われがもつとも惡むもの――高橋順子『夫・車谷長吉』を読む


 車谷長吉の小説を初めて読んだのは20年ほど前、たしか1996年前後だったかと思う。当時住んでいた京都市内の図書館の書架で見つけた『鹽壺の匙』(1992)を借り出したのが車谷の小説との最初の出遭いだったはずだ。『鹽壺の匙』は第一短篇集で、芸術選奨文部大臣新人賞と三島由紀夫賞を受賞しているからそれまでに名前ぐらいは目にしていたはずだがそのあたりの記憶は曖昧で、刊行後3〜4年経って出合い頭といった感じで手に取り、その独特の世界に惹かれて『贋世捨人』(2002)あたりまでは熱心に読んだ。『鹽壺の匙』を読んでみる気になったのは、塚本邦雄の短歌からタイトルが取られていたためだったろうか、それも定かではない。


 われがもつとも惡むものわれ、鹽壺の匙があぢさゐ色に腐れる (『日本人霊歌』)


 車谷の露悪的であけすけな私小説塚本邦雄の短歌の世界とはかなり径庭があるように思われたが、のちに物議を醸した「刑務所の裏」を掲載誌(「新潮」)で読み、車谷は学生時代に春日井建の『未青年』に心酔したと知ってなんとなく腑に落ちた。「刑務所の裏」は裁判沙汰となり、固有名詞を変えるなどしたうえ、別の短篇と合体して「密告」というタイトルで『飆風』(2005)に収録された。改作した「密告」では、春日井建の(『未青年』を含む)第二歌集『行け帰ることなく』の出版を企画した出版社の男が別人とされ、小説の末尾に、歌集はその出版社から出ずに深夜叢書社から上板された、と付け足しのように記されている。この程度のものならいっそ没にすればよかったと思わないでもないが、「刑務所の裏」を機に「私小説作家」の廃業宣言をしたから小説家として行き詰まっていたのかもしれない。
 短篇「漂流物」が1995年上半期の芥川賞候補となり(受賞したのは保坂和志の「この人の閾」で、車谷は保坂を忌み嫌い、芥川賞の選考委員たちの藁人形に丑の刻参りの五寸釘を打ったと小説に書いた)、96年に刊行された同作をタイトルにした第二短篇集『漂流物』が翌97年に平林たい子文学賞を受賞、長篇『赤目四十八瀧心中未遂』が98年の上半期の直木賞を受賞、そして単行本でいえば、98年の『業柱抱き』、99年の『金輪際』、2000年の『白痴群』、とこのあたりまでがピークで、書くべきものは書き尽したのだろう。


 車谷長吉とは一度すれ違ったことがある。高橋順子の『夫・車谷長吉』を読んでいて、古い記憶がよみがえってきた。車谷は大学を卒業した後、しばらく雑誌「現代の眼」(現代評論社)の編集部に勤めていたことがある。エッセイに総会屋の手下をしていたと露悪的に書いているが、版元の経営者が総会屋で内容は左翼論壇誌である(わたしは車谷が編集部にいた頃、「現代の眼」を毎号購読していた)。その後、会社を辞めて東京を離れ、関西の料理屋を転々と流浪する。その頃の体験が『赤目四十八瀧心中未遂』に生かされているのは周知のとおり。その後、ふたたび上京して、西武セゾングループに職を得る。『夫・車谷長吉』に「(96年4月27日)長吉の取材のため、セゾングループで面識を得た東大経済学部教授の橋本寿朗氏に氏の古里・埼玉県加須を案内していただく。この方は学生時代剣道部で、正眼の構えをもってしたが、車谷さんの小説は横にはらうヤクザ剣法だね、と言ったそうだ」の記述がある。わたしは当時勤めていた出版社の仕事で橋本寿朗を知り、2002年に55歳で急逝した橋本の葬儀に参列した。葬儀には車谷夫妻も参列しており、「ああ、車谷長吉がいる」と思った。車谷は冬場にいつも着ているという綿入れ半纏を着用し、場にそぐわない異様な雰囲気を醸していた。
 この本でもう一つ「ああ」と思ったのは、高橋順子の所属する詩誌「歴程」の例会が神田神保町の喫茶店「ペコパン」で行われていたという記述で、「(2000年)五月五日、長吉も気に入って時々訪れていた神田神保町の喫茶店「ペコパン」のマダム、山田祐子さんが乳癌のため亡くなった。まだ六十前だった。濃やかな気づかいをする人で、ビルの地下にあるお店を花でいっぱいにしていた」とも書かれている。
 わたしは二十代の終わり頃、神保町にある編集プロダクションで仕事をしていた。すずらん通りから少し横道に入ったところにあった「ペコパン」で、昼休みに時折り珈琲を飲んだ。静かで落ち着きのあるカフェで、壁にフランス映画の大きなポスターが貼ってあった。ある時、ウェイトレスが運んできた珈琲をわたしの膝にぶちまけた。マダムはいたく恐縮した。それを機に、というわけでもないけれど、すこし距離が縮まったような気がして、知り合いから託された映画の前売り券を厚かましくもマダムに預かってもらったりした。
 神保町での仕事が終わると足が自然に遠のいたが、十数年後に勤めた出版社の同僚の女性が、多摩美の学生時代に「ペコパン」でアルバイトをしていたと言った。彼女はわたしより二十も年下なので、わたしが通っていた頃よりずいぶん後のことになるけれど、奇遇に驚いた。映画のチケットを売ってもらったという話をしたら、「ママは映画評論家の山田宏一さんの奥さまなのよ」というのでさらに驚いた。その出版社に勤める前に携わっていた映画雑誌の編集でわたしは山田宏一さんと毎月のように会っていた。山田さんとの会話に「ペコパン」の名が出たことは一度もなかった。
 『赤目四十八瀧心中未遂』が直木賞を受賞したとき、なぜ直木賞かと不思議な思いをしたけれど、あらかじめ直木賞に照準を合わせ、「新潮」に預けていた原稿を取り戻して加筆の上、「文學界」に連載したそうだ。この小説を読んだとき、異様な迫力のある傑作と思ったが、それまでの車谷の私小説にくらべると筋立てがいささか作り物めいていると感じた記憶がある。直木賞を獲るためだったのかもしれない。車谷は「九十パーセント作り物だ」と高橋順子に語ったという。2010年、全3巻の『車谷長吉全集』が三浦雅士の斡旋で新書館より刊行される。車谷は「死ぬ準備」と語っていたそうだが、堅牢な函入りの全集は墓標のようにも見える。これ以降、小説に手を染めることはなかった。
 『夫・車谷長吉』の奥付の日付は、2017年5月17日、車谷長吉三回忌の当日である。享年六十九。


