い当てているような気がしないでもない。

 自分を「無」にすること。

 そういえば、北鎌倉の円覚寺にある小津安二郎の墓には「無」の一字が刻まれている。2018年12月12日は、小津の生誕115年、没後55年にあたる。

 

 

お能・老木の花 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

お能・老木の花 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

 

 

 

 

*1:お能・老木の花』(講談社文芸文庫、1993)所収の森孝一作成年譜による。

*2:『国際シンポジウム 小津安二郎朝日新聞社、2004

*3:岩下志麻は小津の遺作となった『秋刀魚の味』の失恋する場面で、指に巻き尺をまく動作を百回以上繰り返したがOKが出ず、撮影は翌日に持ち越されたという。岩下志麻はのちに「きっと悲しい顔をつくろうとしていたんでしょうね」と語った。小津は「人間というのは悲しい時に悲しい顔をするもんじゃないよ」と語っている。

*4:『国際シンポジウム 小津安二郎朝日新聞社、2004

憧憬と嫉妬と、少しばかりの軽蔑と――『トニオ・クレーガー』の新訳を読む



 トーマス・マンの『トニオ・クレーガー』の新訳が出た。浅井晶子訳、光文社古典新訳文庫大西巨人の『神聖喜劇』の関連で『トニオ』を再読したのが4年前だった*1。久しぶりに新訳で読んでみたが、行き届いた清新な訳文のせいもあずかってか、前回読んだときよりもこの小説をより理解できたような気がしないでもない。あらたに気づいたことも少なからずあった。
 小説の冒頭近く、トニオが友人のハンスにシラーの戯曲『ドン・カルロス』を「君にも読んでほしい」と勧める場面がある。ハンスは戯曲には興味を示さず、逆に馬の本で見た写真のことを昂奮気味に話す。「すごい図解が入ってるんだ。今度うちに来たら、見せてやるよ。瞬間撮影っていうやつで、速足や駆足や跳躍のときの馬の姿勢が全部見られるんだ」。以前読んだときには読み過ごしていたが、これはエドワード・マイブリッジの連続写真のことだろう。マイブリッジの連続写真にインスパイアされたエジソンはキネトスコープを発明し、映画が誕生する。マンが『トニオ・クレーガー』を発表する十年ほど前のことである。
 この連続写真は、小説の中ほどでもう一度出てくる。没落したクレーガー家をあとに故郷を出奔し、放埓な日々を過ごしたのち小説家として世に出たトニオが、女友達で画家のリザヴェータに長広舌をふるう場面である。芸術家と俗人、もしくは、芸術と人生との対立についてトニオが延々と自説を述べるくだり。「瞬間撮影の載った馬の本を読むほうがずっといいなんていう人たちを、詩のほうへ誘い込んだりしちゃだめなんだ!」とトニオはいう。夢見る少年だった十四歳のトニオは、すでに三十歳を過ぎている。だがトニオのこころのなかには、まだハンスのおもかげが生々しく息づいているのだ。かつて「ハンスには、僕のようにはなってほしくない。いまのままでいてほしい。明るく、強く、誰もが愛する、そして誰よりも僕が一番愛するハンスのままで!」と祈ったハンスのおもかげが。小説の語り手は十四歳のトニオをさして「この当時、トニオの心は生きていた」という。「そこには憧憬があり、憂鬱な嫉妬と、少しばかりの軽蔑と、純真そのものの幸福があった」と。
 リザヴェータは、長広舌をふるうトニオにむかってこう言い放つ。あなたはただの俗人なのよ(浅井晶子訳では俗人は「一般人」と訳されている)。「あなたはね、道を誤った一般人なのよ」。本来は俗人なのに、道を誤って芸術家になってしまったのだとリザヴェータはいう。この言葉は、トニオをしたたかに打つ。リザヴェータにいとまを告げて故郷へと向かい、さらに北の国デンマークを訪れたトニオは、そこである出来事に遭遇して一種の回心を得る。
 その出来事のあと、小説の最後で、トニオは北の国から「南の楽園で暮らす」リザヴェータに手紙をしたためる。「あの言葉がどれほど的を射ていたか、君にはわかっていたでしょうか。僕の一般人気質と「人生」への愛とが、どれほど分かちがたいものであるかを」と。
「平凡なもののもたらす喜びへの憧憬以上に甘く、価値のある憧憬などない――そう感じてしまうほどに深い、運命によって否応なく定められた芸術家としてのあり方も存在するのだということを」
 平凡なものへの憧憬を抱きつつ、芸術家としての道を歩む、そういう人間もいるのだ。俗人でない芸術家、「誇り高く冷徹な」芸術家に感嘆の念を抱きはするけれど、けっして僕は羨みはしない、とトニオはいう。「人間的なもの、生き生きとしたもの、平凡なもの」に対する俗物的な愛情こそが、自分を自分(という芸術家)たらしめているものにほかならないのだ、と。
 リザヴェータへの手紙の結びの部分は、みごとな訳文とあいまって美しく感動的だ。


「僕が成し遂げたことなど、なにもありません。ほとんど無に等しいわずかなものです。リザヴェータ、これからはもっと善きものを創り出します。――これは約束です。これを書いているいまも、海の轟きがここまで響いてきます。僕は目を閉じます。すると、いまだ生まれぬ茫洋とした世界が、秩序と形式を与えられるのを待っているのが見えます。うごめく人間たちの影が、呪縛を解いて救いだしてほしいと僕に手を振るのが見えます。悲劇的な人物、滑稽な人物、または悲劇的かつ滑稽な人物たち。彼らに、僕は大きな愛情を抱いています。けれど、僕の最も深く、最もひそやかな愛は、金髪で青い目の人間たちに向けられているのです。明るく生き生きとした、幸せで、愛すべき、凡庸な人たちに。
 リザヴェータ、どうかこの愛を非難しないでください。これは善き愛、実り多き愛です。そこには憧憬があり、憂鬱な嫉妬と、少しばかりの軽蔑と、純真そのものの幸福があるのです」


「金髪で青い目の人間たち」とトニオが書くとき、トニオの脳裡にあったのは、少年のころに愛したハンスとインゲだった。トニオは、北の国デンマークの滞在先で、成長したハンスとインゲに思いがけず遭遇する。この出来事がトニオに回心をもたらし、トニオはいわば「再生」の道を歩みだす。リザヴェータへの手紙はその決意をしたためたものである。
 小説の語り手は、トニオの出遭いの衝撃を読者もまた分かち合えるようにと、この男女を「ハンスとインゲ」の名で呼ぶ。だが、出遭いからしばらくあとのダンスパーティの場面では、このふたりが「ハンスとインゲ」であるのは、特徴や服装が似ているからというより、同じタイプに属する人間であるからであり、「インゲはハンスの妹なのかもしれない」という。目の前でカドリーユを踊るインゲに、トニオは十六歳のころ、おなじくカドリーユを踊るインゲを目にして想起したシュトルムの詩の一節「僕は眠りたい、けれど君は踊らずにいられない」(「ヒヤシンス」)をまたなつかしく思い出す。君は踊ればいい、だが僕のいる場所はそこではないのだ、と孤独に思った日のことを。憧憬と、憂鬱な嫉妬と、少しばかりの軽蔑と――あの日の感情がよみがえる。「あのときと同じように、トニオは幸せだった。なぜなら、トニオの心は生きていたからだ」。
 浅井晶子の訳文は、従来の翻訳よりも、ここで一歩踏み込んだものになっている(「この文章には私の解釈が多分に入っている」)。ダンスパーティの場面で、トニオはかつて恋い焦がれたふたりに熱いまなざしを送る。
「いま目の前にいるふたりがハンスとインゲボルクそのものに見えるのは、個々の特徴や、服装が似ているからというよりは、むしろ彼らが人間として同じタイプ、いわば同じ人種に属するせいだった」
 従来の翻訳、たとえば実吉捷郎訳(岩波文庫)では「その二人がハンスとインゲボルグだというのは」であり、高橋義孝訳(新潮文庫)では「この二人がともに彼を悩ませたのは」であり、比較的新しい平野卿子訳(河出文庫)では「このふたりがインゲボルクとハンスだというのは」となっている。
 浅井晶子は「訳者あとがき」で、この箇所の原文を直訳すると「彼らがそれ(es)なのは……個々の特徴や服装の類似のためというよりは……」であり、esをどう解釈するかによって訳文は変ってくるけれども、論理的にいえば目の前のふたりがハンスとインゲに似ているのはと解釈すべきだろうと述べている。平野卿子も「訳者あとがき」で、「実際にハンスとインゲに再会すると思っていた人が多いことにあらためて気づいた」と書いている。ドイツ人に尋ねても再会したと思っていたという返事がいくつか返ってきたそうだから、必ずしも翻訳のせいとはいえないが、高橋義孝訳は実際に再会したと解しており、「このふたりはたぶん兄妹なのだろう」(平野卿子訳)という箇所を、「ハンスは自分の妹らしい若い女の横に腰を下ろしていた」というふうに、インゲのほかに「若い女」を登場させて辻褄を合わせている。新潮文庫で読んだ読者は、トニオはハンスとインゲに再会したと思ったにちがいない(ちなみに、浅井晶子も平野卿子も「兄妹なのかもしれない」という箇所をトニオの内心の声としていわゆる「自由間接話法(体験話法)」と解しているが、実吉捷郎、高橋義孝はともに語り手の声としている)。