夫・車谷長吉

夫・車谷長吉

日が暮れてから道は始まる



 過日、久しぶりに所用で都心に出かけ、午後すこし時間があまったので古本屋を覗いてみることにした。JR中央線荻窪駅前のささま書店。かつて国分寺に住んでいたころは通勤の帰りに週に一度はかならず立ち寄っていた店だ。百円均一の本を一冊レジにもってゆくのは気が引けて一度に数冊買うのが恒例だった。ときには両手に抱えきれないほど持ち帰ったこともあった。家中に本があふれ、引越しのさいに本を退かすと積み上げた本の重みで床が抜けていたことは以前書いたことがある。
 数年ぶりのささま書店は相変らずわくわくする魅惑に充ちていた。あれもこれもとほしい本は何冊もあったが、いずれ大量に本を処分しなければならないのでこれ以上増やすわけにゆかない。厳選してとりあえず四冊に絞って購入。まずは店頭の百円均一から一冊、山崎昌夫『旅の文法』(晶文社、1976)を拾う。かつて持っていたはずだが引越しの際に処分したのか見当らない。どこかに埋もれているのかもしれないけれど。
 ぱらぱらと立ち読みしていると、クレリチの「水のないヴェネツィア」のモノクロ図版が目に飛び込む。キャプションに《裸にされた花嫁。骨だけの女神。「亡霊のような廃墟のヴェネツィアが、砂に埋もれた潟(ラグーン)の上に涸上っている」(ホッケ)。百年の恋がさめる。》とある。本文のタイトルは「籠絡の装置・ヴェネツィア」。プッサン、カザノヴァ、シャトーブリアン、マン、ワグナー、リルケマリネッティ、そしてサルトルたちのヴェネツィア、とテクストは例によって引用の織物。博識の百科全書派で、名前のよく似た山口昌男と気質的にも相似たところのある人だったように思う。巻末に附された三十頁余におよぶ詳細な「注と参考文献」など、山口昌男の『本の神話学』の向こうを張ったものにちがいない。
 1934年生れ、新潟大学を卒業後、生保会社、出版社を経て、「社会新報」編集部の記者となり、かたわら新日文の会員として多くの評論・エッセイを執筆し、79年病没。没後、「社会新報」一面の連載コラム「視点」が友人たちの手で一冊にまとめられた。別刷りの冊子に関根弘、長谷川龍生、松田政男ら十三名の追悼文が収められている。この『視点――山崎昌夫の遺したもの』(『視点』刊行委員会、1982)は、いまでも書架の見えるところにある。ドイツ文学者平井正の旧蔵書で、追悼文を寄せた平井に宛てた刊行委員会の手紙が挟まれていた。
 山崎昌夫には、わたしが書評新聞に勤めていたころに幾たびか会ったことがある。『旅の文法』が出版された早過ぎる晩年のころだった。『視点』の口絵にポートレートが掲げてある。三十代初めのころだろうか、穏やかな微笑をたたえた若々しい写真だ。わたしが会っていたころは、もう頭髪はほとんど白くなっていた。温厚な人柄でわたしは好きだった。


 店内、詩集のコーナーを物色し、足立巻一詩集『雑歌』(理論社、1983)を見つける。足立巻一は『やちまた』を初め『紅滅記』『夕暮れに苺を植えて』『評伝竹中郁』『夕刊流星号』『戦死ヤアワレ』『親友記』といった評伝・小説、それにエッセイ集『人の世やちまた』『日が暮れてから道は始まる』など主要な著作はほぼ持っているけれど、単行詩集はこれが初めて。足立巻一−伊藤正雄−岩本素白という繋がりもあるけれど、それだけでなく関心を持ち続けている著作家のひとり。『雑歌』より一篇「秋風」を引いておこう。

  *
  秋風

坂の途中のフランス料理屋で/ふたりの息子があるという五十歳の人妻に/難題を持ちかけられて困った。/あの人にはもう会わないほうがいいのでしょうか?/水ばかりをやたらと飲み/返答に窮したままにフランス料理屋を出/人妻と坂を登っていくと/若い夫婦がゆっくり坂をおりて来た。/男が赤ん坊を運命のように抱いている。

坂を登りつめると駅で/人妻とはそこで別れた。/電車のなかで理学博士に遭った。/真水(まみず)しか蒸発しないんです。/蒸発した真水は雨になって地球に戻ります。/そのとき雨は大気ちゅうの塵を運び/地表の物質の微粒子を川へ流し海へ送り/海は太陽熱によって鉱物を濃縮し/やがて海は死海よりも塩辛い沼となるでしょう。

真水しか蒸発しないとはなんと悲しい話だろう!/でもそれは遠い遠い未来ですと笑い/理学博士は大学のある駅でおりていった。/入れちがいに女学生が男友だちと乗りこんで来/頰ぺたを寄せて何やらはしゃぎつづけ/盛り場の駅であたふたとおりた。/電車は終着駅に近づき/午後の内海に沿って走りはじめ/窓から窓へと秋風が吹き抜ける。

  *
 足立巻一は1913(大正2)年生れ、わたしの亡父より3つ年上。1985年、72歳で病没。死の三年前に「遺言」をしたためている。
「死の時が、近づいたようだ。/そのとき、泣き悲しむな。すべては終わったのだ。葬儀は簡素に。/思えば幸福な一生だった。幼少年のころは恵まれず、戦争でも苦しめられ、戦後も苦労したが、晩年は幸運で平安だった。書きたいものはほぼ書きつくした。『評伝竹中郁』が残ったが、しかたがない。だれかが継いでくれるだろう。(以下略)」(東秀三『足立巻一編集工房ノア、1995所収)
 足立没後の1986年、『評伝竹中郁』は理論社より未完のまま刊行された。亡くなる年の1985年に「読売新聞」に連載された「日が暮れてから道は始まる」がほぼ遺稿となった。連載第一回に記された「つらいことだけれど/道は/日が暮れてから/ほんとうは はじまるのだ」は、わたしの座右の銘


 文学書の棚から『世にあるも 世を去るも――中村光夫先生追悼文集』(私家版、1989)を抜き出す。四六判上製・継ぎ表紙・貼函入、150頁ほどの瀟洒な本。明治大学大学院で中村光夫に教えを受けた人たち二十一名による追悼文集。中村光夫は明大に大学院が設置された1952(昭和27)年から81(昭和56)年まで専任教授として授業を担当した。
 当時の明大はといえば、目もくらむような名だたる教授がひしめいていた。寄稿者のひとり江口良一(1961年入学、小学校校長)によれば、ある日の午後は林達夫先生に芸術哲学の講義をサシで受け、その次にまた渡辺一夫先生に中世仏文講読演習をサシで受け、毎週ほとんど一人で佐藤正彰先生のヴァレリー講読を受けるといった具合。ほかに、鈴木力衛、淀野隆三、齋藤磯雄、唐木順三平野謙、西村孝次、柴生田稔といった面々が居並ぶ教授陣はちょっと比類がない。
 寄稿者にも、倉橋由美子(学生の時にデビューしたので佐藤正彰は彼女を「パルタイさん」と呼んでいたという)を初めとして、高田勇、嶋岡晨、矢野浩三郎といった著名な学者・詩人・翻訳家がいる。誰もが一様に木庭一郎先生(中村光夫)の「厳しさ」について語っているのだけれど、その裏には「心根のやさしさ」「優しい心づかい」があることを訴えずにはいない。ところが一篇、異様な文章が収載されていて、それは師弟関係がありながら中村氏を“先生”と呼ばない、なぜなら「フランス語についてもフランス文学についても何の学恩も受けていないからである」という一文に始まる。筆者は内海利朗(1953年入学、明大教授)。大学院の授業に白水社の『仏和中辞典』を持参するのは「御自宅でリットレを参照されたとしても院生の指導の仕方としてはあまりにお粗末」で、その後入学したパリ第三大学博士課程の院生指導を引合いに出して「中村氏の授業における身すぎ世すぎ的いい加減さを痛感した」と書く。
 冒頭の一文は反語かと思って読み進めていると、どうもそうではないらしい。体は大きく偉丈夫だったが顔付きは童顔というより容貌魁偉、「多少出っ歯で、色黒で、ちぢれっ毛」(実際そうなんだろうけど、ちょっと嫌味ったらしくありません?)、「そうした外見に似合わず小心ないしは細心で慎重な人」で、それは「NHKの若い美女を相手にしての文学講義などにもよく現われていた」(わざわざ「若い美女」と書くところが思わせぶり)。「ひとつひとつ言葉を選ぶような訥々とした話しぶりは正に氏の面目躍如たるものがある」につづけて「鈴木力衛氏がそばについていたとはいえ在仏中どんなフランス語を話していたのであろうか」は会話力の覚束なさを当てこすっているようにも読めますね。
 つづけて筆者は「このようにいわゆる美男でもなくまた決して器用な人でもなかった中村氏がどのような女性遍歴を経たか」の考察に移るのだけれど、それは「私などの詳らかにするところではない」ため、ただの推測にとどまる。そして、横須賀線の車内で「臈たけた若い美女同伴の中村氏と乗り合わせた」経験を披露する。筆者が声をかけると「中村氏は無言のまま仏頂面」でうなづき、「そのまま美女と共に逗子方面に向って去った」そうで、筆者は「なんと気の利かぬことを」と後悔したそうだが、この目撃譚をきっとあちこちで言いふらしたにちがいない。鎌倉の行きつけの料理屋の「老女」は「光夫さんは親切でやさしい人だった」と筆者に語ったが、「(そうした)中村氏の側面に接した思い出は老若を問わず特に女性たちにはあったかもしれないが私個人は皆無である」という。いやあ、笑った笑った。江戸の敵をここぞとばかり長崎で討ったのか、それとも高度なユーモアなのか、判然としないところが見事。前代未聞の追悼文である。この原稿を受け取った編集担当者(もちろん中村光夫の教え子)もさぞ困惑したことだろう。追悼文は二十六名に寄稿を依頼したそうだから、五名がなんらかの理由で執筆しなかったことになる。そのうちの何人かは、追悼文集を読んでこの手があったかと地団太を踏んだかもしれない。
 さて、最後の一冊は……もう充分ながくなったので、あとは御想像におまかせしよう。べつに珍しい本ではありません。


 「いのちたとへばちりぬるきはも――塚本邦雄論序説」につづいて、以前このブログに掲載した小説が伊吹文庫で電子書籍になった。上に書いたクレリチの「水のないヴェネツィア」を見返しに使っていただいた。わたしの偏愛する絵画である。関心のある方は以下のサイトへお立ち寄りくだされば幸いである(あ、閲覧は無料です。為念)。


http://neonachtmusik.wixsite.com/bookarts/h-shigel-ebook-shelf (専用棚)
http://neonachtmusik.wixsite.com/bookarts/copy-of-ebook-shelf-2 (塚本棚)

イッツ・オンリー・イエスタデイ――『騎士団長殺し』への私註


――「おそらく愚かしい偏見なのだろうが、人々が電話機を使って写真を撮るという行為に、私はどうしても馴れることができなかった。写真機を使って電話をかけるという行為には、もっと馴染めなかった」(第2部、283頁)




 村上春樹の新作『騎士団長殺し』は、発売早々から各紙誌に書評が掲載された。いくつかに目を通したが、おおむね似たような受け取り方だった。首肯できるものもそうでないものもあったが、そこになにかをさらに付け加えようという気にはなれなかった。ただ、読んでいてわたしがちょっと引っかかった点に言及しているものがなかったので、私註としてそれのみを書いておきたい。
 主人公の「私」は「その年の五月から翌年の初めにかけて」の九ヶ月ほどの出来事を数年後に思い返している。性的な交渉をもった人妻は四十一歳で、「私より五歳ほど年上」だったから、当時「私」は三十六歳だったことになる。 
 「私」は妻のもとを去り、ふたたび戻ってきて(ユリシーズの帰還か)いっしょに生活するようになってから数年後に東日本大震災が起こる。二〇一一年のことだ。「数年後」を二、三年後ととるか、五、六年後ととるかで時間に多少の幅が生じるが、中をとって仮に四年としておくと、この「九ヶ月ほどの出来事」は二〇〇七年前後ということになる。したがって、逆算すると「私」は一九七一年頃の生れである。
 何が言いたいかというと、この物語は現実の世界を参照枠としつつ、超自然的な出来事が現実の世界に侵入してくるという構造なので、現実世界は現実世界として動かしがたいものでなければならない。つまり、東日本大震災が二〇〇〇年や二〇一七年に起こってはならないし、ナチスが世界制覇を遂げてはならないのである。それはまた別の物語である。
 で、一九七〇年前後に生れた「私」には、作者村上春樹の考え方や実体験がかなり投影されており、読んでいると「私」=三十六歳とは思えないような箇所がちらほらと出てきて「おやおや」と思ったりすることになる。たとえばこんな箇所。