 ここで、訳文を離れて小説のプロットとして考えてみるとどうだろう。ハンスとインゲが恋人同士、あるいは夫婦としてトニオの前に現れたとしたら……。おそらく、ふたりを見るトニオの目もまた違ってきただろう。かつて愛したふたりが目の前で仲睦まじくしている。かつての「憂鬱な嫉妬」は、別種の嫉妬にとってかわり、「あのときと同じような幸せ」は感じられなかったかもしれない。小説の構成、力点のバランスも微妙にかわってきただろう。「ハンスとインゲ」に思いがけず遭遇したトニオは、おそらくすぐにかれらが別人だとわかったにちがいない。きわめて似ているけれど、別人であるからこそかつて愛したハンスとインゲのおもかげを重ね合わせて、当時の真情――「憧憬があり、憂鬱な嫉妬と、少しばかりの軽蔑と、純真そのものの幸福があった」――がありありとよみがえるのだ。 
「言葉によるソナタともいわれるこの作品には、ライトモチーフ(ある人物や状況について一定の表現をくり返す手法)や対句的な表現が数多く使われているが、それはごく細かなところにまで及んでいる」と平野卿子が指摘する反復はいたるところで目についた。インゲに思いを寄せるトニオを遠くから見つめる女の子マクダレーナは、のちのダンスパーティの場面で、トニオに視線をそそぐ少女として反復される。ふたりはともに黒い瞳をもち、ダンスの最中に転ぶのである。

     ***
はてなダイアリー」が来年終了するそうなので、いずれ「はてなブログ」へ移転しようかと思う。このところ更新が間遠になっているけれども、いましばらくは気がむいた時に雑文を書く場所を確保しておくつもり。「はてなブログ」へは「はてなダイアリー」からリダイレクトされるようなので、新居へは迷わずお越しいただけると思う。


トニオ・クレーガー (光文社古典新訳文庫)

トニオ・クレーガー (光文社古典新訳文庫)

トーニオ・クレーガー 他一篇 (河出文庫)

トーニオ・クレーガー 他一篇 (河出文庫)