 「私は結局、その店で目についた二枚のLPを買った。ブルース・スプリングスティーンの『ザ・リヴァー』と、ロバータ・フラックダニー・ハサウェイのデュエットのレコード。どちらも懐かしいアルバムだった。」(第2部、222頁)


 『ザ・リヴァー』がリリースされたのは一九八〇年。「私」が十歳の頃である。十歳の頃に買ったとすれば相当ませていたことになるが、あるいは、十五歳の頃に買ったのかもしれない。ロバータ・フラックダニー・ハサウェイのデュエットのアルバムは一九七二年リリース。「私」はまだよちよち歩きなので、これはずっとのちに買ったのだろう。それにしても、好みがシブい少年だね。「You’ve got a friend」なんて、ほんとに懐かしい。わたしも大学生の頃、よく聴いたものだ。村上春樹は当時二十三歳ですね。
 上記の引用箇所にこういう文章が続く。


 「ある時点から私は新しい音楽をほとんど聴かなくなってしまった。そして気に入っていた古い音楽だけを、何度も繰り返し聴くようになった。本も同じだ。昔読んだ本を何度も繰り返し読んでいる。新しく出版された本にはほとんど興味が持てない。まるでどこかの時点で時間がぴたりと停止してしまったみたいに。」


 わたしもそうだ。新しい音楽や新しい本を聴いたり読んだりすることもないではないけれど、気持ちはどうしても昔へと向かってしまう。映画もそう。歳のせいですかね。
 あるいは、こんな箇所はどうだろう。


 「我々は一九八〇年代にFMラジオから流れていたいろんな音楽の話をしながら、箱根の山の中を抜けた。」(第2部、273頁)


 我々とは「私」と大学時代の友人・雨田政彦。二人は、ABCの大ヒット曲「The Look of Love」(1982年)が入ったカセットテープを聴きながら車で走っている。80年代といえば「私」や雨田は十代で、べつに不都合はないのだけれど、中学生時代を懐古していることになるわけですね。
 ブルース・スプリングスティーンの『ザ・リヴァー』といえば、こんな箇所がある。「私」はLPのA面を聴き終えて、裏返してB面をターンテーブルに載せる。「『ザ・リヴァー』はそういう風にして聴くべき音楽なのだ、と私はあらためて思った」。


 「B面の冒頭に注意深く針を落とす。そして「ハングリー・ハート」が流れ出す。もしそういうことができないようなら、『ザ・リヴァー』というアルバムの価値はいったいどこにあるだろう? ごく個人的な意見を言わせてもらえるなら、それはCDで続けざまに聴くアルバムではない。『ラバー・ソウル』だって『ペット・サウンズ』だって同じことだ。優れた音楽を聴くには、聴くべき様式というものがある。聴くべき姿勢というものがある。」(第2部、429頁)


 ビートルズの『ラバー・ソウル』(A面2曲目が「ノルウェイの森」)は1965年にリリースされた(日本では翌年)。ビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』は66年だ。「私」はむろん同時代に聴いたわけではない。1970年生れの選曲とは思えないけれど、「ごく個人的な意見を言わせてもらえるなら」、彼が初めて聴いたのはCDじゃないかしらん。それにしても、この「個人的な意見」というのは、村上春樹自身の意見のように聞こえませんか。


 この物語は誰もが指摘しているように村上の過去の作品のプロットのヴァリエーションなのだけれど、短篇小説を幾度も書き直しているように、村上は過去の長篇小説を違った視点からretoldしてみようと思ったのかもしれない。「そのとき樹上で、鋭い声で一羽の鳥が鳴いた。仲間に何かの警告を与えるような声だった。私はそのあたりを見上げたが、鳥の姿はどこにも見えなかった」(第2部、214頁)なんて『ねじまき鳥クロニクル』のまんまだしね。
 第一部が「顕れるイデア」、第二部が「還ろうメタファー」と題されているのは興味深い。初期の『1973年のピンボール』から村上春樹の小説は一貫してseek and findの構造を持っているが、それと同時に、超自然的な出来事が現実に侵入してくるという特徴がある。だが、現実と超自然的な出来事とは二元的なものでなく、物語のなかでは表裏一体なのである。


 「だってこの場所にあるすべては関連性の産物なのだ。絶対的なものなど何ひとつない。痛みだって何かのメタファーだ。この触手だって何かのメタファーだ。すべては相対的なものなのだ。光は影であり、影は光なのだ。そのことを信じるしかない。そうじゃないか?」(第2部、382頁)


 イデアからメタファーへ。これはネオプラトニズムか? あるいは、むしろグノーシス主義か? 〈光〉と〈闇〉の戦いは西欧のファンタジークリシェとして蔓延しているけれど、村上春樹的物語においては〈光〉の中の〈闇〉、〈闇〉の中の〈光〉といったambiguityに焦点が当てられる。「どんなに暗くて厚い雲も、その裏側は銀色に輝いている」(第2部、241頁)のだ。
 「白いスバル・フォレスターの男」も、おそらくは「私」の中の〈闇〉のメタファーなのだろう。


騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

「大西巨人の現在」というワークショップに出かけてみた



 生来の出不精にくわえ寒さにはからきし弱いので、もっぱら冬眠していた。このところすこし暖くなってきたので、啓蟄にはすこし早いが冬籠りから這い出して、九段の二松學舎大学で催された「大西巨人の現在――文学と革命」という公開ワークショップを聴講しに行った*1。午前中に行なわれた多田一臣先生の講演「『神聖喜劇』と万葉集」も聴きたかったが、朝10時半からなのでスルー。お目当てはスガ(糸圭)秀実「大西巨人の『転向』」。

 転向とは、文学・思想上においては、ある主義主張(イデオロギーではとりわけコミュニズム)を外圧により放棄することで、転向を論じたものとして吉本隆明の「転向論」や鶴見俊輔ら「思想の科学」グループの広汎な「共同研究 転向」などが知られる。「大西巨人の『転向』」というタイトルはなかなかにプロブレマティックで、こうした問題構制はかつて例のないものだ。周到に準備された90分におよぶスガ氏の講演を充分に咀嚼できていないけれど、行論の核にあるのはどうやら柳田国男らしい。というより、近々刊行されるという柳田国男論の構想・執筆過程で、大西巨人を柳田で読んでみるというアプローチが生まれたのかもしれない。

 
 大西巨人中野重治のように官憲によって転向を余儀なくされたわけではないし(学生時代に左翼運動で摘発された際に「偽装転向」があったとスガ氏は推測しているが)、また戦後、日本共産党を「除名」されたが、亡くなるまで原則的にマルクス主義を放棄しなかった(マルクス主義を放棄したのは日共であるともいえるわけだが)。スガ氏はこの講演で転向をもうすこし広い意味、いわばカントにおける認識論的転回のようなものとしてとらえており、したがってそれは特殊日本的なものでなく歴史的に普遍的な現象であるという。彼ら(「転向者」)は、自分が考えていた人民もしくは大衆など一種のファントムにすぎないということがわかった。そこで彼らが見出した(あるいはすがりついた)のが柳田国男のいう「常民」だった。これは、「転向者」たちがなぜ柳田国男に親炙もしくは私淑したのか、それを柳田の「常民」概念を介して「転向のコンステレーション(布置)」として捉え返してみようとする試みといえるだろう。
 これは、メモもとらずに聴いた講演を当日配布されたレジュメに基づいて、わたしの理解したかぎりにおいて要約したものなので、誤解もしくは歪曲もあるにちがいない。大西における「転向」の事訳はわたしに必ずしも説得的でない。いずれ長篇評論もしくは単行本として上梓されるのを期して俟ちたい。


 スガ氏の講演で、ひとつ気になったのは、大西巨人村上一郎と短歌の嗜好がまったく同じだと二度にわたって強調されたことである。だがそれはわたしに疑問なしとしない。大西巨人村上一郎に書簡のやりとりがあり(ワークショップ会場にも展示されていた)、また、『神聖喜劇』に登場する青年将校村上少尉の命名村上一郎に由来するとスガ氏は述べている*2。 
 二人のあいだに交流があったことはたしかだし、いずれも一時期、日本共産党に所属していた。日本浪漫派・前川佐美雄・齋藤史にかんして共通の嗜好を伺うこともできる。だが、大西の短歌における好尚は村上のそれと必ずしも一致しない。大西の好んだ近現代の歌人は主として、白秋、牧水、海人、そして茂吉、赤彦、憲吉、文明といったアララギ派歌人たちである。以前、「塚本邦雄論序説」で書いたように、前川佐美雄や齋藤史が編輯同人である「オレンヂ」(戦後「日本歌人」を改称して創刊した歌誌)に大西巨人も出詠していたが、同じころ出詠していた塚本邦雄や山中智恵子について大西の著作における言及はない。
 一方、村上一郎はいうまでもなく山中智恵子の歌集『みずかありなむ』の編者であり、塚本の短歌への評価もある。というより、村上は塚本・山中にかぎらず、現代短歌に伴走した批評家であり、村上と短歌とのかかわりは深浅でいえば大西のそれよりもずっと深い。前川・齋藤の歌は、大西・村上のみならず他の多くの歌人・文学者をも惹きつけたわけで、それをもって二人の嗜好の共通性を言い立てるのは無理があろう。スガ氏とは講演の前にすこし立ち話をしたが、講演後は話す機会がなかったので、ここに記しておく。 


 ワークショップ会場で「二松學舎大学人文論叢」抜刷りを配布していたのでありがたく頂いて帰る。第88輯「大西巨人氏に聞く――『神聖喜劇』をめぐって」(聞き手:田中芳秀、橋本あゆみ山口直孝)と、第89輯「大西巨人氏に聞く――作品の場をめぐって」(聞き手:石橋正孝、橋本あゆみ山口直孝)。それぞれ、2011年と12年に行なわれたインタビューを起こしたもので、いずれも2012年に発行されている。
 第88輯では、「安芸の彼女」にはモデルになった女性はいないが、鷗外『渋江抽斎』の最後の妻・五百のイメージは揺曳しているという証言、それと齋藤史の短歌をめぐる禅問答めいた「革命的ロマンティシズム」論議が面白かった。第89輯では、大西巨人の作品には神社が頻出する、それもなにか事件が起こったりするトポス(場所)として、あるいは、虚無的な心情と結びついた形で神社が舞台となる、という石橋正孝氏の鋭い指摘に興をおぼえた。大西は、その指摘ないしそれにまつわる質問にたいして、どこかはぐらかしているような印象を受けるが、それは意図的なミスティフィカシオンではないだろう。おそらく大西にとってそれは無意識の領域に属するのだろうと思う。
 小説家は設計図を書くように、あるいは設計図に基づいて小説を書くのではなく(そういう小説家もいるだろうが)、自分の無意識を掘り起こしてゆくように小説を書くものだ。暗闇のなかを手探りで進むように、一行が次の思いがけない一行を生みだし、それまで思いもかけなかったことが文章として紡ぎだされてゆく。このインタビューがうまく噛み合わなかったとすれば、それは、大西なら小説の隅々まですべてを意識化して書いているはずだという思い込みが聞き手の側にあったからではないか、という気がするのだがどうだろう。


 さて、上述した「塚本邦雄論序説」がこのたび電子書籍になった。塚本邦雄の特装本を制作されている伊吹文庫の刊行で、一般に配布するものでなく無料で閲覧に供するのみ。関心のある方は以下のサイトへお立ち寄りくだされば幸いである。塚本邦雄の美しい稀覯本もぜひ御覧いただきたい。
 http://neonachtmusik.wixsite.com/bookarts/copy-of-ebook-shelf-2