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ぼくの叔父さん、伊丹十三



 鉛筆キャップってあるでしょう? アルミニウムでできてて、キャップっていってもけっこう長いのね。そうねえ、鉛筆全長の3分の2ぐらいはあるかな、長さが。鉛筆って、ちびるでしょ。使ってると、だんだん。で、3センチぐらいになると、持てなくなるわけよ。いや、持つことは持てるんだけどさ、字を書きにくくなるわけね。そうすると、出番になるわけです。鉛筆キャップの。譬えていうならね、いつ出番が来てもいいように、ベンチの裏で素振りを欠かさない代打専門の選手みたいなわけよ。7回裏ぐらいになると、さあそろそろだ、と素振りにも熱がはいる、と。そこでお呼びがかかるわけね、鉛筆キャップに。で、おもむろに、ちびた鉛筆の後ろに差し込むと、あら不思議。ちびた鉛筆が元の長い鉛筆に早変わり。べつに不思議でもなんでもないんだけどね。
 要するに、ここにわれわれ日本人の思想が集約的に表現されているわけだね。ちびた鉛筆は使えない。だけど、捨てるにはしのびない、と。ね? まだ工夫すれば使えるはずだ、と。ほら、歯磨きチューブもね、最後、まだ中身が残ってるのに絞れなくて、捨てるに捨てられないでしょ。昔はね、歯磨きチューブ絞り器というのが発明されて、それを歯磨きチューブにつけて最後の一滴まで絞り出したものです。え?いまでもあるの、歯磨きチューブ絞り器。ほう、それはそれは。
 つまり、この倹約の思想というものが、江戸時代から連綿と庶民のあいだに生き続けてきたわけね。石田梅岩という人がいて、カレがこの倹約の思想というものを説いたわけです。まあ、当時は鉛筆も歯磨きチューブもなかったからね、障子紙を新しく貼り換えたら、古い障子紙はトイレットペーパーにしなさい、とか、まあそんなような教えです、ひと言でいうと。『齋家論』という本に書いたら受けてベストセラーになったんだね、これが。それが江戸時代から明治大正昭和と、親から子へと伝わってきた、と。ものを大事にしないとバチがあたるぞ、と。親は子どもをオドすわけね。だから、お弁当を食べるときも、まず、弁当箱の蓋の裏にこびりついた御飯粒をお箸でこそぎ落して食べる、と。それから、おもむろに本体にとりかかるわけね。ひとつの米粒のなかには7人の侍、じゃなくて神様がいる、と。どれだけ小さい神様なんだか。
 それから、買ったばかりの新しいマーガリンというのも悩ましいものでね。蓋を取ると、マーガリンの上にアルミホイルのようなものが貼ってあったりするでしょう。そのアルミホイルを剝がすと、アルミホイルの裏に微量のマーガリンが附着していたりするわけね。で、スプーンでそのマーガリンをこそぎ落とす、と。マーガリンのついたアルミホイルをそのまま捨てたりすると、バチがあたる、と。なんともイジマシイと思わなくもないけれど、それが習い性になっているわけですね、われわれ日本人の。
 この日本人の精神の奥深く、ほとんど無意識のレベルにまで浸透した倹約の思想というものをですね、佐多稲子さんがみごとに描いています。「水」という短篇小説です*1。一度お読みになるといい。いやあ、しかし、あるんですか、いまでも。歯磨きチューブ絞り器。ふーん。

 
 伊丹十三の「没後20年の単行本未収録エッセイ集」が刊行された。もう20年になるのですね。光陰矢の如し。つらつら読んでいると、わたしの精神の奥深くに眠っていた伊丹十三がむくむくと起き出してバイブレーションを始めた。それが上の文章です。早い話が文体模写ですけど。本のタイトルは『ぼくの伯父さん』。伊丹さんが編集した雑誌のタイトル「モノンクル」ですね。2005年に出た『伊丹十三の本』*2の帯には《「ぼくの叔父さん」は、こういう人だった――。」》というキャッチコピーがある。「伯父さん」か「叔父さん」か。なんでもよく知っていて、ちょっと遊び人風でもあり、悪い遊びも教えてくれたメンターといえば、父の兄ではなく弟でしょうね、やっぱり。


 写真は『ぼくの伯父さん』より、伊丹十三愛用の文房具。


ぼくの伯父さん 単行本未収録エッセイ集

ぼくの伯父さん 単行本未収録エッセイ集

*1:id:qfwfq:20090516

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なんだなんだそうだったのか、早く言えよ



「なんだなんだそうだったのか、早く言えよ」は、加藤典洋さんの本のタイトルだけど、わたしも時折りそうつい呟いてしまう出来事に遭遇することがある。知らぬは亭主ばかりなり。わたし以外には、周知のことなのかもしれないけれど、立て続けに遭遇したふたつの事柄について書いておきたい。
 先週のこと、新聞でジョン・ネイスンの『ニッポン放浪記』という新刊本の広告を見て、「ああ、やっと翻訳されたのか」と思った。ネイスンは、加藤さんの『小さな天体』という本に出てくるカリフォルニア大学サンタバーバラ校の「同僚」で、三島由紀夫の評伝*1の著者として知られる。『ニッポン放浪記』は、以前、ここで『小さな天体』についてふれた際に、翻訳されるといいなあと書いたことがあるネイスンの回想録Living Carelessly in Tokyo and Elsewhereである *2
 ちょうど都心に出かける用があったので、書店に立ち寄って購入した。ちなみにその日は、三島由紀夫自決の日の2日前だった。47年前か。あと3年で三島も著作権が切れるんだな、と感無量。
 『ニッポン放浪記』は、寝る前に1章ずつ読んでいる。「おお」と思ったのは第3章の『潮騒』について書かれた個所。ネイスンは「三島の書斎でこの小説の純粋さ、その無垢な素朴さにどれほど心動かされたか」について熱弁をふるった。すると、