天皇制の隠語

天皇制の隠語

*1:http://www.nishogakusha-u.ac.jp/eastasia/ea_h28workshop.html

*2:天皇制の隠語』(航思社)に、「村上一郎市民派マルクス主義」の副題のある村上一郎論「暴力の『起源』」がある。

一期は夢よ ただ狂へ――梯久美子『狂うひと』


――おひさしぶり。最近どうしてる?
――浦の苫屋の侘び住まい。
――なにそれ。
――酒も薔薇もなかりけり。あいかわらず本と映画の日々ですよ。たまに仕事を少々。
――最近、なにか面白い本読んだ?
――遅ればせながら『狂うひと』を読み終えたばかり。
――島尾ミホの評伝ね。
――圧倒的だったな。六百頁をこえる大著で、眼疾の身にはこたえたけれど。
――どうすごいの?
――『死の棘』の夫婦には一種神話化されたところがあるでしょう? それを資料をもとに解きほぐして脱神話化する手腕に敬服した。
――たとえば?
――島尾敏雄の最大の理解者といわれる吉本隆明奥野健男、それに『死の棘』文庫版の解説を書いた山本健吉らによって、島尾夫婦にはある種のイメージができあがったわけだね。南の島を守るためにヤマトからやってきたマレビトと、巫女の血をひく島のおさの娘が結ばれる。だがやがて夫の不貞を機に妻は精神に異常をきたしてゆくという悲劇。島尾隊長と出会ったミホを吉本や奥野は「島の少女」と表現するのだけれど、ミホはそのとき25歳だったんだね。
――立派な大人の女ね。
――当時なら「行かず後家」と言われても不思議じゃない。島尾敏雄とは二つ違いだったんだからね。
――どうして少女って書いたのかな。
――「少女」という言葉の処女性が巫女につながること、それと、か弱さや幼さが守られるものというイメージに合致するためだと著者は書いている。ある種の神話的構図のなかに二人を押し込んだんだね。囚われたお姫様を救出にきた王子みたいなね。
――いかにも男の評論家が書きそうなことね。
――でもそれが定着して、今に至るまで「少女」って書かれているそうだよ。それと、ミホは元をたどれば確かに司祭職につながる家系の養女だけれど、巫女じゃない。東京の高等女学校で教育を受けたインテリで、島ではひときわ目を惹くモダンガールだった。島尾敏雄と出会ったときは代用教員として子どもたちを教えてたんだね。
――「瀬戸内少年野球団」の女先生みたいね。
――奄美だからニライカナイの伝承と結びつけて神話化されたけれど、淡路島じゃそうはゆかなかったね。島の住民にどう受け止められたかはともかく、島尾隊長は島民を守るためにやってきたのじゃない。特攻基地は本土ヤマトの防波堤であり、ひとつ間違えば沖縄のように住民の集団自決もありえたんだからね。
――島尾が小説に書いているように、出撃直前に終戦になって命が助かるのね。島の人たちも。
――8月13日の夕方に特攻戦が下令され出撃を待機していたら、翌る14日にポツダム宣言を受諾するのだから間一髪だったね。島尾隊長が出撃したらミホは自決するつもりだった。
――終戦になって島尾隊長はどうしたの?
――ミホの親に結婚を申し込んで本土へ帰るんだけど、ミホが島尾を追って島を出たのは三か月後、闇船で嵐に遭いながらひと月かかって鹿児島へ着いたそうだよ。
――命からがらの航海だったのね。そうして二人は結ばれるんだけど、夫に愛人がいるのを島尾の日記で知った妻は精神に異常をきたす。
――『死の棘』冒頭のインキ壺事件をきっかけにね。だけど、島尾はミホが読むことを想定して日記を書いていたんだね。インキ壺事件のずっと前から、ミホは島尾の日記を読んで、書き込みまでしていたというんだからね。
――夫の日記に書きこむの?
――そう。それで徳冨蘆花を思い出した。あの夫婦も、妻が蘆花の日記を偸み読みして、日記に書き込んでいたらしいね。
――以前、あなたがブログに書いた『蘆花日記』ね*1
――そう、破天荒さでは甲乙つけがたい夫婦だねえ。ともあれ、島尾はミホが日記を読むことを知っていながら、いや、もっといえばミホに読ませるために愛人のことを日記に書いたんだ。
――なぜ?
――もちろん、小説に書くために。じっさいそのすぐあとで、それを題材にしたらしい「審判の日の記録」という小説を書き始めているんだから。島尾の誤算は、妻の嫉妬が予想外の長期にわたってあれほど精神を蝕む結果になると思わなかったことだろうな。まあ、おかげで『死の棘』という文学史に類のない傑作を残すことになったのだから、もって瞑すべしというべきかもしれないけれど。
――小説家の妻になんてなるもんじゃないわね。
――でもね、どうも妻のほうも夫に加担していたふしがあるんだ。
――どういうこと?
――愛人からの電報が届いたり紙片が郵便受けに入れられていたりするんだけど、それはミホが仕組んだ可能性がある。あるいは、島尾の自作だったかもしれない。さらにいえば、島尾の狂言を知ったうえでミホがそれに加担したのかもしれない。
――まさか。
――精神病院にまで入るのだから彼女が精神に変調をきたしたのは事実だけど、なにかに憑かれたような錯乱状態がコントロールできないまでに昂じたのかもしれないな。島尾はミホが読んだ日記のほかにもう一つ、裏日記というようなものも書いていたらしいんだ。息子の伸三さんが証言してるよ。そういえば、伸三さんが「知力も体力もある二人が総力戦をやっていたような夫婦だった」と評しているのが言い得て妙だな。
――妻を狂わせてまで小説を書くって、小説家の「業」みたいなものかしら。
――富士正晴が島尾の文学を「永遠につづく不安定志向の文学」だと書いているよ。「島尾は世界が安定していると窒息しそうになり、それに裂け目が出来そうになると、不安に満ちた息づかいになりつつも、それで却って落ち着く(安心するという意味ではない)というところがあるようである」と。
――やっかいな人ねえ。
――著者はその引用につづけて「ミホはミホで、自分が存分に狂ってみせることが、よどんで閉塞した状況に風穴をあけることになると、無意識のうちに気づいていたかもしれない」と書いているね。
―― 一種の共犯関係ね。『死の棘』の二人のたたかいって凄絶なんだけど、傍目にはちょっと滑稽でもあって、ひたむきに演じてるってところがあるわよね。
――総力戦でね。
――愛人についてはなにも書いてないの?
――『死の棘』の単行本が出たときにはすでに他界していたらしいね。著者は愛人の友人だった稗田宰子という人に会って話を聞くんだけど、女優の三宅邦子に似た知的な女性で、決してエキセントリックなタイプではなかったそうだ。この稗田宰子って、塚本邦雄と同人誌「メトード」をやってた稗田雛子のことでね。その後上京して、島尾やその愛人らと「現在の会」に所属するんだけど、大阪にいる頃から毛糸を使った織物などをつくって売っていた、とあって「ああそうか」と思ったな。彼女の「私とてジャケツ脱ぐ時ひとすぢの毛糸ぬぐとはさらさら思はぬ」という歌が好きでね。ああそれで毛糸か、と思ったわけ。余談だけど。
――愛人の女性はなにか書き遺してないの?
――小説も書いてたらしいけど、島尾とのことはなにも遺してないようだね。稗田さんは『死の棘』の一方的な書き方に憤慨してるよ。あの小説の「犠牲者」だと。
――そうよねえ、最後まで「あいつ」だものねえ。
――吉本隆明も「この愛人の女性がその後どうなったのか」を島尾は書くべきだった、それが文学だと著者に語っているよ。でも「犠牲者」といえば、いちばんの犠牲者は娘のマヤさんじゃないかな。聡明で快活だった少女が十歳で言葉を失うんだから。哀しいね。埴谷雄高は中学生の頃のマヤの「ものいわぬ無垢な魂」に深い感銘を受けたと書いているよ。「生の悲哀がかくも美しい静謐を内包していることを教えられた」と。
――むごいわね、文学って。
――文学がむごいんじゃない。生のむごさに目をそむけずに直視するのが文学なんだ。


狂うひと ──「死の棘」の妻・島尾ミホ

狂うひと ──「死の棘」の妻・島尾ミホ

*1:id:qfwfq:20090202

オンリー・コネクト――バッハマン、ツェラン、アメリー



 日がな一日のんべんだらりと過している。本を読み、映画を見、家事をし、また本を読む。その繰返しで一日が過ぎ、一週間が過ぎ、ひと月が過ぎる。時のたつのが早い。Time flies by. 時は翼をもつ。翼をもたないわたしは時に置き去りにされ呆然と立ちすくむ。


 「思ってもみないところで、思いがけない名を聞く」。わたしにも覚えがあることだが、これは長田弘の「錬金術としての読書」というエッセイの冒頭の一節だ(『本に語らせよ』)。
 長田弘が出遭った思いがけない名はインゲボルク・バッハマン。韓国映画『誰にでも秘密がある』(2004)で、チェ・ジウが本を読んでいる。それを見たイ・ビョンホンが声をかける。「インゲボルク・バッハマン?」。初めての出会いの場面――。
 韓国の若者がバッハマンを読んでいてもなんら不思議はないけれど、やはりちょっと虚を突かれるところがある。有村架純がバッハマンを読んでいたらどうだろう。ちょっとキュンとするかも。まあ、チェ・ジウ有村架純だからかもしれないけれど。
 長田弘は書いている。


 「バッハマンが不慮の死をとげたのは一九七三年。いくつかの忘れがたい詩と物語をのこしたきりのウィーンの詩人の名が、その名を知っている人ならば信じられるというふうにして、ソウルの映画の現在にさりげなくでてくるおどろき。」


 その本を好きな人ならきっと好きになる。あなたがどんな本を読んでいるか言ってごらん、あなたがどんな人間か言い当ててみせよう。


 バッハマンの短篇集『三十歳』の邦訳が出たのは1965年、白水社の「新しい世界の文学」シリーズの一冊としてだった。生野幸吉訳。前年には野崎孝訳のサリンジャーライ麦畑でつかまえて』が同シリーズで出ている。二冊目の邦訳、長篇小説『マリーナ』が1973年、これは晶文社の「女のロマネスク」シリーズの一冊だった。神品芳夫・神品友子訳。このシリーズではゼルダフィッツジェラルドの『こわれる』が青山南訳で出ている。そして30年後の2004年に『ジムルターン』の邦訳が出る。「バッハマンはいまも知られていないが、いまも忘れられていないのだ」と長田弘は書いている(2011年にはバッハマンの全詩集が中村朝子訳で青土社から出た)。
 『三十歳』はちょうど一年前に松永美穂による新訳が岩波文庫から出て読んだのだけれど、『ジムルターン』の邦訳が出ているのは知らなかった。Amazonで取り寄せる。こういう本は都心の大きな書店に行っても並んでいるかどうかわからない。『ジムルターン』は大羅志保子訳、鳥影社の「女の創造力」シリーズの一冊。バッハマンは「シリーズ」に縁が深い。
 まずは訳者あとがきに目をとおす。こういう箇所に目がとまる。


 「第五話のなかに、主人公エリーザベトが、フランス語の名前だが実はオーストリア出身でベルギーに住んでいる男性の『拷問について』というエッセイを読んだとき、トロッタが何を言おうとしていたのかを理解したという個所がある。」


 『ジムルターン』は短篇集で、第五話は「湖へ通じる三本の道」という集中もっとも長い作品。


 「そのエッセイを書いた当人のジャン・アメリーはこの個所を読み、『ジムルターン』について万感胸に満ちた書評を書き、バッハマンが埋葬される前日に手向けの一文を寄稿したばかりか、一九七八年十月十七日バッハマンの命日に、ザルツブルクで命を絶った。二人は直接会ったことはなく、純粋に文学を介しての交信であった。」


 『ジムルターン』は1972年に刊行されたバッハマン最後の作品集で、ドイツ批評界の大御所ライヒラニツキらに酷評されたが、読者に支持されたという。「本のなかに織り込まれていたかもしれない「遺言」を理解したのは、まさに読者自身であった」(訳者あとがき)。主人公エリーザベトはバッハマン自身が投影された人物で、拳銃で自殺する亡命者トロッタはセーヌ河に投身自殺する詩人パウル・ツェランがモデルとされる。バッハマンは22歳の初夏、シュルレアリスト画家エドガー・ジュネの家でツェランと知り合い恋におちた。


 ジャン・アメリー。「思ってもみないところで、思いがけない名」ではないけれど、バッハマンとアメリーとのつながりに一瞬虚を突かれ、すぐさま了解する。ああ、ジャン・アメリーか、と思う。
 W・G・ゼーバルトの批評集『空襲と文学』(鈴木仁子訳)に「夜鳥の眼で――ジャン・アメリーについて」がある。アメリーはプリーモ・レーヴィとおなじアウシュヴィッツの収容所にいたことがある(そして二人とも過酷な強制収容所生活を生き抜いたのちに自ら死を選ぶ)。ゼーバルトアメリーについてこう書いている。「彼は自身と自身のような人間に対して加えられた破壊に、戦後二十五年以上にもわたって、文字どおり頭を占拠されていた人間だったのである」と。そしてこうも書く。「いったん犠牲者になった者は、いつまでも犠牲者にとどまりつづける。『私は今なお宙づりになっている』とアメリーは書いている。『二十二年後の今なお肩の関節がはずれたまま、床の上にぶらさがっている』」と。
 アメリーが、肩の関節がはずれたまま宙づりになっているというのは、比喩であると同時に現実そのものでもある。後ろ手に縛られたまま鎖で床から1メートルの高さに宙づりにされ、アメリーの両肩は自分の重みで脱臼した。「拷問はラテン語の「脱臼させる」に由来する。なんという言語的明察だろう!」(アメリー『罪と罰の彼岸』)。
 バッハマンに話をもどせば、エリーザベトが(アメリーの)「拷問について」というエッセイを読んだあと、この小説はこう続けられる。