 「三島は私に最後まで話をさせてから、笑ってこう言い放った。「あれは読者を騙したんだよ。こうやって書いたのさ」。三島は左手で目をおおい、右手を体の正面に出し、ペンを握ってサラサラと書くふりをした。私は無邪気さをむき出しにされ、呆然とした。この後でもう一度『潮騒』を読みなおしてみると、そのラブシーンは、プルーストとおなじように、同性愛の幻想をカモフラージュした場面なのだと強く感じられた。」


 「なんだなんだそうだったのか、早く言えよ」。ネイスンの三島の評伝では、『潮騒』は「読者への冗談」であり、三島は「その冗談がうまくゆきすぎたにちがいないと痛恨の念を」示した、と仄めかされているだけである。そのくだりの前に「『潮騒』は、三島が書いた唯一の倒錯的でも諷刺的でもない恋愛小説である」とも書かれており、その「冗談」は「倒錯的でも諷刺的でもない」何かを意味するように読みとれる。
 わたしは同性愛を「倒錯的」と思わないが、三島が「痛恨の念」を示したというのなら、読者にその「寓意」を享受してほしいと願っていたのだろうか。『私の遍歴時代』で三島は、『潮騒』の「通俗的成功と、通俗的な受け入れられ方」に冷水を浴びせかけられたと述懐しているので、「ちぇっ、わかってねえな」といささか不満には思ったのかもしれないけれど。そのうちに『潮騒』を読み返してみよう。


 もうひとつは、先頃、刊行が始まった岩波文庫の『源氏物語』。校注のメンバーを見て、以前の文庫の改版ではないだろうとは思ったけれど、源氏なら「新潮日本古典文学集成」版を持ってるしなあ、と思って横目で通り過ぎていた。文庫版の原典よりも、このところ文庫版が出始めた林望の『謹訳 源氏物語』が「改訂新修」とも謳われているので、こちらを購入することにした。
 と、思っていたところ、「リポート笠間」*3の最新号が届いて、岩波文庫版源氏の書評が載っていた。評者は法政大学の加藤昌嘉氏。のっけから、これは岩波の新体系版全5巻を文庫化したものだが「大幅に加筆され修正されていて、別のテキストが誕生したと言ってよい」と書かれている。「なんだなんだそうだったのか、早く言えよ」。
 校注については、数ヵ所の「ユニークな注」が紹介されていて、たとえば「帚木」巻で、光源氏紀伊守邸を訪れた場面の「思ひ上がれるけしきに聞きおき給へるむすめなれば」の「むすめ」を、従来の注釈は「空蝉」と解していたが、本書では「のちに軒端荻と呼ばれる、紀伊守の妹。別解に伊予介の後妻である空蝉」としている。これは最新研究の「主張を容れたもの」だそうだ。ちなみに、「新潮日本古典文学集成」版では空蝉としている。評者の加藤昌嘉氏も「私も“空蝉のことを「娘」と言うのかしら?”と疑問視していたので、今回、スッキリしました」と賛同している。
 あるいは、「若紫」巻の、光源氏藤壺との密会場面について、光と藤壺の「性交渉」はこれが初手だっかたどうかの「諸説紛々」についての「独自の見解」とか、新体系版では「生硬で説明不足の観があった」という「末摘花」巻の注への「しかるべき加筆」であるとかの目を瞠る注を取り上げて、さすが研究者だけあって簡にして要を得た書評である。
 この書評を読まなければ、通り過ぎたままだったかもしれない。最新の角田光代訳はまだ見ていないけれど、林望訳とも併せて、この新注文庫版と照合してみるのも一興か、とも思う。


ニッポン放浪記――ジョン・ネイスン回想録

ニッポン放浪記――ジョン・ネイスン回想録


源氏物語(一)桐壺―末摘花 (岩波文庫)

源氏物語(一)桐壺―末摘花 (岩波文庫)


*1:三島由紀夫 ある評伝』野口武彦訳、新潮社、1976

*2:id:qfwfq:20120211

*3:笠間書院のPR誌。年2回刊行で、無料(送料も)で郵送してくれるのでありがたい。定期購読をお勧めしたい。