 「彼女はこの男性に手紙を書きたかったが、しかし彼に何を言ったらいいのか、どうして自分が彼に何か言いたいのか分からなかった。というのも明らかに彼は、恐ろしい出来事の表層を突き抜けるために多くの年月を必要としたらしかったからだ。そして僅かしか読み手がいないだろうと思われるこれらのページを理解するためには、ちょっとした一時的な驚愕を受け止めるのとは違った受容能力が必要だと思われた。なぜならこの男性は、精神の破壊という点で、何が自分に起こったのかを見つけだそうとし、また、どんなふうにして一人の人間が本当に変わってしまい、破壊された存在として生きつづけたのかを見つけだそうとしているからだった。」
 

 アメリーはこの箇所を読んで、百年の後に知己を得た思いがしたことだろう。そして、もしゼーバルトの文章を読むことができたとしたら、彼にたいしても。


本に語らせよ

本に語らせよ

ジムルターン (女の創造力)

ジムルターン (女の創造力)

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空襲と文学 (ゼーバルト・コレクション)

空襲と文学 (ゼーバルト・コレクション)

高原の秋運転手ギター弾く



 大西巨人に『春秋の花』という著作がある。古今の詩歌句あるいは小説や随筆の一節を掲出して短文を附したアンソロジーである。大岡信の『折々のうた』のようなスタイルの本ですね。なかに「よみ人しらず」の歌も古今集から選ばれているけれど、それとは少し意味合いの違う「失名氏」の作品もいくつか掲出されている。
 「失名氏」とは「筆者〔大西〕が作者名を失念していることの意」であり、こうした「失名氏」の作品が「私の脳裡にいろいろ存在する」とある。大西巨人の読者なら周知のことだけれども、常軌を逸した記憶力の持ち主である巨人氏は、たまたま目にした新聞の投稿欄の短歌や俳句までしっかり記憶にとどめてしまうのである。そうした詩文が『神聖喜劇』の東堂太郎のように、折に触れ、記憶の底からずるずると止めどなく溢れてくるのだから、本書をなすにあたって「記憶の中の詩文を言わば『アト・ランダム』に取り出すのであり、特別これを書くための調査・渉猟を試みるのではない」というのもさもありなん、である。
 本書に収められた「失名氏」に次の句がある。


  あぢさゐや身を持ちくづす庵(いほり)の主(ぬし)


 この句に附された文章がいろっぽくて、いい。


 「(略)二十一、二歳の私は、ある二十八、九歳の夫人に深い親愛をもって毎日のように逢っていた。夫人の家の庭隅に見事な一本(ひともと)の紫陽花があって、その花花の爛熟のころ、私は、ふと掲出句をくちずさんだ。「私も『身を持ちくづし』ましょうかねぇ。」とその必ず「身を持ちくづす」ことのないであろう綺麗な夫人が、ほほえんで静かに言った。言うまでもなく、私は、そのひとの手指を握ったことさえも、ついになかった。」


 その夫人は、『神聖喜劇』に出てくる「安芸」のひとではない。なにしろ、あちらは互いに「剃毛」する仲なのだから。艶福家ですねえ、巨人氏は。いや、『神聖喜劇』は小説ですけど。


 さて、最近読んだ小沢信男さんの『俳句世がたり』も、古今の俳句を掲出してそれに文章(短文というより、やや長めのエッセイ)を附した本で、おやと思ったのは次の句。


  高原の秋運転手ギター弾く


 作者は木村蕪城という人で「ホトトギス」系の俳人、のちに俳誌「夏爐」を主宰した、とある。昭和十六年(1941)の作で、当時二十八歳。信州八ヶ岳の麓の療養所で結核の身を養っていた頃の句。
 エッセイでは触れていないけれども、この句は小沢さんにとって元は「失名氏」の句だった。小沢さんの書簡体小説の傑作「わが忘れなば」に二つの俳句が出てくる


  高原の秋運転手ギターひく
  横顔の美しきひと金魚買う


 この句の作者についての探索が小説のプロットをなしていて、ほぼ一人語りの主人公が結核の胸郭成形術のために東大病院に入院していたときに人から聞いた句で、作者は信州信濃俳人だという。主人公は信州の高原療養所で一年ほど療養したあと、太宰治が情死した昭和二十三年(1948)に転院して手術を受けるのだけれども、このあたりは小沢さんの経歴と一致していて、『神聖喜劇』とおなじく主人公に自己を投影しているのですね。
 で、小説では句の作者はついにわからずじまいになるのだけれど、これは小沢さんの創作だろうとわたしは思っていた。ところがどっこい、小説発表の四半世紀後に「これは実は我が作で」という人が現れた。小沢さんの「高原の秋運転手」という文章からその顚末を簡単に紹介すると――。
 『長野県文学全集』第五巻に「わが忘れなば」が収録され、平成二年(1990)に刊行された。それを読んだ木村蕪城氏が「文芸家協会ニュース」の会員通信欄に随想を寄せられた。「たまたま先ごろ目にした小説に、自分の句を使って「無名な野郎の腰折れ」などと書いている、やれやれ。憮然とした文章であられた」と小沢さんは書いている。小沢さんはさっそくお詫びかたがた蕪城氏に手紙を送り、「文芸家協会ニュース」にもその経緯を書かれたという。
 ちなみに、この「高原の秋運転手」というエッセイは、『長野県文学全集』の版元でもある郷土出版社が刊行した『私たちの全仕事』(1999年・非売品)という700頁ほどの厚い本に収められている。もう十年ほどまえになろうか、古本屋でたまたま立ち読みしていてこの文章に出会って驚いたのなんの、即座に購入した。
 小沢さんは二つの俳句を手術中「呪文のように脳裏に唱えて危機を脱した」と書いている。「文芸は、まことにふしぎだ。偶然の一句が命の綱ともなる」と。だがそれにしても、
  横顔の美しきひと金魚買う
 この句の作者はいまだ不明である。いつかふいに「じつは」と名のり出る人があるやもしれない。ひょっとすると、二つの句を教えてくれた「商家の若隠居ふう」の人が作者だったのかもしれない、と小沢さんは書いているけれども。

春秋の花

春秋の花

俳句世がたり (岩波新書)

俳句世がたり (岩波新書)